第15話 手品が好きな人


 このときを、ぼくらは待ち構えていた。


「――考えてみれば不思議だね、《保険金》というものは」


 リョウは物陰から歩み出ると、男たちの前に立ちはだかった。重たい霧に阻まれて、お互いの姿は黒っぽいシルエットになっている。


「なんだ、お前は……?」


「将来の収益をもたらすものは、大抵、資産として計上される。ごまかそうとすればBSとPLが歪むし、帳簿を精査すれば隠し財産なんてすぐに見つかる。しかし、保険は別だ。実際に事故が起きるまでは《保険料》という費用が発生するだけで、資産とは見なされない」


 霧の切れ目が流れてきて、お互いの顔がハッキリと見えた。


「ホームズさん!」


 一声叫んで、クレアが飛び出した。

 すかさず若いほうの男が切りかかろうとする。が、ひげの男が恫喝した。


「待て!」


 若い男はぴたりと動きを止めると、歯を剥き出しにして唸り声を上げた。トラファルガー広場は人通りの激しい場所だ。霧の向こうから、帰りを急ぐ人々のざわめきが聞こえていた。ここで流血沙汰を起こせばただでは済まない。


「……見事だね、ホームズ。すべて君の計算通りじゃないか」


 彼女の背後から、ぼくも歩み出る。オリヴィアも続いた。


「ほ、本当にクレアさんと男たちが来るなんて……」


 自信たっぷりにリョウは続ける。


「もっとも、本当は事故が起きたときに《保険金請求権》という資産を計上すべきなのだが、今回の場合はその仕訳を切るべき本人が死んでしまった。さらに不運にも力不足の会計士が担当したせいで、生命保険の存在が見過ごされてしまったわけだ」


 彼女の腕にすがりついて、クレアはおいおいと泣いた。


「ホームズさぁん! 怖かったですよぉ~~~!」


「ふむ、私の計算には寸分の狂いもなかったらしい。保険金を騙し取るなら、オリヴィアを改めて捕まえなおすよりも、クレアを偽物に仕立て上げるほうが簡単だからね。無駄に傷付けはしないだろうと踏んでいた」


「保険金? 騙し取る? いったい何の話をしているのやら」


「見苦しいぞ!」


 ぼくは叫ぶ。


「お前たちの狙いはすべて分かっているんだ。この期に及んで、言い訳ができると思うなよ」


 若いほうの男が怒りに顔を引きつらせる。反面、ひげの男は小さく肩をすくめた。


「まったく理解しかねるね。そちらのお嬢さんはまだ気が動転しているようだが……。我々はそのお嬢さんが倒れているのを見かけて、ここまで道案内してきただけだ」


 ぬけぬけと嘘をつく。だが――


「お前たちが欲しいのはこれだろう」


 リョウが一枚の書類を掲げると、ひげの男は目を見開いた。


「な、なぜだ!」


 叫んでから、「しまった」という表情を浮かべた。絞り出すような声で続ける。


「なぜそれを持っている。その保険証書は、所在が分からなくなっていたはず……」


「会社清算のどさくさで消えたと思っていたのだろう? しかし、大切な娘のための生命保険だよ。簡単に紛失するような場所に保管しているはずがない」


「……信じがたいな。我々だって血眼になって探したはずなのだが」


「マクノートン氏は、もしも自分が死ねば莫大な負債が残ることを知っていた。債権者のなかには心ない人がいて、生命保険から貸付を回収しようとするかもしれない。オリヴィアは金をむしり取られてしまうかもしれない。だから保険の存在そのものを、彼は秘密にしていたのさ。当の娘に対してさえも」


「だが、それでは氏の目的はなんだ? 肝心の娘が保険金を受け取れないではないか。……もっとも、だからこそ我々はその保険金に目を付けたわけだが」


「もちろん、オリヴィアだけに分かる方法で保険証書の在処を伝えていたんだよ」


 リョウは『ホラティウス詩集』を取り出した。


「それが、この詩集だ。私も反省すべきだね。そもそも父親から贈られた品だと分かった時点で違和感を覚えるべきだった。いくら財政が悪化していても、マクノートン氏のような会社経営者が汚れた古本を娘に贈るのはおかしい。勉強のためなら、長く使えるように新品を買い与えるはずだ。では、勉強のためではないとしたら、どうだろう?」


 詩集の背を――以前は背表紙がついていた場所を――リョウは見せた。

 そこにはアルファベットと数字の羅列が書かれていた。


「このアルファベットは某銀行の頭文字、この数字は貸金庫の番号だ。問題の保険証書はここに保管されていたよ。どうやら、この文字を書き込むときに糊が削れて、インクがしみ込んだらしい。だからページを見開きにしたときに、真ん中に点々と染みが現れたわけだ。あの黒い染みを見ただけで、この仕掛けに気付いてもよかったはずだ。これも今回の反省点だね」


「だが、なぜだ……。どうしてそんな手の込んだことを?」


「パ、パパは……手品が好きな人でした……」


 震える声でオリヴィアが答えた。


「出張から帰ってくるたびに、奇術の道具を買ってきてくれました。今回の航海だって、自分が死ぬとは思っていなかったはずです。仕事から帰ってきたときに、種明かしするつもりだったのだと思います」


 ぼくは目を閉じる。会ったはずのないマクノートン氏の声が聞こえてくるようだった。


(どうだいオリヴィア。少し前に詩集が届いただろう。あの詩集にはすごい秘密が隠されていたんだ。分かったかな――)


 ちょっとしたイタズラ心だったはずだ。


「私としては、お前たちがどうやってオリヴィアの保険金のことを知ったのかが訊きたいね。おそらく保険会社に内通者がいたのではないか? 未払いの保険金があることを知りえても、お前たちのために保険証書を再発行できるほどの立場ではない。そういう内通者が」


 男たちは答えなかった。ただ、若いほうが憎々しげに舌打ちしただけだ。


「いずれにせよ、ここには本物のオリヴィア嬢がいて、本物の保険証書がある。お前たちの計画は見事に破綻したのさ。どうだろう、警察に自首してみては? 私のせいでお前たちが縛り首になるのは寝覚めが悪い。できるだけ刑が軽くなる道を選んで欲しいのだが」


 ひげの男は肩をすくめた。


「話にならんな」


 そして小さく微笑む。リョウは笑わなかった。


「残念だ」


 ――すちゃ。


 まるで拳銃を向けるように、リョウはそろばんで男たちを指し示した。

 それが合図だった。

 周囲は暗さを増し、霧はますます濃い紺色に染まっていく。

垂れ幕のような霧を切り裂いて、いくつもの光球が灯った。まるで森の中の野獣の群れが、煌々と輝く両眼をいっせいにこちらに向けたような光景だ。時間にすれば一秒にも満たない出来事だろう。

 ひげの男は異変に気付き、思わず周囲を見回した。一方、若いほうの男はいまだにリョウに憎々しげな視線を向けている。


「ちくしょう!!」


 ひげの男は悪態をついた。

 霧を掻き分けるようにして、警官の一団が現れたからだ。ブーツのかかとが鳴らす騒がしい足音とともに、警官たちは二人組の男へと駆け寄る。彼らの手にした警察用ランプ(ブルズ・アイ)が揺れて、光の輪が宙を舞う。

 二人の男は弾かれたように逃げ出した。が、来るときに乗ってきた四輪馬車はとっくに姿を消していた。

 若いほうの男はナイフを抜くと、たまたま通りがかった二輪馬車の前に立ちはだかった。驚いた馬がいななき、前足を大きく振り上げる。その隙にひげの男は馭者を殴り倒し、道路へと放り投げた。そのまま手綱を奪う。

 警察官の怒号が飛び交う。


「くそっ! 逃がすな!!」


 二人の男は霧の中へと走り去り、警官たちが後に続いた。


 彼らの姿が見えなくなると、嵐が遠ざかるように静けさが戻ってきた。トラファルガー広場を行き来する人々のざわめき。ロンドンの日常の音。


「さて、私たちも残った仕事を片付けるとしよう」


 まるで何事もなかったかのように、リョウは涼しい顔だ。


「残った仕事?」


「決まっているだろう。保険金を受け取る手続きだよ」

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