蒼穹の向こうへ

 この先に“未来”があるなら。きっと、何度だってやり直せる。後悔は希望に変えられる、そう教えてもらったから。──そうだろ? 親友紅太



 ──目が覚めると、そこは知らない部屋だった。

 室内はおよそ六畳ほど。遮光カーテンで完全に閉め切られており真っ暗だった。簡易テーブルに鎮座する、おなじみの青空と草原の壁紙が設定されたPCだけが光源だ。古めかしいデザインの衣服や小物がそこらに放置され、テープで括った表紙の褪せた雑誌の束が乱雑に置かれている。……まるで、何十年も前に時間を止めてしまったような。

 固い上に薄い煎餅布団に寝かされていた碧は重い身体を起こして周囲を見回す。確か自分はイコルを飲んで死んだはずでは、と思考に耽っていると、頬に何か冷たいものが当たって思わず小さく声を上げてしまった。

「考え事するのもいいけど、まずはそのひ弱な体をどうにかしなきゃ、な? 碧」

 声のする方向を見て、彼はぱちぱちと大きな黒い目を瞬かせる。そこにはスポーツ飲料の缶を手にした男が立っていた。相変わらず、何を考えているか悟らせないアルカイックスマイルを浮かべている。

 日本人とは思えぬほど色素の薄い肌と髪、年齢をぼやけさせる童顔の青年──葉村陽はむらよう。イコル争奪戦におけるオブザーバーであり、碧にとっては決して無視できない重要な人物。彼の“父親”だった。

「……あんた、なんでここにいる? そもそもここはどこだ。あんたの家なのか?」

「ひどいなぁ、実の親にそんな詰問じみたことしないでくれよ。泣いちゃうだろ」

「誤魔化すな。……否定しないってことはここがあんたの……いや、父さんの家なんだな」

 イコルが消え、王者でなくなっても凄まじい威圧感を放ちながらじろりと睨む碧。彼の支配力はイコルによるものだけでなく、生来から持っていたものなのかもしれないと、剣呑な視線を受け止めながら葉村は思った。

「そうだよ。この家は紅太くん家のお隣なんだ。知らなかったろ?」

「自慢みたいに言うけどソレもうストーカーの領域だから。……ていうか、隠すのやめたんだな」

 静かに紡がれる碧の言葉に、葉村は何も言わなかった。いつものように茶化すでもなく、ただ黙っている。精悍というより怜悧な印象を残す顔は、穏やかだった。


「何か、言えよ。黙んな。説明しろ、なんで自分が親だって秘密にしてた? 怖かったんだろ、ええ? 否定されるのが、拒絶されるのが、離れられてしまうのが! 遠ざけられるかもしれないって怯えてたんだろ! お前はいつも、いつだって、卑怯者だ、臆病者だ! ……僕はっ、ずっと待ってた。いつかきっと名乗ってくれるんじゃないかって、なのに……! どうして父さんは、僕とちゃんと向き合ってくれないんだよ……っ」


 駄目だ泣くな、そう思うのに激情がぶわりと涙を溢れさせる。矢継ぎ早に叫ぶ度、心がひび割れてしまいそうだった。視界が滲んで葉村がどんな顔をしているのか分からない。それがどうしようもなく、たまらなくなる。


「……僕はね、お前が大切すぎてどうしたらいいか分からなかった。独善者エゴイストだから、きっとこの感情できみを殺してしまうと怯えてた。いつかは手放さなきゃならないって勝手に決めて、そのおかしな思い込みに雁字搦めになってたよ。僕は一度、愛で人を死なせてしまったから。……お前の母さんを亡くしてしまったから。こんなのが親だなんてきっと幻滅されてしまう。だから言えなかった、……言わなかった。いつも自分のことばかり、そんな駄目な人間なんだよ。僕は。いつもお前や紅太にどう思われてるか気にして、不安がってる。弱虫さ」


 本当に苦しいのは、誰か。

 辛い、痛い、憎い、恨めしい、悲しい、哀しい、……かなしい。それでも愛している。

 その気持ちを。たくさん堪えて、いっぱい抱えて生きてきたのは。

「馬鹿だ、父さんも……僕も。結局、お互い自分のことで精一杯だったんだね。ちゃんと相手が、見えてなかった」

「なぁ、お前の親でいることを許してくれるか。……許さなくてもいいから、傍に居てもいいだろうか」

 いい大人のくせに情けない顔で言う彼を鼻で笑ってやる。

「なに、その顔。捨てられた子犬みたいなんだけど? だいたい、親じゃないのに傍にいるとか意味わかんないし」

 ぺちん、と横っ面を叩き、挑戦的に告げる。

「これから僕の前から居なくならないって誓うならいいよ。……そもそも、親と認めない人間を“父さん”なんて呼ばないでしょ?」

 これからだ。まだ、自分達には言葉も時間も全然足りない。いま、二人はようやくスタートラインに立ったのだ。歪でぎこちなくて、そのうえ醜く、どこもかしこも矛盾してばかり。決して綺麗な親子関係なんかじゃない。だけどそれこそ、自分達が親子であるという何よりの証なのだ。

 この先どうなるか分からない、きっといつか亀裂が入ることもあるだろう。また違う道を行くことになるのかもしれない。それでもいい。そしたら再びやり直す。それでいい。まだまだ時間がある。希望がある。ならば何を恐れる必要があるだろうか。

 わだかまりが解けるとは思わない。創った傷はずっと残るし、痕は消えてくれない。だけどそれでも、一緒にいると選択したことを悔いるつもりはない。後悔ならたくさんしたんだから、これ以上するものか。

 ──未来は、このの中にある。

 そうだろ?



 ──数ヶ月後。

 葉村陽と早坂碧、二人の親子は空港にいた。それぞれイコルによって“汚染”され、弱った身体を治療し鍛えるためだ。それにはより高度な医療技術が発達している国へ赴かなくてはならない。しばらく日本を離れ、療養に専念することになる。

 お世話になった人達、仕事の関係者には既にメッセージでそれを伝えている。見送りは不要だからと、出立する日にちはあえて内緒にした。

 旅行や出張、それぞれに色んな理由で出入国していくたくさんの人々が行き交う広いロビーに、彼らは並んで座っている。傍目には兄弟としか映らない彼らの姿は、ごく自然に周囲の風景に溶け込んでいた。

 秋を過ぎ、もう少しすれば雪が降り出すだろう。窓の外は目が痛くなるほど眩しい快晴で、自身の名前と同じ碧空がどこまでも果てなく続いている。きっと風が冷たいだろうな、と硝子の向こうを眺めながら彼は思う。

「……父さん、帰国するの楽しみだね。絶対、紅太の身長抜かしてやるんだ。その頃は父さんもちゃんと老けてるよ」

 いつか見せた激情から一転し、柔らかい表情と声で碧は言う。同じくにこやかな笑みで葉村も頷いた。

「そうだな、きっとお前はかっこいい大人になるよ。あと老けるとか言わないで、見た目はまだ未成年だから……」

 ちゃんと“早坂陽はやさかひなた”の名義で新しく作り直したパスポートには、本当の年齢がきちんと載っている。死亡届を提出していた戸籍を復活させたのだ。ちょっとした“裏技”でズルしてしまったが。だけどもう、これで早坂陽と碧の親子関係は揺るがない。彼らはようやく同じ苗字を名乗ることができる。二人の間にあるものを誰にも否定させたりしない。

「さ、出国の時間だ。──行こう、碧」

「うん、父さん」


 そして彼らは海を越え、新天地を目指す。いつかまた、再会するために。

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