16:貴族の結婚

 夕暮れまだはまだ少し時間があるという頃、エミーリアは仮執務室へとお茶を持っていった。いつもはもう少し早めの時間に行くのだが、今日はオリヴァーという予定外の客人があったので時間がずれ込んでしまったのだ。

「彼には会ったのか?」

 マティアスがエミーリアの淹れた紅茶を飲みながらそんなことを問いかけてくる。

 彼とはオリヴァーのことだろう。デリアに会いにきたオリヴァーとの顔合わせに、当然エミーリアも同席するだろうと思われていたらしい。

「はい、先ほど。穏やかそうな方でした」

 エミーリアは素直に感想を告げた。

 ――おそらく、結婚相手としてはこれ以上ないほどの良縁だろう。

 そんな素敵な人がデリアの相手だというのなら、エミーリアは歓迎するべきなのだ。それでもなんだか少しもやもやとした何かが胸の奥で疼いている。

(でも、わたくしが口出していいことではないわ……)

 デリアに相談されたのならエミーリアは自分の意見を臆することなく告げるけど、彼女の中で答えは出ているのだ。だとすれば、エミーリアがどんなにもやもやしていても何も言う必要はない。

「彼は城下に戻ったみたいだな」

「ええ、既にそちらに宿をとっていらっしゃるそうで」

「そうか」

 なら無理に城への滞在を勧める必要もないだろう、とマティアスは書面に目を戻した。この三日の間に、エミーリアはマティアスの執務の姿にもだいぶ慣れた。

 慣れてきたからこそ、言わねばならない。

 ふぅ、と小さく息を吐き出し、エミーリアはまっすぐにマティアスを見た。

「陛下、きちんと休息をとってください」

 にっこりと微笑みながらも有無を言わせぬはっきりとした口調で告げる。

 エミーリアは知った。

 マティアスは、放っておくとずっと働いてしまうのだと。会話をしていてもその手は止まっていないし、目は書面の文字を追っていたりする。

(ヘンリック様がときどき陛下に対して強引になるのもわかる気がしてきたわ……)

 周りが無理やりにでも口を出さないと、マティアスは仕事ばかりしてしまうのだ。それではいつか身体を壊してしまう。ましてここは慣れた王城ではない。環境が変わったときには体調を崩しやすくなるものだ。

「……これだけ処理を済ませたい」

 だから少しの間見逃してほしい、という意味だろう。マティアスは困ったような顔でそう言う。

(うっ……そ、そんな顔されると強く言えない……! けど今はヘンリック様がいらっしゃらないんだから、わたくしが言わないと!)

 ここで折れてしまってはいけない。エミーリアは心を鬼にして、奥の手を使うことにした。

「……わたくしの淹れたお茶が冷めてしまいます」

 エミーリアが悲しそうにそう零すと、マティアスは「う」という顔をして手を止めた。

(ヘンリック様からこう言えばいいと教わったけど本当に効果があったわ……!)

 さすがヘンリックである。

 デリアがそんなエミーリアたちを見てくすくすと笑っていたときだった。

「失礼します」

 低くどこか不機嫌そうな声が聞こえたかと思うと、ガチャリといささか乱暴に扉が開く。声の主はヘンリックだった。

(城下の見回りに行っていると聞いたのだけど……?)

 何かよくないことでもあったのだろうか、とエミーリアは不安を押し殺すように両手をぎゅっと握り合わせた。

「何かあったか」

「……こちらで対処するような被害は特にありませんね。ただ人がハインツェルに集まっているようなので、夜の見回りは増やした方が良さそうです」

 ヘンリックの報告にエミーリアは「あれ?」と首を傾げる。

 悪い知らせがあったわけではないらしい。しかしヘンリックはいつもの柔和な笑みはどこかに消え去ってしまっていて、少し怖いくらいの空気を纏っている。

「わかった。おまえも休憩するといい」

 マティアスは特に気にした様子もなくそう告げた。

(普段のヘンリック様はこういう雰囲気なのかしら……? でも、わたくしは初めて見るわ……)

 ヘンリックとの付き合いが長いとはとても言えないが、マティアスとの婚約が決まってからは何度も顔を合わせている。彼がこんなに冷たい、氷のような雰囲気になるのは見たことがない。

 マティアスはヘンリックの不機嫌の理由を知っているのだろうか。だから何も言わないのだろうか。

 エミーリアが困惑していると、ヘンリックがズカズカとデリアに歩み寄ってその腕を掴んだ。

「ちょっ、何よ」

 突然のことにデリアが声を上げるが、その表情は戸惑っていた。それもそのはずだ。どんなに言い合いをしようと、ヘンリックは腕力でデリアを黙らせるようなことは絶対にしなかった。触れることすら、そう滅多になかったように思える。


「あの男はやめておいたほうがいい」


 地を這うような低い声だった。

 エミーリアからはヘンリックの表情がよく見えない。けれどその低い声だけで、抑えきれないほどの怒りを抱えているのだとわかる。

「あの男って……まさかオリヴァー様のこと?」

 デリアが困惑しながらヘンリックを見上げている。

「それ以外に誰がいるんだよ。あいつ、女がいるぞ」

「は……?」

 ヘンリックの言葉にデリアはぽかんと口を開けた。エミーリアも思わず「えっ」と声を上げそうになって慌てて口を塞ぐ。

「ついさっき城下で抱きしめ合っているのを見た」

(そ、それは……)

 エミーリアは思わず言葉を失う。

 未婚の男女が二人きりでいるだけでも問題だと言われるような世の中だ。それが、街中で抱き合っていたというのなら間違いなくそういう関係なのだろう。

 婚約が決まろうとしているときにそれはあまりにも不誠実な話だ。

「まだ婚約が確定したわけじゃないんだろ、ならこの話そのものをなかったことにできる。婚約前から既に女がいるくせに誠実そうなフリしてる野郎なんてただのクズだろうが」

 ヘンリックの口調は荒い。

 いつもならもう少しオブラートに包んだ言い方をするだろうに、今はそんな余裕もないということなのだろうか。

 エミーリアは困り果てながらマティアスを見る。ばっちりと目が合って、互いにどうしたものかという顔をした。

 ヘンリックとデリアのやり取りになんだなんだと周りの騎士たちも顔を見合わせている。デリアもヘンリックも、ここが仮執務室となった部屋であることをすっかり忘れているらしい。

「……なんだ、そんなこと」

「そんなことって……!」

 呆れたようなため息のあとで、デリアは肩を竦めた。

 マティアスは周囲の騎士たちにそっと退室を命じる。デリアたちを他の部屋に移動させるよりこの方が早いと判断したのだろう。

「貴族の結婚じゃよくある話じゃない。むしろ納得したわ。なんでこんないい人が私なんかと婚約するのか疑問だったくらいだもの」

 けろりとした顔でデリアが答える。

 ヘンリックは言葉も出ないようで、何も言い返さなかった。

「庶民育ちの娘なんて、誰ももらいたがらない。どこぞの変態の後妻になるのがせいぜいかなと思っていたのに、蓋を開けてみたら年齢の釣り合いもとれた好青年なんておかしいと思ったのよ。なるほどね、本命がいたけど相手は正妻にはできないってところかしら」

 それこそ庶民だったりしてね、とデリアが笑う。

(待って)

 エミーリアは泣きたくなった。

(そんなの、そんなのって……)

 デリアにはしあわせになってほしい。エミーリアは大切な友人のしあわせを当たり前のことのように願っていた。

 しかし彼女の口から聞かされたのは、まるで初めからしあわせになんてなれないとわかっていた、という言葉で。

 そんなの、聞かされるこちらが辛い。


「馬鹿なことを言うな」


 泣き出しそうになったエミーリアの耳に届いたのは、まるで怒りを凝縮した雷みたいな声だった。

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