路地の少年に任意同行を求め、承諾を得た鍋島と芹沢は彼とともに署に戻った。

「少年課か」

 少年に付き添うようにしてロビーからの階段を二階まで上ったところで、鍋島は自分より少し後ろからついて来ている芹沢に言った。

「ああ」と芹沢は短く返事をした。「呼んでくる」

 芹沢は階段のすぐ前の少年課に入っていった。鍋島と少年はその先の刑事課に向かった。


 芹沢がドアを開けると、刑事たちが一斉に顔を上げて自分を見たのに少し戸惑った。刑事課ほどの喧噪には包まれてはいないものの、補導された不良少年や家出少女の、まだ幼く甲高い声が部屋中を交錯しているのがこの課の特徴だ。しかし今は、よほどの札付きか不登校児でない限りは一応は学校が面倒を見てくれている時間であるせいか、あるいは子供と言えども問題行動を起こすのはやはり陽が落ちてからの方がやりやすいのか、とにかく今はほとんどの捜査員が自分のデスクに向かって事務仕事に精を出している様子だった。

「何や」

 少年課長の城戸きどあきら警部が言った。

「会議中か何かですか」

「いいや」

 課長は椅子に背を預けるとまじまじと芹沢を見上げた。

 他の刑事たちも、上司と同じように振る舞うことが良き部下の条件だと思っているらしい。それぞれの仕事の手を止め、黙って芹沢を見つめている。しかし芹沢にはもう戸惑いはなかった。敵意のような好奇のような、そんな意味を含んだ目で見られるのは馴れたことだった。そんなことは何もここの連中に限ったことではない。

 課長は老眼鏡らしき眼鏡を外して言った。

杉原すぎはらやったら休みやで」

 杉原というのはこの少年課の部長刑事で、芹沢とは比較的親しい間柄の人物である。そもそも芹沢が署内に友人と呼べる人間を作ること自体がめずらしく──相棒で腐れ縁の鍋島は別として──しかもその相手が、芹沢よりひとまわり近く年上で、署内で最も愛すべき人物の一人であり、また被害者にしろ加害者にしろ事件に関わった子供たちとその親からの人望厚い模範刑事とも言える杉原であることが、この課の連中にとっては不思議でならないらしい。

しかしそんな人物だからこそ芹沢のような絶望的な人間嫌い──表面ではその逆の好青年を装ってはいるが、それが虚像であることを人間観察のプロとも言える署員たちは見抜いていた──からも慕われ、また杉原刑事自身もこの屈折した精神の青年刑事を何の抵抗もなく受け入れているのだ。おとぼけでも何でもなく、大真面目にそれが理解できないようなら、西天満署少年課の未来は暗い。

「いえ、傷害の参考人聴取に同席願いたいんです」

「子供か」

「ええ。十四、五歳か、もう少し上かも知れません。少年です」

 城戸課長は眼鏡のつるを顎に押しつけながら一つ頷くと、自分のすぐ前の席の部下に振り返って言った。

「ヨネ、頼むわ」

 課長のご指名を受けたヨネこと米原よねはら比呂幸ひろゆき巡査部長は、手際よくデスクの上を片づけると、ドアを開けて待っていた芹沢に小さく頷き、黙って部屋を出た。芹沢も後に続いた。

 廊下に出ると米原が訊いてきた。

「――その子供がやったんか」

「分かりません。血だらけで現場近くにいたのを連れてきたんです。任同には応じましたが、どうも様子が虚ろなんで」

「マル害はどう言うてんねん。死んだんやないやろ」

「死んでませんが、重傷で病院行きです。マル害の女房が、自分がやったと──通報してきたのもその女房ですから」

「その子供は? その夫婦の息子かなんかか」

「それも分かりません。何も言わないんです。こっちもまだ何も訊いてませんし」

「女房が通報してきたて?」

「ええ」

「どこにいてるんや。連れて来たんか」

「そっちも病院です。死のうとしたのか、怪我してます」

「ふーん」と米原は怪訝そうに唸ると芹沢を上目遣いで見た。

「それで? おたくらはどう見てるねん」

「まだどうとも。これからあの子の話を聞いてからです」

「分かった」

 そして米原は刑事課に入っていった。



 現場で鍋島と芹沢が路地の少年のもとに近づいたとき、彼は黙って刑事たちの背後──そこにはカラオケスナックのドアがあった──を見つめているだけで、彼らをまるで見ようとはしなかった。あたかも二人のことが見えていないようだった。

 鍋島はそれで、さっきスナックから出てきたときに誰かに見られているような気配を感じてこの少年に気づいたと思っていたのは、厳密に言うと間違いで、少年が見つめていたのは自分ではなく、自分が出てきた店なのだと悟った。

 鍋島は少年にここで何をしているのかと訊ねたが、彼は何も答えなかった。やはり、少年には刑事たちの存在が「見えていなかった」のである。

 そして、少年がおびただしい量の血で着衣を汚し、両手にも乾いてはいたが黒ずんだ血をべっとりとこびりつけていたため、刑事たちはまず彼がどこかに傷を負ってはいないかを調べた。しかし彼はどこにも怪我をしていなかった。血は彼の身体から流れ出たのではなく、彼が血を流す誰か(あるいは何か)に触れたために付着したものと思われた。

 刑事たちはそのことについても少年を問い質したが、やはり彼は答えなかった。ただずっと向かいのスナックを見つめていただけだった。

 そこで刑事たちは彼に署に同行するように求めた。

 彼が自分たちの存在を認め、自らの意志でその求めに応じるまで根気よく、何度も同じことを言うつもりだった。

 ところが少年はその要求にはあっさりと頷いた。そして刑事たちが誘導するまでもなく、しっかりとした足取りで通りを渡り、スナックの前に停まっていたパトカーの前まで来ると、ドアが開けられるのを待っていたかのようにさっさと乗り込んでしまった。

 パトカーの中では、少年はまたさっきの虚ろな瞳に戻り、何も話そうとしなくなった。

 年齢はおそらく十四―五歳、青白く、しかしその病的な透明の肌の中にどこか気高さのようなものさえ感じられなくもない美しい小顔の少年で、刑事たちの考えに間違いがなければカラオケスナックでの傷害事件に深く関与していると思われるのだが、とてもそんな血生臭い事件とは結びつきにくい、ひ弱な印象を受けた。

 しかしその着衣と両手に付着している、すでにどす黒く変色した汚れは間違いなく血液だったし、彼は刑事の任意同行に何の躊躇もせずに警察車両に乗り込んだ。ひょっとして、彼はこうなることを望んでいたのではないだろうか。だからこそ現場を離れることなく、すぐ向かいから、店の様子をじっと見つめていたのかも知れない。

──どうか早くこっちに気づいてくれ、とでも言うかのように。

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