8:レオノーラの観察
やってきたマティアスは自分の伯母や姉に目もくれずにエミーリアのもとへ歩み寄った。いつも無愛想な顔はとろけるように甘い表情を浮かべていて、青い瞳からはいとおしさが溢れかえっている。
「エミーリア」
婚約者を呼ぶ声は砂糖とはちみつを混ぜてとかしこんでもこれほど甘くはならないだろうと思えるほど。
弟の姿に、レオノーラは驚愕していた。
レオノーラが驚き硬直しているなかでも、マティアスとエミーリアはいつもどおりだ。
「陛下、どうなさったんですか? 執務がおありでしょう?」
エミーリアも驚いてはいるようだが、マティアスをまっすぐに見つめる瞳には喜びが滲んでいる。
「休憩がてらこちらに顔を出しただけだ。……喜んでくれないのか?」
「そ、それはもちろん、うれしいですけれど……」
恥ずかしそうに照れるエミーリアをマティアスはやさしく見つめていた。
なんだこれは。
いや、誰だこれは。
さっき聞かされたばかりの弟の話も信じがたいものだったが、こうして実際に甘ったるいやり取りをしているのも目の当たりにしたのだ。レオノーラとしても信じるほかないのだが――。
「……ねぇ伯母さま?」
「なにかしらレオノーラ」
「あれはいったい誰かしら?」
「あなたの弟よレオノーラ」
「……あれが?」
「ええ、あれが」
ベアトリクスは平然とした様子で紅茶に口をつけている。その姿は数年前に会ったときと変わらず優雅でうつくしい。ベアトリクスはかつてのレオノーラが目標としていた女性だ。今でもそのうつくしい所作には見惚れてしまう。
母のナターリエは家族としてもちろん愛しているけれど、貴婦人として参考になるような人ではなかった。王女としてレオノーラの手本となってくれたのも、手本にできたのも、叔母であるベアトリクスだけだ。
マティアスはどうだっただろう。愛が深く情熱的な父はマティアスとは正反対の性格だった。国王としての手本にはなっても、一人の男性としてマティアスが父を参考にしたことはないと思う。マティアスは小さな頃から淡泊で、冷静で、言い方を変えれば面白みのない子だった。
このままでは両親のように――父のように愛する人を見つけて結婚するなんてことはできないんじゃないかとレオノーラは思っていた。けれど彼にはどう足掻いても伴侶が必要だ。王が伴侶を持たずにいられるわけがない。
だからレオノーラはあれこれと口を出したのだ。少しでも、マティアスにとって良い縁があるように、と。
結果としてはそれがいけなかったと、レオノーラもわかっている。
レオノーラが紹介した令嬢のなかで、一人だけマティアスと親しくなった令嬢がいた。
大人しくいつも控えめで、聞き役に徹するタイプの子だった。マティアスと仲良くなったとわかったときは、まぁそうだろうなと思った。ああいう子のほうがマティアスは話が合うだろう、と。王妃に向いているかと言われると微妙だったが、まだどうなるかなんてわからない。マティアスがあの子がいいと言うのならこれから教育を受けさせればいい話だ。そんなふうに考えていた。
――だから予想できるはずがなかった。
まさかその令嬢がマティアスに媚薬を盛って、既成事実を作ってでもマティアスの婚約者になろうとするなんて。
すべては未遂だったけれど、その事件がきっかけでマティアスは女嫌いと言われるほどに女性を近づけなくなった。彼は彼なりに、その令嬢と性別を超えた友情を築いていけると思っていたのだろう。そう、彼が抱いていたのは恋情ではなく友情で、だからこそ令嬢は焦りを見せて暴挙に出た。
マティアスはまだ十代の少年だった。その心が傷つくのは当然だ。
……何もしなければ良かったのかもしれない。
これでも姉なんだからと口出しして振り回して、結果としてはマティアスの心に傷をつけただけだった。
もともとの淡白な性格に、ダメ押しするかのような事件だ。これではきっと、弟はまともに恋愛なんてできないだろう。王という孤独な立場を支えてくれる伴侶が、ただ義務だけで繋がれた人間だなんて――そんなのはあんまりではないか。
未来の王としてマティアスは幼い頃から制約が課されていた。自由奔放に生きたレオノーラと違って。
だったら恋くらい、将来の伴侶くらい、自由にしてもいいじゃないか。そう願っていたのはレオノーラだけだ。マティアスはそんなことに興味はなかった。
……なかった、はずなのだ。
「……マティアスのことだから、周りが決めた子を婚約者にしたんだろうと思っていたんだけど」
ぽつりと、レオノーラは呟く。その声にベアトリクスはくすくすと笑った。
「あら、最初はそうだったはずよ」
「あんなにデレデレしておいて?」
「ええ、あんなにデレデレしておいて」
もともとは決められた婚約者だったなんてあの二人を見て誰が思うだろう。互いに見つめ合う目にはいとおしさでいっぱいで、吐き出す言葉には全部砂糖がまぶしてありそうなほどだ。
「……マティアスって実はお父様似だったのね……」
なんといっても父は一目惚れした母を王妃にするためにベアトリクスと協力して外堀を埋めまくりその恋を成就させたような人である。王妃なんて無理だと首を横に振り続けた母に、それでもかまわないと口説き落としたのだからその熱意はすごいものだ。
「それで、あの子は合格かしら?」
「合格もなにも、マティアスがあんなに愛しているなら私が反対しても無駄でしょう」
決められた婚約者との、決められた結婚だと思った。
相手はどんな子だろうか。王妃になりたいだけの人間か、それともマティアスを少しでも慕っているのか。見極めるためにもレオノーラは会わなければならなかった。
「陛下!!」
さていつまで続くのだろうかと思われていたマティアスとエミーリアの甘い逢瀬は、エミーリアの悲鳴まじりの声で中断される。
「今はご休憩の時間なんでしょう? きちんとお休みになってくださらなくてはダメです!」
「君と一緒にいることが一番癒されるんだが」
「そっ……そうだとしても、それは心理的なものであってお身体としてはそうではないはずですといいますか……!」
一度はエミーリアが主導権を握ると思われたが、すぐにマティアスが取り返してしまった。ベアトリクスは「あらあら」と楽しそうに見守るばかりだし、護衛の騎士たちもいつものことだと言わんばかりの顔である。たぶん本当にいつものことなのだろう。
マティアスが愛しているというのならこの婚約に反対しても無駄だし、反対する気もない。
しかしそれなら。
「……確かめることが増えたわね……」
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