12:恋せよ乙女
恋をした人が王様だった。
だからエミーリアは努力した。すごくすごくがんばったら、もしかしたらお嫁さんになれるかもしれないと思って。
けれど、もしもそれがただの勘違いだったら?
恋したのだと思った人を間違えてしまっていたとしたら?
「……わたくしは、どうすればいいの?」
エミーリアの不安げな声に答えをくれるような存在はいなかった。
マティアスへの手紙は書くのをやめたまま、エミーリアはいかにも悩ましげな顔で過ごしていた。
ハンナがしばしば心配そうに気遣ってくれるものの、今回の憂鬱は簡単に晴れるようなものでもない。自己嫌悪に襲われることもあるし、道しるべを失ってしまったかのような不安定さに怯えるもある。
デリアと久々に会うというのにも関わらず、エミーリアはいつもの淑女の仮面はすっかり消え去っていた。
「今日はわかりやすく悩んでるって顔ね」
会って早々デリアがそう言うので、エミーリアはよほどひどい顔をしているのかもしれない。けれどそれを繕うような余裕もなかった。
「……わたくし、記憶力はいい方だと思っていたんだけど、正直自信がなくなりそうだわ」
しょんぼりどころかぐったりと肩を落としてエミーリアは小さな声で呟いた。
「陛下とうまくいってないの?」
うまくいっていないどころの話じゃない。
エミーリアは目を伏せ、自分の手を見つめる。指先を絡めては離し、離しては絡め、行き場のない何かを手の中で転がしているようだった。
「……たぶんわたくし、陛下に嫌われてしまったのよ」
あら、とデリアはエミーリアの言い分を話半分で聞いているらしい。クッキーをつまんで口に放り込んでいる。
親身になってほしいわけではないから、そんなデリアのいつも通りの様子に少しだけほっとした。
「嫌われたって、いったい何をしたの?」
それでもちゃんと話を聞いてくれるのがデリアという少女で、紅茶を飲みながらいつもの近況報告をしているかのように問いかけてくる。
何を。
それはもう、何度も何度もエミーリアは考えていた。
何がいけなかったのだろう。マティアスに嫌われてしまった要因はなんだったんだろう、と。
「……転びかけて背中に抱きついてしまったの。いえ、毎日しつこく手紙を送ったのがそろそろ鬱陶しかったのかしら。それともわたくしの容姿は好みじゃないのかも――」
考えられる要因を挙げていくと、デリアは頬杖をついて眉間に皺を寄せた。虫でも見たかのような低い声で吐き捨てる。
「その程度で人を嫌いになるような、そんな小さい男だったの。我が国の国王陛下は」
「そんなわけないでしょう! 陛下はとても真面目で誠実で素敵な方よ! だから……っ」
思わず声を荒らげ即座に反論してから、エミーリアは言葉に詰まった。
マティアスは素敵な人だ。誰もが認める、素晴らしい国王だ。
若くして即位したというのに、未熟さを感じさせることのない采配は見事だとしか言いようがない。マティアスがいればアイゼンシュタットは安泰だとエミーリアの父も手放しで褒め称えていた。
「……だから、嫌われたのだとしたら問題があるのはわたくしの方だわ」
――わたくしは綺麗じゃないから。
口に出かけた卑屈な言葉は飲み込んだ。
デリアはエミーリアが卑下すると、いつも怒って否定してくれる。それがたとえお世辞や馴れ合いだとしてもありがたくて、彼女に甘えてしまうことが多かった。
そんなエミーリアを見つめたあと、デリアは深く息を吐いた。
呆れたような響きにエミーリアは怯える。マティアスだけでなくデリアにまで嫌われてしまったら、エミーリアはきっともう立ち直れない。
「……まったく、仕方ないわね。これをあげるわ」
デリアは立ち上がると、棚から小さな小瓶を取り出した。瓶の中で琥珀色のとろりとした液体が揺れている。
「なにかしら? 蜂蜜?」
小瓶を受け取ったエミーリアは蓋を開けてみようとするが、デリアにそっと止められた。
どうして止めるのだろうとエミーリアが不思議そうにデリアを見ると、彼女は真剣な顔で口を開いた。
「それはね、惚れ薬なのよ」
「ほっ……!?」
思わず小瓶を落としそうになって、エミーリアは慌ててしっかりと小瓶を握りしめる。
惚れ薬なんてものが入った瓶を割ったらどんなことが起きるか、考えるだけで恐ろしい。
「そ、そんなものもらっても困るわ!」
(いえ、それよりもなんでデリアがこんなものを持っているの!?)
ずいっとデリアに突き返そうとするが、デリアは華麗にそれを避けてしまう。そして意地悪そうな笑みを浮かべた。その姿はまるで物語のなかの魔女のように見える。
「あら、今こそ必要なんじゃない? 惚れ薬といっても効果は弱いもので、本当に誰かに惚れさせることができるわけじゃないわ。ちょっとだけ、何かのきっかけになるくらいよ」
「……きっかけ」
思わずエミーリアは小瓶を握りしめる。
今のエミーリアでは足りない何か。考えてもわからない何か。
それを、もしかしたらこれが解決してくれるだろうか?
「嫌われているのが嫌われてはいない、くらいにはなると思うわ」
それは、今のエミーリアには悪魔の囁きのように甘美で魅力的なものだった。
「……お守りみたいなものだと思って持っていたらいいわ。もし使う時は飲み物かなにかに混ぜてね」
甘い匂いがするし、紅茶だと変色してしまうかもしれないから。デリアがそう付け加える。
(使うことはない、けれど)
エミーリアがマティアスの飲む物になにかを混ぜるタイミングなんてあるはずもない。
(でも、デリアの言うとおりお守りみたいなものだと思えば……)
ぎゅっと握りしめた小瓶を、エミーリアが手放すことはできなかった。
デリアの屋敷から帰る途中も、手の中で小瓶は握りしめたままどうしようかとエミーリアは考えていた。
普段のエミーリアならば。いいや、理想的な淑女としてのエミーリアならば、こんな怪しげな薬を受け取るなんてしなかっただろう。使うか使わないかは関係ない。
エミーリアも薬学を少しだけ学んだから知っている。完全に人の心を思い通りにできるような薬はない。作る事はできない。
けれど一方で、媚薬のようなものは作り出せる。
ほんの少し何かのきっかけになる程度の惚れ薬なら、存在していても不思議ではない。怪しいことには変わりないが。
――世間一般的に、初恋は実らないものらしい。
そんな迷信を覆したくて、エミーリアはマティアスとの恋愛結婚を望んだのだ。
だって、エミーリアはとうの昔にマティアスに恋していたから、マティアスがエミーリアを好きになってくれれば、それでよかった。
けれど、その大前提が崩れかけている。
(……陛下が初恋の彼でないなら、わたくしは陛下に恋しているわけじゃない、ということになる)
けれど、だとしたらどうしてまだ胸が痛いんだろう。マティアスに嫌われてしまったらしい、という問題は未だにエミーリアの頭を悩ませて苦しませている。
会いたいと思うけれど、会うのが怖い。
どんな顔をして会えばいいのかわからない。淑女の仮面は、こういうときにあまり役に立ってくれない。
恋愛結婚がしたい。
どうせならしあわせな結婚がいい。
そのためには、エミーリアもマティアスに恋しなければならないし、マティアスに好きになってもらわなくてはならない。
好きになってもらえるようにがんばって、結果的にそれが叶わなかったとしても已然はまだ良かった。愛されていなくても、好きな人の妻になれるのだから幸運だ。
そう思えていたはずだった。
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