エピローグ

月が綺麗ですね、と彼は言った。

 ──それは、きっと一番“サイコー”にハッピーでハイテンションな結末。



 ソーマにイコルを溶かし消滅させたことで、この世界から“異能”は消え去った。もうここにいるのは無力な子供。カミサマになりきれなかったただの──“人間”だ。

 そして碧も止まりかけていた呼吸が再開し、青ざめていた頬に赤みが差し始める。かすかに上下する胸に、ほっと紅太は安堵のため息を吐いた。まだ意識は戻らないが、いずれ目を覚ますだろう。

「……大丈夫だ。お前も、俺も、時間は残ってるから。まだ、やり直せるから。だからもう、一人で背負うなよ、一緒に行こう。……この先も、ずっと」

 華奢な軽すぎる身体をそっと抱きしめる。……あたたかい。そのぬくもりに泣きそうになる。もしかしたら、この温度を亡くすところだった。無くさずに済んでよかった。失くさないためにここまで来たのだ。

 碧を背中に負い、元きた道を引き返す。静まり返った館内を抜け、門の前まで来ると、屋敷の外には一台の車が停められていた。心配して迎えに来てくれたらしい、葉村と夜花がバタバタと降りてコチラへ駆け寄ってくる。

「大丈夫。ちゃんと二人で帰れるよ。ほら、な?」

 おぶったままの少年の安らかな寝顔を見せると、二人とほっと胸を撫で下ろした。

「迎え、ありがと。……行こうか、ほらもう、朝日が昇ってる」


 ──黎明が、世界に訪れる。

 鮮やかに街へ色を付ける、こがね色の日輪とやわらかな橙に染まる東の空。それとは対照的に西の空はまだ夜の名残りがあって、淡くなりゆく暗青色にたゆたっている。

 どこからか届く犬の鳴き声、雀の囀りと走り回るカブのエンジン音、鼻腔をくすぐる朝食の匂い。もうしばらくすれば通勤通学ラッシュも始まるだろう。夜に眠っていた世界は、再び目覚める。


 きらめく陽の光に照らし出される、長い間慣れ親しんだ街の姿は、たとえようもなく美しく、そして愛おしく映った。きっとここが、ゆりかごであり墓場だ。

 この街で自分達は生まれ、育ち、老いて死ぬ。“物語のおわり”がいつになるかは分からないけれど、きっとそれはとても幸福で素敵なエンディングだ。

 四人で乗り込んだ車は家へ向かって走り始める。着いたらまず色々と説明をしなければ。慌てふためく父の姿を想像し、紅太はくすくすとこっそり笑った。



「はああああ!? け、結婚するううう!? ていうかまず、その子誰!? 何者!? なんか、見たことあるんだけど……??」

 開口一番、紅太の父親は絶叫した。

 おそらく親子水入らずで積もる話もあるだろうと、まず葉村に半ば押し付ける形で碧を預けたあと。夜花共々自宅へ帰ってきた紅太は、締切前で忙しい父を居間に呼び出した。そして前置きもせず突然、「この女の子と結婚を前提に付き合っている」と言い放ったのである。

 ……そしてこの有様だ。

 目を白黒させぽかんと口を開けた間抜け面を晒した父に、追い討ちをかけるが如く彼はさらなる爆弾を投下する。

「あぁ、あとね。俺、父さんの後輩になったから。“吉野秋よしのあき”って名前で作家デビューします。よろしく、先輩」

 もはや何も言えず呆然とするばかりの父。

 どこの誰かも分からない謎の少女と結婚前提に交際中ときて、そのうえきっとまともな仕事に就くかと思いきやいきなりの作家宣言。

 完全に脳がキャパオーバーを起こしたのか、すっかり動作を停止している。突如もたらされた怒涛の情報に、心がパンクしてしまったようだ。

 そんな父の姿に内心笑いつつ、彼は夜花を連れ、追及を逃れるためさっさと自室へ引っ込む。こりゃあ家族会議になるだろうな、とすぐ近くの未来を楽しみにしながら。


 部屋に戻った彼は、荒れ放題に散らかった室内を片付け始める。ここ最近仕上げた作品のために集めた資料が床の上へ所狭しと塔を作っており、PCデスクやサイドテーブルにも本の山が築かれていた。

 初対面を除き初めて彼の部屋へ入った夜花は、ぱちぱちと目を瞬かせながら大量の紙で溢れかえった部屋の様子に見入る。異能に関わること以外であまり時間を共有してこなかった夜花は、彼が普段何をしているかなど知らなかった。まさか、いつの間に作家になっていたとは。

「紅太くん、小説家になるの? さっき名乗った名前……あれ、ペンネーム?」

「そうだよー。編集さん以外は“吉野秋”のことを知らない。“一番”最初は、父さんと夜花に知ってもらいたかったんだ」

 言いつつ、たくさんの本の資料を書棚にしまい込むと、机の引き出しからクリップで留めた紙束を出すと表紙を誇らしげに見せる。

「たぶん、冬休みの前にはきっと本屋に並んでるから。いつか読んでほしい。……だめかなぁ……?」


 あなたが好きです、と素直に言えない彼はいっとう伝えたい言葉を小説に託した。初めてたくさんの人々の目に触れるであろう作品は、そんな口下手な少年が編んだ、一世一代にして精一杯の告白。夏休みをまるまる費やして紡いだ物語が、彼のプロポーズ。

 この四十日ばかりの日々は戦いだけではなかった。ちゃんとそこには、日常があった。ただの夢では終わらない。こうして“形”としてずっと残り続ける。関わった人のなかに、そして夜花の心の奥に。

「ふふ、あはは……っ、なんなの、本当にあなた、馬鹿なんじゃない? 告白なんか数秒で言えるじゃない。なのにたった一言のために四十日もかけるなんて、馬鹿だよ。そんなんじゃ、いつまでも独り身だよ?」

 軽やかに高らかに、澄んだ声を響かせ彼女はひとしきり笑う。

 ──ぎゅっ、と全身に伝わる温かく柔らかな感触に、紅太は目を見開いている。だけど夜花はそんなのちっとも気にしない。そもそも振り回されてきたのはこちらなのだから。

「本当に馬鹿なんじゃない? 私の気持ちなんか、最初から知ってたくせに!」

 だってずっと前からほんとうの心なんか伝え続けていたじゃないか、と彼女は笑った。


 とてもきれいな微笑みだった。

 演技が得意な彼女らしくない、涙混じりの下手くそな笑顔。ぶかっこうで少し歪んだ、だからこそきれいな笑み。

 告白の回答を待つ紅太へ、欠けた耳朶に触れながらそっと告げる。

「“FLY ME TO THE MOON私を月に連れてって”」

 ──だって私は、夜に生きる人間だから。

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