第4話 石榴の魔女


 昨夜から降り続く雨は、いまだに弱まる気配がない。

 窓を流れ落ちる水のせいで、外の景色は歪んでいる。応接間に集まった関係者たちは静かにリョウの話を聞いていた。


「――というわけで、私たちはこの屋敷に出向くことになった」


 ティーカップを片手に彼女は言った。

 ふわりと緑茶の香りが広がる。

 リック・ステビングがきびきびと立ち回って、集まった一同にお茶を振る舞っていた。一家の仕事を継いだ、十八歳の若き執事だ。

 この緑茶はリョウがロンドンから持ってきたものである。ぼくらの下宿の近くにはアジアの物産を専門に扱う市場があって、中国や日本から届いた茶葉が手に入るのだ。彼女にとっては小さいころから慣れ親しんだ味だという。

 ハロルド・オズボーン氏は頭を振った。


「ホームズさんに来ていただけると決まったときは、ホッとしたんです。悪い噂を一掃して、買い手探しを再開できると。それが、まさか……」


 ぼくは相づちを打った。


「あんなものを見ることになるとは思ってもみなかったよ」


 今でも自分の目を信じられずにいる。不思議な出来事など起こりえないと高をくくっていたし、オズボーン家の屋敷に泊まるのはちょっとした息抜きだと考えていた。都会の喧噪を離れてゆっくりと過ごせるはずだった。

 なのに、恐怖に震え上がることになるなんて。


「ワトソンくん、やはり君は迂闊だったと思う」


 カップに浮かんだ茶柱を見つめながらリョウが言う。

 彼女の顔には、いかなる表情も浮かんでいなかった。難しい計算をしているときのいつもの顔だ。きっとリョウの脳には「感情をつかさどる部分」と「暗算をする部分」があって、状況に合わせてスイッチのオン・オフができるのだ。今の彼女は感情を停止して、すべてのエネルギーを計算に傾けている。頭の中ではそろばんの珠がパチパチと激しい音を立てているはずだ。


「ウィッカム氏は一晩で白髪になるほどの経験をしたんだ。〝何か〟を目撃したのは間違いない。その〝何か〟の正体が分からない以上、油断は大敵だったはずだ。言っただろう? 安請け合いは禁物だと」


 エリー・ステビングが鋭く言い返す。


「何を見たのかなんて、分かりきっているじゃないか!」


 節くれ立った指でひざ掛けを握って、安楽椅子から身を乗り出した。


「〝石榴の魔女〟だよ! 行方不明になったバーバラというメイドの話を、あんた方も聞いているはずだ。あの子は森のなかで襲われて、魔女になっちまったんだよ!!」


 気が動転しているのか、客人に対する丁寧な言葉遣いを忘れているようだ。


「お母さん、もうやめてください……」


 半ば諦めた口調で、リックは母親を諫める。


「よく分からんのですが、結局、そいつぁ魔女なんですか。それとも幽霊なんですか?」


 皮肉っぽい口調で、馬丁のスミス氏が言った。


「あっしが雇われたのは、オズボーンさんがオーストラリアから帰国してからです。だから、この地域の伝承やら因習やらには、とんと疎いんですわ」


 真面目な話をするときに片目を細めてしまうのは、彼の癖なのだろう。相手をバカにしたような表情で肩をすくめる。顔は浅黒く日焼けして、爪には泥が詰まっていた。


「私が聞いた限りでは、魔女であり幽霊でもある……と言えそうだ。いいや、吸血鬼のほうが近いかな?」


 と、リョウ。


「いい機会だ。ミセス・エリー・ステビング、彼に〝石榴の魔女〟の伝説を聞かせてやったらいかがだろう」


 リウマチ持ちの老メイドは、ふんっと鼻息を漏らした。


「伝説って言葉は、現実には存在しないものを呼ぶときに使うんだ」


「つまり〝石榴の魔女〟は本当に存在していて、『伝説』とは呼べないと?」


「もちろんさ――」


 エリーは、ぼくのほうをギロリと睨んだ。


「――あんたもそう思うだろう?」


 ぼくは返答に窮してしまう。相手は続けた。


「まあいいさ。スミスさん、この屋敷でしばらく働き続けるつもりなら〝魔女〟について聞いておいたほうがいい。この屋敷の近所に暮らす人間なら、金持ちから百姓までみんな知っている話だからね」


 ソファに目を向ければ、ハロルド氏が小さくうなずいていた。きっと彼も幼いころに魔女伝説を聞かされたのだろう。


「あんた方も見た通り、この屋敷の裏手にはブナの森が広がっている。なんでも、育ちのいい鹿の群れが棲んでいるそうで、季節が来れば旦那様のご友人が何組も遊びに来たものだよ。狩猟を楽しむためにね。……おっと、〝旦那様〟というのはハロルドおぼっちゃんのことじゃあございませんよ」


 その父親、セドリック・オズボーン氏のことだ。


「しかし旦那様は、あの森に女が立ち入ることを決してお許しにならなかった。とくに若い娘には、窓から森を眺めることさえ禁じていた。あたしも嫁いできたばかりのころに、うっかり森のほうを見てしまって叱られたことがあるよ。女の気配を感じさせるだけでも危険なのさ。なぜなら、あの森には魔女が住んでいるから」


 石榴の魔女が。


「聞いた話じゃ、ローマ人がこの島に来たころには、すでに魔女はあの森に住んでいたらしい。魔女は不死身。不老不死。呪われた儀式で永遠に生きるのさ」


 ブリテン島にローマ人が来たのは紀元前一世紀。およそ二千年前の話である。


「この辺りに集落を作ったローマ人たちは、奇妙なことに気付いた。村の娘が一人、また一人と姿を消していったのさ。初めは彼らも、魔女の存在など知らなかった。野獣に食われたのか、それとも沼に落ちて溺れたのか……。不幸な事故が続いたと考えたそうだ」


 エリーの声が低くなる。


「ところが、あるとき、森の中に狩りに出かけた男たちは人間の手を見つけたんだ。若い女の手だよ。残された指輪から、消えた村娘のものだと分かった。金の指輪が残っているのだから、犯人は盗賊じゃない。かといって野獣に襲われたわけでもなかった。その手首は、刃物ですっぱりと切り落とされていたから」


 エリーの瞳には暖炉の炎が映り込み、煌々と燃えていた。


「ローマ人たちが〝魔女〟を見つけるまでに、それから三十年近くかかったそうだ。ある日、森の奥から悲鳴が聞こえた。男たちが駆けつけると、村の娘が逆さ吊りにされていた。地面には、切り落とされた手が転がっていた。そして、美しい裸体を晒した魔女が――そうさ、その魔女は男なら誰でも魅入られるほど美しいのさ――一心不乱に、娘の血を飲んでいた。手首の切り口にむしゃぶりついて、乳房まで血に染めてね」


 それが魔女の儀式だった。

 彼女は若い女の生き血を飲むことで、永遠の若さを保っているのだという。


「けれど、男たちが恐怖したのは血まみれの儀式じゃない。その魔女にも片手が無かったことに恐れおののいたのさ。彼女の顔はどう見ても、三十年前に初めて消えた村娘のものだった。まったく歳を取らないままの姿で男たちの前に立っていた。それが、男たちを戦慄させた」


 つまり魔女に攫われた娘は、しばしば魔女に肉体を奪われてしまうのだ。


「いくら永遠の若さを保てると言っても、体はあたしらと同じ肉の塊だからね。何年も使っているうちにすり減って、だんだんと具合が悪くなるんだろう。言い伝えによれば、だからこそ魔女はときどき体を乗り換える。犠牲者の手首を切り落として、傷口から自分の血を流し込むんだよ。それまでに貯め込んだ血液を口から吐き出して、娘の体内に注ぎ込むのさ。すると、哀れな娘の魂は追い出され、肉体は魔女のものになってしまう」


 エリーは自分の肩を抱いた。暖炉のすぐ近くにいるのに、寒さに耐えられないという顔で。


「そうやって魔女は生き続けてきたんだ。何百年も、何千年も――」


 彼女の話によれば、魔女となった娘の肉体は物質的な性質を失うらしい。魔法の力でふわふわと宙を漂うことが可能になり、さらには壁をすり抜けたり、姿を無色透明にしたりできるようになるという。

 いつものぼくなら、荒唐無稽な作り話だと笑い飛ばすだろう。

 けれど、昨夜あんなものを見てしまったせいだ。オズボーン家の石造りの屋敷にいると、もしかしたら魔法や呪いがあるかもしれないと思えてくる。重苦しい空気や埃っぽい臭(にお)いがぼくをそんな気分にさせた。

 だが馬丁のスミス氏にはそんな感受性は無いようだ。血なまぐさい伝承を聞かされても表情一つ変えず、退屈そうに首の後ろを掻いていた。


「それで、バーバラという女でしたっけ? 昔この屋敷で働いていたメイドも、その魔女に襲われたって言うんですか? ……言っちゃあ悪いが、三文小説だってもう少しマシなモンスターを登場させますよ」


 エリーはにんまりと笑った。


「あたしがこの屋敷に来たときと、まったく同じことを言っているよ、スミスさん。……でもまあ、あんたにもそのうち分かるだろうさ」


 魔女は本当にいるし、あの森は呪われているとね――。

 ハロルド氏は眉間にしわを寄せて黙っていた。この伝承こそが、屋敷の売却を妨げているのだ。いくら今が科学の時代だといっても、この国では〝交霊会〟が流行り、今でも霊能力者たちが幅をきかせている。呪いを恐れて購入を見送る人は珍しくないだろう。


「――そういえば、なぜ〝石榴〟の魔女なんだろう?」


 ふと浮かんだ疑問を、ぼくは口にした。言い伝えのなかには、どこにも石榴は登場しない。


「おや、あんたは石榴を食べたことがないのかい?」


 と、エリー。


「石榴にかぶりつけば、べたべたした果汁で口の周りが真っ赤に染まるだろう? 乙女の生き血を飲んでいるときの魔女の姿は、それによく似ていたのさ。だから、いつしか〝石榴の魔女〟と呼び習わされるようになった。彼女の本当の名前は、誰も知らない」


 リョウはいまだにカップに口をつけず、茶柱を眺めていた。きっと今この瞬間も脳内では検算を続けているのだろう。自分の計算に間違いはないか、見落としはないか。


「ローマ時代の伝承が本当かどうかは、あまり重要じゃない」


 確かめようもないしね、と彼女はつぶやく。スミス氏は笑った。


「こりゃあ驚いた! ホームズさんまで魔女を信じておいでだとは!!」


 表情一つ変えずリョウは答える。


「カモノハシだ」

「……えっと、何ですって?」


 スミス氏は怪訝な顔をする。


「オーストラリアに棲息する動物だ。水鳥のような幅広のくちばしと、カワウソのような細長い体を持っている。手足には水かきがあるらしい」


「そりゃまあ、学のないあたしでもカモノハシぐらいは知ってますけど……?」


「ところが、この国に初めてカモノハシの標本が届いたとき、イギリス人は誰一人としてその存在を信じなかった。……そうだね、ワトソンくん」


 ぼくはうなずいた。


「でっち上げだと考えられたんだ。腕のいい剥製職人が、ビーバーか何かの体にアヒルのくちばしを縫い付けたんだろう……ってね」


「失礼ですが、いったい何の話です?」


「つまりね、スミスさん。私たちは自らの知識を過信すべきではないと言いたいのさ。この世界には未知の生き物がたくさんいて、思いもよらぬ姿をしているかもしれない。ローマ人の時代には、本当に魔女と呼べるような生き物がこの森にいたのかもしれない」


 スミス氏は両手を広げて頭を振った。話にならないと言いたいらしい。

 リョウは続ける。


「繰り返しになるが、ローマ人を襲ったモンスターの正体は分からないし、今はあまり重要ではない。重要なのはウィッカム氏が何を目撃したのか。そして私たちが見たものは、いったい何だったのか――」


 昨晩の恐ろしい光景が脳裏をよぎり、ぼくは思わず首をすくめる。

 ハロルド氏が言った。


「ホームズさん。あなたは真相を明らかにするとおっしゃいましたね」


「うむ」


「それでは、あれの正体もすでに分かっていらっしゃるのですか?」


「すでに計算は終わっているよ。いずれにせよ、事件の鍵を握るのは死者たちだ。あなたの父上であるセドリック・オズボーン。そして――」


 リョウは、エリーを見つめた。


「あなたの亡き夫である、トーマス・ステビング。この家で長きにわたり執事を務めてきた男だね。さらには、二十年前に行方不明になったメイドのバーバラ」


「あの子は死んじゃいないよ」


 エリーの口調に迷いはなかった。


「少なくとも肉体は、魔女になって生きている」


 リョウは答えず、柱時計に目を向けた。それだけでぼくには分かった。


「応援の到着まで、まだしばらくかかりそう?」


「ああ、時間はたっぷりある。もう少しだけ事件の経過を追ってみようじゃないか。私とワトソンくんが屋敷の最寄り駅に着いたところから――」

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