第17話 教授はつぶやく


 かつん、かつん――。


 運搬船の船底には腐臭が満ちていた。石炭の粉塵と、汗と、魚の臓物の臭(にお)い。

 テムズ川の流れは穏やかだ。河岸のドックに停泊していれば、船はほとんど揺れない。


「せっかく情報をいただいたにもかかわらず、申し開きの余地もございません……」


「全部こいつが考えたんだよ! なんで俺までこんな目にあわなきゃなんねえんだよ!?」


 二人組の男は、後ろ手に縛られてひざまずいていた。

 ひげの男は左目の周りが青黒く腫れていた。若いほうの男は、鼻の下に血の流れた跡があった。周囲の暗がりには目つきの悪い人々がぐるりと並んでいる。くすくすと笑う声からすると、女も交ざっているらしい。


「――君たちには期待していたのだがね」

 

 低く、朗々とした声。


「なんだったかな、君たちのニックネームは。ランベスを恐怖に陥れた二人組、地獄の餓狼と猟犬……。前評判からすると、あまりにも期待外れな結果だ。そうは思わんかね?」


 暗がりの中から初老の紳士が歩み出た。

 すこぶる背が高く、後退した生え際から青白い額が突き出している。白髪交じりの頭だが、ひげをきちんと剃っているせいで若々しく見える。本当の年齢はよく判らない。


 かつん、かつん――。


 先ほどから響く乾いた音は、紳士の杖が床を打ち付ける音だ。

 片眼鏡(モノクル)をきらりと光らせて、彼は言った。


「さてと、別れの言葉を残したい相手はいるかな? 責任を持って、私が伝えよう」


 ひげの男は身震いした。若いほうは目をぱちくりとしている。なぜこんな災難が自分に降りかかっているのか、まるで理解できないという表情。


「ど、どうか今一度チャンスをいただけないでしょうか! 次は必ずや、教授のお眼鏡に適う働きをしてみせます!!」


「あははは! そうか、チャンスか!!」


 教授と呼ばれた紳士は、体をのけぞらせて笑った。


「――おい、君。そのジンを渡しなさい」


 教授が暗がりに声をかけると、一人の男が小さな瓶を差し出した。飲みかけの透明な液体が入っている。

 ひげの男の頭に、教授はジンをふりかけた。

 ぴちゃぴちゃという水音とともにアルコールの刺激臭が広がる。


「では、どうか今一度、酒を瓶に戻していただけますかな?」


 空瓶を押しつけて、教授はにやりと笑った。


「……へ?」


「君が言っているのは、こういうことだよ。チャンスというのは、二度目がないからこそチャンスと呼ぶのだ。覚えておきなさい」


 ひげの男は何か言おうとして、しかし言葉が思いつかないらしい。池の鯉のように口をぱくぱくさせた。


「な、なんだよ! じゃあ俺たちは不合格だってのか!?」


 ようやく事態が飲み込めてきたらしい。若いほうの男が叫んだ。


「不合格?」


 教授は微笑んだ。


「いいや、立派に合格だよ。私は鯨油採取用の船を一隻持っていてね、フォークランド諸島の沖で捕鯨をさせているのだ。君たちにはあの船で働いてもらおう」


「そんな……死ぬまで捕鯨船で働けと?」


「まあ、死ぬまでかどうかは、君たちの働き次第だ。とはいえ、もう一生ロンドンの地は踏めないと考えてもらっていい。運がよければブエノスアイレスあたりで余生を送れるだろう」


「ふざけんじゃねえよ! フォークランド諸島ってどこだよ! 俺はこのロンドンで、人間らしく暮らしてえんだよ!!」


「そのセリフを、これから仕事仲間になる捕鯨船員が聞いたらどう思うだろうね。君はもう少し、他人の仕事への敬意というものを覚えたほうがいい」


「うるせえ! 船乗りなんて、船長の言いなりになる歯車じゃねえか! そんな生き方、俺は絶対に――」


 かつん、かつん――。ばちん。


 教授の杖が、男の顎を砕いた。


「――歯車が人間の言葉を話すな」


 冷たく言い捨てる。若い男は声にならない叫びを上げて、床を這いずった。


「それにしても、一度ならず邪魔をされるとは……。リョウ・〝ホームズ〟・ランカスターと、その相棒のエラズマス・〝ワトソン〟・フッカーといったか?」


 誰にともなく教授はつぶやく。


「あやつらを捨て置くわけにはいかんな」


 船底は、生臭いにおいで満ちている。


 かつん、かつん――。

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