14:既視感と苛立ち
シュタルク公爵家の令嬢は、急な用事が入ったために明日の予定をキャンセルしたいそうです。
書記官がシュタルク公爵家からの使いの伝言を告げたのは、ほんの一時間ほど前である。マティアスはその伝言に対し「そうか」と短く答え、そして「そのように手配しろ」と命じた。
その表情は騎士団からの報告書を見ているときとまったく変わらなかった。つまり、見事なまでに無表情だった。
マティアスが同じ伝言を聞くのは、これで三回目である。
つまりマティアスとエミーリアは、かれこれ半月以上顔を合わせていなかった。
「……えーと、大丈夫か?」
カリカリとペンが走る音ばかりが響く部屋の中で、ヘンリックはおずおずと気まずそうに口を開いた。
「何がだ」
マティアスは視線をちらりとも動かさず問い返す。その声がいつもより苛立ちを含んでいることにヘンリックはしっかりと気づいていた。
「具体的にはおまえが握ってるペン。今にも壊れそうなんだけど。そのついでに妙にイライラしているらしい国王陛下の精神状態が心配」
「問題ない」
遠慮ないヘンリックの言葉にもマティアスは動揺も見せず即答した。しかしヘンリックがそんな回答を正直に受け取るはずがなかった。
「いやあるだろ。問題あるだろ。そんなに気になるなら使いでも出してみりゃいいだろ? 最近シュタルク嬢からの手紙もないみたいだし」
マティアスの苛立ちの原因はどう考えてもエミーリアである。
ヘンリックが呆れながら口早に告げると、シュタルク嬢という言葉のあたりでボキッと音を立ててマティアスの握るペンが折れた。
部屋の中が途端に静かになる。
「……必要ない」
「いやいやいやいや!?」
マティアスは頑ななまでに何も起きなかったという顔で新しいペンを取る。ヘンリックは慌てて口を挟んだ。
「なにもありませんでしたって顔してるけどペン折れてるから! ポッキリ折れてるから! どう考えても動揺してんじゃん!!」
マティアスもさすがに誤魔化すのは無理があったと自覚しているので、仕事に没頭しようとする手を止める。
「……いいかげん、そろそろなにがあったか話せば?」
「それは」
「執務に影響がないうちは黙っているとは言ったが、今のこれはまったく影響が出てないって言えんの?」
む、とマティアスは反論を飲み込んだ。
執務は滞っていないが、まったく影響を受けていないとはいえない。
だが。
「おまえに話す必要性を感じない」
「いーやー? 陛下よりは恋愛経験を重ねてまいりましたから? お役に立てると思いますけど?」
ヘンリックの嫌味に、マティアスも人間なので当然腹を立てる。
確かにマティアスにはまともな恋愛をしたことはない。
だがまったく色恋沙汰を知らない子どもでもあるまいし、遊び人でもある友人に相談しなければならないほどではない。
「本気でない相手を社交辞令で口説くことは恋愛とは呼ばないだろう」
ヘンリックはどうやったらそんなにすらすらとお世辞が出るのかと不思議になるほど、出会ってすぐの女性さえ褒めたたえ口説き始める。
綺麗な女性を口説くのは彼なりの礼儀らしい。マティアスにはとても理解できないが。
「そりゃ失礼。けど残念ながら俺だって本気で惚れた女くらい普通にいますからね」
「それは初耳だ」
マティアスは話半分で聞き流した。
ヘンリックとは長い付き合いになるが、彼が本気になった女性なんて見たことがない。
「俺のことはいいからさ。おまえ、どうしたいわけ?」
どうしたいかなどと。
マティアスに聞かれても困るのだ。
思えばエミーリアとの関係において、マティアスが主導権を握れたことなんてないのだから。
初めから、ずっとマティアスは彼女に振り回されていた。
エミーリアからの手紙は会うよりも前にも途絶えたので、そろそろ一ヶ月近くが経つ。
最後に届いた手紙は、なんとなく封を切ることができないままいつもマティアスの上着の内ポケットに眠っている。
その上、度重なる会えないという連絡。
先日、庭園で顔を合わせたときのエミーリアは、少なくともマティアスが知るエミーリアだったと思う。謙虚で、真面目で、共にいるのが苦痛ではない少女。
以前のようにキツい香水の匂いがしたらと警戒していたので、あの日は庭園で会うことにしてのだが、彼女から香るのはほんのりとささやかなもので、決して不快ではなかった。
一体どのエミーリアが本当のエミーリア・シュタルクなのか。マティアスは未だわからずにいた。
『以前この庭園で、泣いている女の子に会ったことはありますか』
問いかけてくるエミーリアの瞳は潤んでいて、そして縋りついてくるかのように静かにしっかりと訴えてくるものがあった。
だからマティアスも真剣に思い返した。
しかしあの庭園でそんな経験をしたことはない。そもそも、王族でもない女の子が入り込めるような場所ではないし、現在女の子と呼ぶような年齢の姫はいない。
ない、と否定したあとのエミーリアの顔が頭から離れなかった。
ほんの一瞬。瞬きの間に消えてしまいそうなものだったが、彼女は確かに泣きそうに顔を歪めた。
傷つけるようなことを言った覚えはない。しかし彼女は、まるで絶望の淵に落とされたかのような顔をしたあとで、なんでもないと微笑んでみせた。
エミーリアの泣き顔を見た瞬間、何が思い出しそうな、掴み取れそうな気がしたものは、その微笑み一つでマティアスの手のひらから零れていく。
それ以来、どうにも胸の奥に何が引っかかっているような気がして、居心地が悪い。
すっきりしないし、気にかかって落ち着かない。
エミーリアの泣き顔をもう一度見れば、すべて掴めそうなのに。
「……泣き顔が見てみたい」
ぽつりと呟いたマティアスに、ヘンリックが眉を寄せる。
「え……おまえそういう趣味なの?」
「趣味?」
「気になる子を泣かせて気を引くタイプ? ガキの頃ならまだ許されてもさすがにその年齢ではヤバいって」
どうやら勘違いしているらしい友人に、マティアスはため息を吐いた。
「……そういう意味じゃない。なんとなく、彼女の泣き顔を見たことがあるような気がして」
しかしそれがどこだったか、思い出せない。ほんの一瞬だけ涙を滲ませたエミーリアに、懐かしさを感じたのは確かだった。
「泣き顔を? どこで?」
「それを思い出せないから気になっているんだろうが」
「あのエミーリア・シュタルクだぞ? 理想の淑女、令嬢の手本ともいえる彼女が人前で泣くなんて失態見せると思えないんだけど」
淑女は人前で泣いたり狼狽えたりしないものだ。常に微笑みを浮かべているのが理想とされる。
「それはそうだが」
けれど見たことがある。マティアスはそう確信していた。
涙で潤んだ緑色の瞳を、確かに覚えているのだ。
「どちらにせよ、連絡は取らないとまずいんじゃないか。公爵夫人のガーデンパーティー、もうすぐだろ?」
「……そうだった」
すっかり忘れていた案件を掘り返されてマティアスは頭を抱えた。
公爵夫人とはマティアスの伯母である。マティアスの婚約が決まってからは口うるさいほどに「婚約者を連れてきなさい?」と言われていた。
気の強い女性で、正直マティアスとしては苦手な女性である。近々開かれるガーデンパーティーに婚約者を連れて参加しろと言われていた。
会ったときに伝えればいいと考えていたものの、エミーリアとは会えないまま。
「だから、手紙書けって言ってるんだよ」
私的な用件はともかく、ガーデンパーティーについては伝えねばなるまい。そしてそうすれば必然的にガーデンパーティーの日に顔を合わせることになるだろう。
エミーリアがこういう用事を突然キャンセルするとは思えない。あちこちに迷惑がかかるような真似をあの令嬢はしないだろう。
マティアスが思う、エミーリア・シュタルクならば。
「……そうだな、そろそろどうにかしないとまずいだろうしな」
曲がりなりにも婚約者同士。これ以上会わない日々が続けば不仲なのではと噂されかねない。
婚約によってマティアスに擦り寄ってくる令嬢も減ったというのに、不仲説でも流れたらそれもどうなるかわからない。
マティアスはペンを握り直して便箋を取り出す。思えばエミーリアに手紙を書くのは、これが初めてだった。
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