第2話 科学に〝絶対〟はない


 一週間ほど前にさかのぼる。

 クリスマスも近づく、十二月の昼下がり。


「ときにワトソンくん。君は幽霊を信じるかい?」


 新聞を広げながらリョウが訊いた。

 椅子にふんぞり返って、両脚を机の上に載せている。新聞紙に遮られて表情は分からない。


「何だよ、藪から棒に」


「だから幽霊だよ。死んだ人間の霊魂さ。この国でも、一部の人々は〝交霊会〟を盛んに開いているだろう。あれは本当に幽霊を呼び寄せているのだろうか? それとも、霊能力者たちは単なる詐欺師なのだろうか?」


 見れば、彼女は下らない大衆新聞を読んでいた。おおかた降霊術の特集でも組まれていたのだろう。ため息混じりにぼくは言う。


「机から脚を降ろしなよ。みっともない」


「むう」


 リョウは新聞を少し下げて、ジト目を覗かせる。


「何だい。君は『もっと淑女らしく振る舞え』とでも言いたいのか?」


「紳士だってそんな格好をするものじゃありません」


 子供じゃあるまいし。

 

「マーガレットおばさんみたいなことを言わないでくれ。それに、この姿勢にはちゃんと意味があるんだ」


「はあ、意味ねえ……?」


「こうやって脚を高くしておけば、たまった血液が体のほうに戻ってくるだろう。すると、頭に回る血液が増えて、思考がすっきりハッキリする……というわけだ」


「で、その思考力を使って幽霊について考えているのだね。知性のムダ遣いも甚(はなは)だしい」


「つまりワトソンくん、君は幽霊を信じていないのだな」


「もちろんだよ。ルイ・パスツール博士の実験で、生命の自然発生説が否定されたことは君も知っているだろう。あれはつまり、魂とか霊魂とか、あるいは〝生命力〟とか……、そういう超常的でスピリチュアルなエネルギーがこの世界には存在しない証拠だと思うんだ」


「ふむ。果たして、そう断言できるかな?」


「できるとも! そして人間も例外じゃない。ぼくらの体の中には神秘的な未知の力など働いていないし、物理学的・化学的な仕組みだけで説明できるはずだよ。ぼくらの思考力だって、おそらくはチャールズ・バベッジ博士の計算器械のような仕組みが脳の中にあるんだろう。ぼくらの肉体に霊魂が宿っていない以上、幽霊なんてありえない」


「いわゆる〝生物機械論〟というやつだね。ロマンのない男だ」


 言ってくれるじゃないか。科学ほどロマンに満ちた学問はないのに。

 ぼくはむっとして言い返す。


「じゃあ、ホームズ。君は幽霊が存在すると思うの?」


「さあね、分からない。とはいえ、この新聞にはじつにもっともらしく書いてあるぞ。『蝋燭の照らすなか、降霊術師のF氏が呪文を唱えると、どこからともなくカチカチというラップ音が聞こえてきて……』」


 ぼくは笑ってしまった。


「ラップ音ほど、幽霊の不在を示すものはないよ。その新聞にどこまで詳しく書いてあるか知らないけど、その交霊会が開かれたのは冬じゃないか? そして、交霊会の開始前にお湯を使ったはずだ」


「ほう、たしかにF氏は交霊会の直前にシャワーを浴びて身を清めた……と書いてある」


「だったら間違いない。シャワーを浴びれば、お湯で温められて配水管が膨張する。そして交霊会が始まるころには冷やされて、今度は収縮する。このときに配管の継ぎ目がこすれるから、カチカチという不気味な音が出るんだよ」


「なるほど、幽霊が音を立てていると考えるよりは合理的かもしれないな」


「そうとも。科学的に考えて幽霊なんて絶対に存在しないよ」


「科学的に考えて、か」


 リョウはくすくすと笑った。爆笑したいのを我慢しているのだろう。新聞を握る手に力が入り、くしゃりと潰れる。


「ふふふ……。科学的に、ねえ」


「何だよ」


「いいや、失敬。だけど君が博物学の分野で仕事を得られない理由が分かった気がするよ。少なくとも、その理由の一端が」


「どういうことだ」


 憮然として答えると、リョウは続けた。


「科学とは、客観的な観察によって得られた事実をもとに、もっともらしい仮説を積み上げていくものだろう? 私はそう理解している」


「まあ、間違っていないと思うよ」


「だとすれば、科学に〝絶対〟はない」


 リョウは続けた。


「絶対に存在しないとか、絶対に存在するとか、断言することはできない。宗教や会計学との違いだね。宗教家は『神は絶対にいる』と言って譲らないし、会計士は『絶対に正しい数字』を求めて悪戦苦闘する。比べて、科学はもっと柔軟だ。もしも既存の理論を否定するような証拠が観察されたら、粛々と新しい理論を組み立てるだけだ」


 たとえば天動説――宇宙の中心は地球であり、他の天体が地球の周囲を回っているという説――は、決して宗教的な迷信ではなかった。当時の観察結果に基づいた、れっきとした科学だった。ところが観測技術が発達するにしたがって天動説では説明しがたい事実が増えていき、やがて地動説に取って代わられた。


「つまりね、幽霊を頭ごなしに否定するのは科学的な態度とは呼べないと思うのさ。

たしかに既存の物理学・化学・生物学では、そんなものは存在しないと考えるほうが妥当だろう。けれど、これだけたくさんの人が幽霊を目撃したと証言しているんだ。たとえ幽霊は存在しなくても、幽霊と呼べるような現象は実際に起きているんじゃないかな」


「集団で幻覚を見ているとか?」


「それも解釈の一つだね」


「そうは言っても、君は幽霊を見たことがないんだろう」


「まあね。ワトソンくんは?」


「もちろん、ない。実際に観察するまでは、幽霊の存在を信じることなどできないよ。だいいち、もしも幽霊が実在するとしたら――」


 ぼくのセリフは来客に遮られた。


「――すばらしい!」


 弾き飛ばすようにドアを開けて、ハロルド・オズボーン氏はのしのしと部屋に押し入ってきた。


「どうかお許しいただきたい、立ち聞きするつもりはありませんでした。しかしドアの隙間からお二人の会話が聞こえてきてしまったのです。あなたこそ私の求めていた人物です! ぜひとも幽霊退治にご助力を願えませんか、ホームズさん!!」


 と、ぼくに手を差し出す。

 つられてぼくも差し出すと、飛び上がるほど強く握り返された。


「あ、えっと……。ぼくはホームズじゃなくて……」


「ええ、ええ。存じております。ご本名はランカスターさんとおっしゃるのでしょう? おや、そちらの中国人の方は? ホームズさんの使用人ですか?」


 ぼくは手をふりほどいた。


「だから、ぼくはホームズじゃないと言ってるでしょ! 本物のホームズはあっちだよ!!」


「へ?」


 ハロルド氏の目が点になる。リョウは吹き出した。


「まあ、勘違いなさるのも無理からぬことだろう。いかにも、ホームズは私だ」


「こ、これはとんだ失礼を――」


 よほど驚いたのだろう。マナーも忘れてぼくを指さす。


「では、こちらの方は?」


「私の助手のワトソンくんだ」


「助手になった覚えはないからね!」


 無視してリョウは訊いた。


「それで、幽霊退治とおっしゃったかな?」


「はい、私の屋敷に現れた幽霊を退治できるのは、ホームズさんをおいて他にいないと考えております」


「悪いが私は会計探偵だ。お金に関する事件が専門でね。もしも幽霊にお悩みなら、ちょうど腕利きの霊能力者の一覧がここに――」


 リョウが広げた新聞を、ハロルド氏は押しのける。


「いいえ、霊能力者には荷が重すぎます。この事件はあなたにしか解決できません!」


「ふむ?」


 おそらくこのときのぼくらは、揃って同じ表情を浮かべていただろう。月並みな表現を使えば、鳩が豆鉄砲を食ったような顔、である。

 ぼくらの困惑をよそに、ハロルド氏はうわずった声で言った。


「何しろ、お金に関わる事件なのですから!!」

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