28:恋をしたから、

 翌朝は見事な快晴だった。

「それじゃあデリア、気を付けてね」

「ええ、また王都で」

 心なしかデリアはすっきりとしたような顔をしている。リーグル伯爵ともこれからもう少し仲良くやっていけたらいいのだけど、とエミーリアは思った。

 先に王都へと戻るデリアを見送り、エミーリアは背筋を伸ばす。

(……わたくしの本題は、これからなのよね……)

 ようやく。

 本当にようやく、エミーリアは王太后と会えることになったのだ。

『突然ですまないが、今日なら母上も時間がとれそうだ』

 朝食の席でマティアスからそう言われたときには忘れていたはずの緊張が蘇って、そのあとの朝食の味をさっぱり覚えていない。

(お会いするのは午後なんだから、今のうちにしっかりと心の準備をしておきましょう。陛下も今は城下に出ていらっしゃるし……)

 デリアもフェルザー城を去った今、一人になれる時間はたっぷりある。もちろんハンナやテレーゼ、護衛の騎士はいるとしてもだ。

 嫁姑の問題は庶民だろうと王族だろうと切実だ。上手くやっていけるか否か、そこに今後の結婚生活が円満にいくかどうかかかっている。

(結局どんな方かわからないままだし……こうなったらその場で対応するしかないものね)

 事前準備ができないのだから、緊張を少しでも解しておくべきだろう。

「そうだ! 絵を見に行きましょう!」

(陛下の小さな頃の絵を見たら気分転換になるんじゃないかしら!)

 なんといってもマティアスの小さな頃の姿は可愛らしいかったしかっこよかったし、エミーリアにとってはそれを眺めることは至福のときと言っていい。

 我ながら名案だとエミーリアは絵の飾ってある廊下へ向かった。




 フェルザー城の中もけっこう慣れたもので、エミーリアは迷いなく歩を進める。慣れてきたとはいえ、そろそろエミーリアも王都に戻る予定なのでなんだか少し寂しい気もした。

(……あら? 誰か先に……?)

 絵を眺めている貴婦人がいた。

 シンプルながら、品のいいドレス。焦げ茶の髪は丁寧に結い上げられていて、銀細工の髪留めをつけている。

 デリアはつい先ほどこのフェルザー城を発った。今エミーリアの他に、貴族の女性はいない。いるとしたらそれは――


「お、王太后様……?」


 エミーリアが思わずそう呟くと、女性が振り返る。

 そしてエミーリアは「えっ」と声をあげた。

 青い目がエミーリアを見つめてくる。うつくしいその顔には確かに見覚えがあった。

 振り返った女性は「あら?」と首を傾げる。

「会うのは午後にとマティアスに伝えていたはずなのだけど、違ったかしら?」

 国王を呼び捨てにできる人なんて、この国にはたった一人ではないだろうか。エミーリアは自分の予想が当たっていたを確信した。

「そ、その通りです……! いえその、そうではなく……!」

 そうではなくて、とエミーリアが混乱した。

 目の前にいる女性は王太后で間違いない。しかし、エミーリアは既にこの人と会っているのだ。

 このフェルザー城の、庭の片隅で。

「驚かせてしまったわね」

 ふふ、と王太后は笑う。

「お、王太后様だったんですね……」

 庭で出会った女性は、フェルザー城に滞在している画家ではなく王太后だったのだ。

「王太后と呼ばれるのはあまり好きではないの。どうかナターリエと呼んでくれるかしら」

 そういえばギュンターも王太后ではなくナターリエ様と呼んでいたなと思いながら、エミーリアは頭が真っ白になっていた。

 午後に会うはずの王太后と会ったことだけではなく、その王太后がまさか既に顔を合わせていた画家の女性と同一人物だなんて夢にも思わないじゃないか。

(……って、でもこうしてお会いできたんだもの、ご挨拶しないと!)

 エミーリアは姿勢を正すと、ドレスを持ち上げてゆっくりと礼をした。

「それでは、ナターリエ様とお呼びさせていただきます。わたくし、エミーリア・シュタルクと申します。きちんと名乗らずにおりました非礼をお許しください」

「マティアスの母、ナターリエです。名乗らなかったのはこちらも一緒だから気にしないでほしいわ」

 穏やかに微笑むナターリエに、エミーリアも緊張が解けていく。服装は違えど、やはり庭で会ったときと同じ雰囲気をまとっている。

(綺麗な方だからドレスをお召しになっていると、ちょっと迫力があるけど)

 エミーリアはそっと息を吐き出して、ナターリエの隣まで歩み寄る。

「ナターリエ様も絵を見にいらっしゃったんですか?」

「ええ……まぁ、そうね。あなたには以前話したでしょう? 夫との約束の話」

「はい」

 いつか孫が生まれたら皆揃った絵を描いて欲しい。そう願った本人は既に故人である、と。

(……つまりその旦那様って先王陛下のことなのよね……)

 そして子どもはマティアスと、その姉のレオノーラということになる。ナターリエがあまりに若く見えるのでまさかマティアスの母親だなんて思わなかった。

「昔の絵を眺めていたらまた描けるようになるかしらと思って見に来たの」

「昔の……え、じゃあこの絵はナターリエ様が!?」

「ええ、そうよ」

 ナターリエはこくりと頷いているが、かなりの腕だ。

(あ、だからナターリエ様の姿がないのね……!?)

 描いているのがナターリエだから絵のモデルになんてなれるはずがない。

「そうだったんですね! 初めて拝見したときもすごく素敵な絵だなと思ったんです! 陛下の小さな頃なんてわたくしは知りようがありませんでしたし、この絵の頃なんてすごく可愛らしくて!」

「それはマティアスが五歳の頃ね」

 子どもたちは大人しくモデルになってくれないから大変だった、とナターリエは笑う。結局ほとんどモデル無しで描いたようなものだと。

「その頃ですと、わたくしは生まれてもいませんね」

「そうね……マティアスと年が離れているものね」

 エミーリアとマティアスは十歳離れている。

 その年齢の差について悲しいとか悔しいとか感じたことはないが、こうして会うこともできなかった頃のマティアスの姿を見ていると不思議な気持ちにはなる。

「わたくしが初めて陛下とお会いしたときには、陛下はちょうど今のわたくしくらいの年頃でした。……こうして絵で昔の陛下を知ることができてとても嬉しいです」

 エミーリアの知らないマティアスはまだまだたくさんあって、それを少しずつ知ることができて嬉しい。

「……あの子は」

 ナターリエが絵を見つめながら口を開いた。ナターリエが見つめる絵には、十三、四歳頃のマティアスが描かれている。

「マティアスは私に似て、あまり恋愛に関して情熱的ではないから、少し心配だったのよ」

 ぽつり、とナターリエはそう呟いた。

「あの子は王だから。必ず結婚して子をなさなければならない。でも昔から色恋には興味がなさそうで、そんな淡白なところは私に似てしまったんだなと」

 父親に似ていればきっと情熱的で恋多い男になったのでしょうけど、とナターリエは苦笑する。

 王族にとって愛のない結婚はよくあることでも、母親としては心配だった。恋をせず愛も知らず、果たしてうまくやれるのだろうか、と。外堀を埋められ結婚した自分が心配するというのもおかしいとは思ったけれど。

「……でもマティアスから届いた手紙にはあなたのことをすごく細かく書いてあったの。とても可愛くてとても真面目でとても良い子なんだと。万が一反対されようと絶対に結婚するつもりだと」

「ぇ、ぁ……」

 自分の知らないところでマティアスに褒めちぎられていたらしいことと、反対されようと絶対に結婚するという言葉はかなり破壊力があった。エミーリアは首まで真っ赤にして口籠もる。

「びっくりしたわ。もしかして父親似だったのかしら、なんて思うくらい。……たぶん、今までそういう相手に出会っていなかっただけで、マティアスの中にもちゃんと情熱的なところはあったのね」

 ほっとしたように笑って、ナターリエがエミーリアを見つめた。

 ナターリエの青い瞳は、マティアスの瞳と同じ色をしている。初夏の晴れ渡った空の色だ。

「あの子を選んでくれてありがとう」

 違う、とエミーリアは思った。

 エミーリアは選んだのではなく、選ばれた。数多くいた候補の中から、重鎮たちがエミーリアなら王妃に相応しいと。

 しかしエミーリアが否定の言葉を紡ぐ前に、ナターリエは続ける。

「……あの子と出会ってくれて、ありがとう」

 静かに、はっきりと告げられたその言葉に、エミーリアは言葉を飲み込んだ。


 ――エミーリアは知っている。


 星の数ほどたくさんの人がいる中で、焦がれるほどの恋をできる相手と出会うことが。

 出会ったその相手が、自分と同じように思ってくれることが。

 どれほど奇跡的なことなのかを。どれほど、難しいことなのかを。

 マティアスと出会って、マティアスと恋をしたから知っているのだ。

「わたくし、」

 絞り出したその声は震えていた。

 じわりと眦が熱くなる。胸の奥が締めつけられるように苦しくて、エミーリアは胸の前で手を重ね合わせた。

(――会いたい)

 湧き上がる欲が、エミーリアの頭をいっぱいにする。

(今すぐ、陛下に会いたい)


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