第13話 灯台もと暗し


 半時間後、リョウは頭を抱えていた。


「おかしい! 絶対にどこかに手がかりがあるはずなのに――」


「言ったでしょう、私はきちんと職責を果たしたって。マクノートンさんの会社の清算作業に不備があったなんて、とんだ言いがかりですよ」


 会計士は五十がらみの太った紳士で、赤ら顔を白髪交じりのあごひげが縁取っていた。

 事務所はぼくらの部屋よりもずっと広い。床面積は倍ぐらいあるだろう。本棚には会計学の教科書や手引き書が並び、マントルピースには貝殻やウミユリの化石がごちゃごちゃと飾られている。


「見事なものでしょう?」


 ぼくが化石を見つめていることに気付き、会計士は自慢げに言った。


「私は博物学的な趣味がありましてね。以前は、かのリチャード・オーウェン博士ともお付き合いがあったんです。その化石は博士から贈っていただいたものですよ」


 本当だとしたら大したものだ。オーウェン博士といえば「恐竜」という言葉を作ったことで知られる人物で、騎士爵まで得ている。会計士の慣れた口ぶりからすると、いつもこの自慢話を披露しているのかもしれない。著名人と知り合いならば箔が付くし、客からの信頼も厚くなるだろう。

 リョウはというと、会計士の作業机を占拠して、帳簿に埋もれていた。

 彼女の足元には、りんご箱ぐらいの大きさの木箱が一つ。そこには帳簿や契約書を挟んだファイルが突っ込まれている。すべてマクノートン氏の会社のものだ。この会計士は同じ建物にもう一部屋借りていて、書庫として利用しているらしい。好運にも、くだんの会社の重要書類も保管されていた。


「BSやPLにおかしなところはないし、仕訳日記帳にも奇妙な取引は記録されていない。どういうことだ? 本当に私の計算違いなのか――!?」


 もう〝会計探偵〟なんて廃業する! と言い出しかねないほど蒼白な顔で、リョウは自問自答している。帳簿の同じページを繰り返しめくっては、パチパチとそろばんを弾く。そのたびに「ああ……」とか「うぅ~」とか唸っている。


「まあ、仕事熱心なのは結構なことで」


会計士は応接用のソファに座り、ぼくやオリヴィアと向き合った。二本目の葉巻に火をつけると、ビール樽のように膨らんだ腹を撫でながらゆっくりとくゆらせた。


「それにしても、お久しぶりだね、お嬢さん。少し痩せたかい」


 なめ回すような目でオリヴィアを眺める。


「もう少し肉を付けたほうがいいな。さもないと、水商売でも客がつかないね」


「――なんてことを言うんだ、あなたは!」


 声を荒らげたぼくを無視して、会計士は続けた。


「私が言った通り、きちんと働いているかな? 旦那様にご迷惑はおかけしていないだろうね。もしもメイドの仕事を失ったら、冗談ではなく水商売で食べていくことになるんだぞ」


「……はい」


 リョウは今朝、この国には厳然とした階級社会があると言った。

 それは半分正しく、半分は間違っている。近代的な蒸気機関の発明者であるジェームズ・ワットは、若いころは資金難に苦しんだ。〝鉄道の父〟として名高いジョージ・スティーブンソンは、貧しい炭鉱街に生まれ育ち、十八歳までまともな学校教育を受けられなかった。オリヴィアの祖父だって、一介の船乗りから会社の社長に成り上がった。反面、どんな金持ちの家に生まれても将来安泰というわけではない。オリヴィアのように、ちょっとしたきっかけで屋根裏のメイドの身分まで没落してしまう。

 階級社会はとっくに崩れ始めているのだ。


「まあ、せいぜい勤勉にお務めを果たすことだね。くれぐれも現実を忘れぬように。もうお嬢さんはお金持ちではないし、詩作にうつつを抜かしていられる身分じゃない。夢なんて見ている余裕はないんだ」


 彼がひとこと発するたびに、においの強い煙がもくもくとまき散らされた。オリヴィアはうつむきがちに、こくり、こくりとうなずく。

 ぼくは全身がカッと熱くなるのを感じた。

 そうか、こいつのせいだったのか――。脳裏に浮かんだのは、オリヴィアのセリフだ。


(夢を見るなんて贅沢はできないんです)


 こいつのせいで、彼女はささやかな夢を持つことさえできなくなったのだ。この男は親切そうな顔で〝現実〟を語って、父の死で弱ったオリヴィアの心にとどめの一撃を加えたのだ。


「あなたは、分かっているのか……?」


 自分が何をしたのか。オリヴィアにどれほど冷酷なことを言ったのか。

 ぼくは拳を握りしめる。


「――なんだこれは!?」


 出し抜けにリョウが叫ばなければ、そのまま会計士に掴みかかっていたかもしれない。

 ぼくらは揃って、リョウのほうを見た。

 彼女は小ぶりなノートを睨み付けていた。右手はそろばんに載せたまま、左手だけで器用にページをめくっていく。


「こんな帳簿があるとすれば、話が別だ!」


「……ああ、それはマクノートンさんの個人の仕訳帳ですよ」


「つまり会社の会計とは別の、マクノートン氏の家計簿というわけだな。なるほど、氏はきちんと複式簿記で家計簿をつけておられたわけだ」


 ふむふむと息を漏らしながら、リョウはページを行きつ戻りつしている。


「問題は、これだ」


 机の上に身を乗り出して、帳簿の一ページを突き出した。小さな文字列を指さす。


「ここに〝生命保険料〟と書かれている。じつに毎月一ポンド少々。それなりに割高だし、支払われる保険金だってバカにできない金額だったはずだ。ただし、ここには支払先の保険会社の名前は書かれていない。この箱には保険証書も入っていなかった」


「保険ですって?」


 会計士は立ち上がると、帳簿を取り上げた。老眼が始まっているのだろう。顔から離して、ややのけぞるようにして眺める。


「おやまあ、本当だ」


「何が『おやまあ』だ! その様子だと、生命保険の存在に気付かず、保険金も受け取っていないようだな。あなたはそれでも会計士か!?」


 憮然として会計士は答える。


「あいにく、私は会社の清算を担当しただけですのでね」


「だから会社の帳簿しか確認せず、せっかく手に入れたマクノートン氏の家計簿は精査を怠ったというのか。とんだ片手落ちだな。いったいどうなっているんだ、この国では一定の年齢以上の会計士にはぼんくらが増えるらしい」


 その理由は、たぶんリョウよりもぼくのほうが詳しい。

 世界で最初の勅許会計士は、一八五四年にスコットランドで誕生した。わずか三十年ほど前のことだ。それ以前には会計士の身分を証明する公的な資格は存在せず、わずかでも会計学の知識があれば誰でも会計士を名乗って開業することができた。

ロンドンでは一八七〇年代になっても状況は変わらず、会計士は嘘つきの代名詞のような職業だった。《イングランド・ウェールズ勅許会計士協会》が設立されたのは一八八〇年のこと。それからまだ十年も経っていない。この街では、いまだに〝ぼんくら〟な会計士が堂々と看板を掲げているのだ。

 ふんっ、と会計士は鼻息を漏らした。


「どうやら中国には、さぞかし優秀な会計士様がいらっしゃるのでしょうな」


「あの人に流れているのは、中国ではなく日本の血だぞ」


「東洋の後進国という点では、どちらも似たようなものじゃありませんか。だいいち、もしも私がその帳簿に気付いていたとして、何が変わったというんです。そこには支払先の保険会社の名前は書かれていない。ただ一行、〝生命保険料〟と書かれているだけだ」


 彼は咳払いした。


「つまり、本当に生命保険料だった証拠はないわけです。何かの隠語かもしれない。何か保険とは別の――たとえば愛人へのお小遣いの――支払いを表しているのかもしれない」


「ぱ、パパに愛人なんて……いませんでした……」


「そりゃあ、お嬢さんには秘密にしておくでしょうな。それこそ、自分の死後に帳簿を見られたときに備えて、わざわざ隠語で記したのかもしれない。……それとも、お嬢さんはマクノートン氏から何か聞いていますかな? 万が一のときには生命保険を受け取ることができると、教えてもらっていましたか?」


 オリヴィアは足元に視線を落とし、首を振った。胸にはホラティウスの詩集。まるで嵐の海で浮き輪にしがみつくように、きつく抱きしめている。


「そらごらんなさい!」


 勝ち誇ったように言うと、会計士は思い切り葉巻を吸った。ぽわ、と赤い光が灯る。


「仮にマクノートン氏が生命保険に加入していたとしても、保険証書はないし、会社の名前さえ分からない。お嬢さんは何も聞いていない。これでは保険金の受け取りようがありませんよ」


「それは、そうだな」


 リョウは腕を組むと、すとんと腰を下ろした。

 固く目を閉じて、考えごとを始める。


「絶対に何かを見落としているはずなんだ……。いったい何を……?」


やれやれと言いたげに頭をかきつつ、会計士はソファに戻った。


「なんにせよ、少々無責任でしたな。マクノートンさんは」


 オリヴィアは答えない。彼はぼくのほうを向いた。


「あなたもそう思いませんか? 死んだ人をこんなふうに言いたくはないが……。もしも私だったら、まだ十代の子供を残して海に出たりしませんよ。自分が死んだら一ペニーも残らないと分かっているのなら、なおさらです」


「無責任なものか! マクノートンさんは五大湖で事業を続けても将来がないと分かっていたから、新しいことに挑戦して――」


「それにしたって、ご自身が船に乗ったのは軽率だったんじゃありませんかね。そりゃあ、たしかにコロンブスやドレイクの時代に比べれば、船ははるかに頑丈になり、航海はずっと安全になりましたよ。それでも海難事故が無くなったわけじゃない」


 ぼくは言い返すことができなかった。


「案外、本当に愛人でもいたのかもしれませんな。生命保険はその女性のために加入していたのかもしれない。マクノートンさんは再婚なさっていなかった。七歳で学校に預けて以来ほとんど顔を合わせていない娘よりも、大切な女性がいたとしても不思議はありません」


「パパは……そんな人じゃ……」


 会計士はうっすらと笑った。


「お嬢さんには可哀想だが、世間というのはこういうものですよ。死んだあとに無用な詮索をされるし、根も葉もない噂を流される。無責任だと笑われる。世間というのは勝手なものです。何を言おうと、死人に口なしですからね」


 我慢の限界だった。


「――あの化石、オーウェン博士から贈られたものなんだよね」


 ぼくはマントルピースを仰ぎ見る。


「え? ええ、博士とは親しく文通をしておりましたからな。私が思いつきで手紙に書いた内容が、博士の論文のアイディアに活かされたことも一度や二度ではありません」


「それ、嘘だと思うんだけど」


「なっ――」


 会計士は一瞬、虚を突かれた顔をした。そしてすぐに笑い出した。


「何をおっしゃるかと思えば、ご冗談を! どうして嘘をつく必要がありますか」


 理由なんていくらでも考えられるじゃないか。客からの信頼を勝ち得るため、箔を付けるため、あるいは単なる見栄っ張り。ぼくは続けた。


「じゃあ、あの植物の化石もオーウェン博士から贈られたものなんだね?」


「ええ、もちろんです。博士によれば、ウミユリという中生代の海草だそうで――」


 ぼくはため息をついた。


「やっぱり、あなたは嘘をついている」


「……!?」


「ウミユリは植物じゃない。ヒトデやウニのような動物の仲間だ。少しでも博物学に興味があれば知っていて当然の知識だし、ましてやオーウェン博士が間違えるはずがない。おおかた、値札にウミユリ(シー・リリー)と書かれているのを見て、あなたは植物の化石だと勘違いしたんだろう」


「いや、これは……その――」


「何より、本当に博物学が好きで、化石研究に興味があるのなら『死人に口なし』なんて言葉は出てこないはずだ。死者たちは雄弁に語る。その声に耳を傾けるのが、化石研究というものだからね」


「~~~~~~!!」


 会計士は顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしていた。

 オリヴィアがつぶやいた。


「死者は語る、ですか……」


「ある意味では、ローマ時代の詩に似ているね。死者の声に耳を傾けることから研究が始まって、どんな解釈をするのかが大切で」


「解釈……」


「たとえばイグアノドンという草食恐竜は、化石が発見された当初は角(つの)があるトカゲだと考えられたんだ。サイみたいな角が、鼻先にちょこんと生えているとね。それこそオーウェン博士が『恐竜』という言葉を作る以前の話だよ」


「角じゃなかったんですか?」


「全身骨格が発見されて、それは前肢の親指のかぎ爪だと分かった。尖った骨なら角だろうという思い込みのせいで、正しい姿を復元できなかったんだ。……思い込みに囚われると、解釈を誤る」


「……お詳しいんですね」


 神妙な顔でオリヴィアはぼくの話を聞いていた。

 褒められた嬉しさで、ぼくはつい得意になってしまう。


「化石が教えてくれるのは、死者の生きていたころの姿だけじゃない。地球の歴史そのものを教えてくれるんだよ。同じ地層からは、同じような化石しか出土しない。これを比較すれば、離れた地域でも同じ時代の地層かどうかが分かる。地層の順番を調べれば、地球がどんな歴史を辿ってきたのかも分かる」


「地層って、あのしましまのやつですよね」


「そうとも! あの縞は、たとえるならテーブルの上に寝かせた本を真横から眺めるようなものなんだ。地層の一つひとつがページで、そこには化石という姿でさまざまな情報が書き込まれているわけだ。これを読み解くのが層序学という学問分野で――」


 ガタンッ、と大きな音がした。


「ワトソンくん……。今、何と言った?」


 リョウが立ち上がった。ぼくはハッとする。恥ずかしさで息が止まりそうになった。クレアの身に危機が迫っているというのに、何を得意げに演説していたんだろう。彼女を救うためにリョウは粉骨砕身しているというのに。


「テーブルの上に寝かせた本。そう言ったか?」


「う、うん……。ごめん、こんなときに層序学の話なんて……」


 痛罵されることを覚悟して、ぼくは首をすくめる。

 ところがリョウの顔に浮かんだのは、驚きと喜びの入り混じった表情だった。


「なぜ謝る必要がある! ああ、なんてことだ。こんな単純なことに気がつかないなんて」


 机の上の帳簿や書類をひっくり返して、彼女はペーパーナイフを発掘した。右手で握りしめると、のしのしとすごい勢いで近づいてくる。刺されるかと思った。


「どうしたの、いきなり」


「ほ、ホームズさん……?」


「ワトソンくん、やはり君は最高の助手だ。君のおかげで帳尻が合った。総決算だ!」


「いつも言っているけど、助手になった覚えはないよ! だいいち、手がかりが足りないはずじゃ――」


「揃ったんだよ、手がかりが。というか、それは最初から私たちの目の前にあったんだ。日本のことわざでは『灯台もと暗し』と言うらしいが、イギリスでは何と言えばいいんだ!?」


 彼女は慇懃に腰をかがめると、オリヴィアに左手を差し出した。


「その詩集を貸していただけるかな?」


「構いませんけど――」


 次の瞬間、オリヴィアは小さな悲鳴を上げた。


「これこそ、私たちの〝ゴルディアスの結び目〟だったわけだ!」


 リョウは背表紙にペーパーナイフを突き立てて、一気に引き裂いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます