第16話 パパからの最期のメッセージ


 まだ午前中だからだろうか。

 珍しく、澄んだ青空が広がっていた。


「汽車の時間は?」


「あと一時間もありません」


「なら、急いだほうがいいね」


 ぼくは指笛を鳴らして辻馬車を呼び寄せた。

 ベイカー街の下宿の前で、ぼくたちは別れを惜しんでいた。来たときと同様にオリヴィアの荷物は少なく、旅行用かばん一つに収まってしまった。


「寂しくなるわねえ」とマーガレットおばさん。


 その隣では、クレアがむっつりと黙り込んでいる。腕組みをして、小柄な体で精一杯に仁王立ちしていた。オリヴィアとは目を合わせようとしない。


「それにしても寄宿学校への編入が決まってよかった。今度の学校は、かなりの名門校なのだろう?」


 リョウの言葉に、オリヴィアは微笑む。


「はい、その後は……大学を目指してみようと思っています」


「ほう!」


「最近では女子でも入学できるところが増えていますから。本格的に語学を勉強したいと思っているんです」


「素晴らしい目標だ!」


 リョウはこめかみの辺りを指さす。


「女が一人で生きていくには、男以上にここで勝負しなければならない。大学に進むかどうかを別にしても、身につけた知識や技能は君の人生を助けるはずだ」


「全部、ワトソンさんのおかげです」


 ぼくのほうを向いて、オリヴィアは目を細めた。


「……ぼくの?」


「だって、ワトソンさんが教えてくれたじゃないですか。私の言語力があれば、世界中のどんな場所でも生きていけるって。死んだ人の言葉の解釈を間違えたらいけないって」


 明日をも知れぬ身、いまを生きよ。


「わたし、やっぱりあの詩集はパパからの最期のメッセージだと思います。もしもパパが生きていたとしても、モントリオールで過ごしたころには戻れないんです。だから、あのころのことを思い出してばかりではいけない。きちんと前を見て、いまを生きなさい。きっとパパは、そう言いたかったんだと思うんです」


 ぼくはうなずいた。


「君から夢を奪う権利なんて誰にもないさ。思う存分、学ぶといい。ラテン語、フランス語、イタリア語にロシア語――」


「それから、日本語も」


「日本語?」


 彼女はリョウに目配せした。


「ホームズさんのお世話になって、わたし、知りたくなったんです。日本がどんな国なのか」


 リョウは笑みを浮かべる。


「いつでも力になろう」


「ありがとうございます! 将来は、日本語の通訳を目指してみようかな」


 えへへ、とオリヴィアは笑った。


「別に海の向こうに留学するわけではないんだ。長い休みが取れたときは、ロンドンまで遊びに来るといい」


 リョウの提案にうなずこうとして、オリヴィアはわずかに顔を曇らせた。


「でも、わたしが来たら……迷惑かな……」


 クレアの仏頂面に気付いたからだ。

 彼女とオリヴィアは生きている階級が違う。クレアがどれほど渇望しても、オリヴィアと同じ身分にはなれないのだ。

 一度は同じ屋根の下で、同じメイドとして働いていたのに。


「ハァーア!」


 聞こえよがしにクレアがため息をつく。


「あたしが気に入らねーのは、あんたのそーゆーところですよ。余計な気を遣うから、やるべきこともできねーんです。失敗したらどうしよう、迷惑かけたらどうしよう……って、つまらない心配ばかりしている。だから家事もお遣いも下手くそだったんですよ、きっと」


「ご、ごめん、なさい……」


 クレアは、ふんっと息を漏らすと、組んでいた腕を片方だけほどいた。そっぽを向いたまま右手を差し出す。


「遊びに来たくなったら、いつでも来やがればいいんです。だいいち、あんたには美味しい燻製ニシンの焼き方を教えてやっていません。あのままじゃお嫁に行けねーです!」


 オリヴィアはおずおずとその手を取った。


「ありがとう」


 そして二人は固い握手を交わした。固い、あまりにも固い――。


「あ、あの……クレアさん?」


「なんです」


「ちょっと、い、痛いです……」


「わざとやってるんですぅ!」


 クレアはイタズラっぽく言った。オリヴィアも困ったように笑う。


「――おおい、お客さん。そろそろ馬車を出したいんだがね」


 馭者に言われて、ぼくたちはハッとした。


「そうだよ、汽車の時間に遅れちゃうよ! 馭者さん、キングス・クロス駅まで。思いっきり飛ばしてあげて」


「はいよ。乗るのはお嬢さん一人かい」


「うん。……さあ、オリヴィア。そろそろ行かなくちゃ――」


 手招きしようとして、ぼくの言葉は遮られた。

 オリヴィアが胸のなかに飛び込んできたからだ。


「……オリ、ヴィア?」


「会いに来ますね。絶対に、また会いに来ます。ワトソンさんに!」


「ああ、待っているよ」


 灰色がかった金髪を撫でてやる。


「さあ、もう行かなくちゃ。本当に汽車に間に合わない」


「はい……。お世話になりました……!!」


 緑色の目を潤ませて、オリヴィアはぺこりと頭を下げた。

 そして涙をこぼすまいとするように、急いで馬車に乗り込んだ。


「……呆れたな、君がそんなスケコマシだったとは」


 馬車が見えなくなったころ、ぽつりとリョウが言った。


「スケ――なんだって?」


「ホームズさんの言う通りです。年齢差をこーりょしてほしいですね」


 いやいや待て待て。


「勘弁してくれよ、向こうは十四歳の子供だよ!?」


 下宿に戻ろうとする背中に呼びかける。


「十四歳にもなれば立派に女だ。そうだろう、クレア?」


「ええ、おっしゃるとーり!」


「あの子の将来が心配だわねえ……」


 マーガレットおばさんまで、さらりと毒舌を吐く。


「いや、待ってよ! みんな考えすぎじゃないか? あの子から見れば、ぼくは――認めたくないけど――もうおじさんのはずだ。常識に照らしてそんなことありえないだろ!? なあ、おい、ホームズ! なんとか言えよ」


「悪いが今日はこれから忙しくなるんだ。君との無駄話に費やす時間はない」


「って、なんで急にそんな不機嫌になっているの?」


「不機嫌になどなっていない」


 くちびるをつんと尖らせて、リョウは階段を駆け上がった。

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