第11話 幽霊を追いかけているような気分


 辻馬車から飛び降りると、ぼくは下宿の玄関に突撃した。

 ドアの鍵が開いていることに気付いて、ひやりと背筋が冷たくなる。


「――オリヴィア!」


 叫びながら、階段を駆け上がった。しかし返事はない。今の時間、マーガレットおばさんは用事で不在のはずだ。オリヴィアを守れる大人はどこにもいない。


(私の考えすぎだといいんだが)とリョウは笑っていた。


 ミンチン女史との面会を終えて、学校から出た直後のことだ。あれはリョウの悪い癖だ。深刻な事態になるほど軽口を叩いて、何でもないようなそぶりを見せる。


(先ほどノースロード職業紹介所で、私は犯罪のにおいがすると言っただろう。もしかしたらあの面談室で、脅迫が行われたかもしれない。君は驚くべき想像力だと笑い飛ばしたが、今となっては想像であればどれほどいいかと思っている。単なる私の考えすぎであればいいのに。単なる妄想であればいいのに――)


 ミンチン女子寄宿学校に現れたという男二人は、明らかに嘘をついていた。

オリヴィアが一週間前からベイカー街で働いていたことは紛れもない事実だし、数日前まで男二人に雇われていたなんて、ありえない。

 では、その男二人とは何者なのか?

 ノースロード職業紹介所には今朝、嫌な客が現れたという。そのせいでベテランの女性職員は早退してしまったらしい。その客も、妙な二人組の男だったという。


(偶然だと思うか?)とリョウは訊いてきた。


 あのとき、(もちろん偶然に決まっているよ)と、ぼくは答えた。その声が震えていることに自分でも気付いた。もしも偶然でないとしたら、そしてリョウの計算が正しければ――。オリヴィアはその男たちに付け狙われていることになる。


(君は大急ぎでベイカー街に戻って、彼女の安全を確かめてほしい)


(ぼく一人で?)


(私はストランド街に出向いて、ミンチン女史の証言の裏を取ってくる)


(サマセット・ハウスか!)


(その通りだ)


 イングランドには古くは十六世紀末から、幅広い階層の人々が遺言状を残すという文化がある。読み書きができず、署名欄に×印を書くことしかできない人でさえ、几帳面に遺言状を作成してきた。たとえ財産と呼べるものが陶製の食器セットだけでも、子供たちにどのように割り振るのか決めておいたのだ。近年では貧乏人が遺言状を残すことは珍しくなったが、それを大切にする文化であることは変わっていない。

ストランド街のサマセット・ハウスという建物には膨大な数の遺言状が収められており、手続きさえすれば誰でも閲覧できるようになっている。おそらくはオリヴィアの父親の遺言状もあるだろう。自分の身に何かあったときのために、財産の処分方法を決めておいたはずだ。


(それを読めば、彼女が誰に追われているのか、何の目的で狙われているのかも分かるかもしれない)


 こうして、ぼくたちは別々の辻馬車に乗った。


 屋根裏まで一気に登ると、さすがに息が切れた。

 日頃の運動不足を呪いつつ、ぼくはベッドを覗き込む。


「オリヴィア……?」


 そして、その場にへたり込みそうになった。安堵したからだ。彼女はシーツにくるまって、すやすやと寝息を立てていた。穏やかな午後の光がカーテンのすき間から漏れている。

 枕元に一冊のノートがあった。革表紙のついた上等なやつだ。すぐ横には、ちびた鉛筆が転がっていた。ちょうど、浅い眠りの谷間にふと目が覚めて、何かを書き込んで、すぐに眠りに落ちてしまったような様子――。

 悪いことをしている自覚はあった。けれどどうしても好奇心に勝てず、ぼくはこっそりとページをめくった。上質なフールス紙がぺらりと音を立てる。

 詩が書かれていた。

 ぼくは文学には明るくないから、出典は分からない。けれど素人目にも、いい詩だと一読して判った。十八世紀の知識人が書くような、世のありようを紡いだ詩。一ページに一篇ずつ、流麗な筆記体で記されている。英語の作品だけではない。ラテン語やフランス語、そしておそらくはイタリア語で書かれたものもある。


「きゃあ!」


 悲鳴とともに、ノートを奪われた。

 いつの間にか目を覚ましたオリヴィアが、上目遣いにぼくを睨んでいた。ノートを胸に抱きかかえ、目を潤ませている。


「み、見ないで……くださぃ……」


「もしかして、それは君の作品?」


 こくん、と彼女はうなずく。


「驚いたな、まさか君にこんな才能があったなんて! ジェーン・オースティンだって裸足で逃げ出すほどの文才だよ!!」


「………………………………………………………………………嘘です」


「こんなことで嘘は言わないよ。――勝手にノートを見てしまったことは、謝る。本当にごめん。心から反省する。だけど後悔はしない。だって、あんなに素晴らしい作品を読むことができたんだから」


「本当に?」


「うん、本当にそう思っている。……熱は、もう下がった?」


「下がりました」


 たしかに朝よりもすっきりした顔色をしている。彼女はノートをぎゅっと抱いて、頬を赤らめた。


「だけど、また上がっちゃいました」


「まさか君が英語のほかに、三つも言葉を操れるとは――」


「四つです」


 ちょっと考えてから、オリヴィアは答えた。


「ロシア語も、少し」


 だとすれば、恐れ入るほどの言語能力だ。リョウの見つけたフランス語辞典は、たしかにオリヴィアのものだったようだ。


「羨ましいな」


「……?」


「だって、たくさんの言葉を知っていれば、それだけたくさんの切り口から世界を見ることができるだろう。ぼくが自信を持って操れるのは英語だけだ。英語という眼鏡を通じた世界しか知ることができない。だけど、君は違う」


 北極圏のイヌイットには、雪を表す言葉がたくさんあると聞いたことがある。古代エジプトには、砂を示す単語がいくつもあったらしい。身につけた言葉が違えば、世界の見え方だって変わる。


「パパが教えてくれたんです」


 ぽつり、とオリヴィアは漏らした。


「今は自由貿易の時代だよ、これからは国際化の時代だよ……って、パパは教えてくれました。だから、たくさんの言葉を身につけなさい、そうすれば世界中のどこに行っても生きていけるから――。そう、教えてくれたんです」


 だからこそ、ずっと学び続けてきたのだろう。七歳で親元を離れてから、こつこつと知識を積み重ねてきたのだろう。父親との約束だったから。


「……オリヴィア。君に謝らなくちゃいけないことが、もう一つある」


 ぼくはベッドサイドにひざまずいた。


「君の過去について、少し調べさせてもらったんだ」


 言葉を選びながら、ぼくは集めた情報を確認していった。彼女がカナダのモントリオール出身であること、ミンチン女子寄宿学校で暮らしていたこと。そして、父の死と、メイドの仕事を始めたいきさつ。ぼくがひとこと言うごとに、オリヴィアは小さくうなずいた。


「ホームズさんに隠しごとはできませんね」


 話が終わりに差し掛かると、彼女はうっすらと苦笑した。


「ほんのわずかな手がかりから、そこまで色々なことを計算しちゃうなんて」


 彼女は衣装ダンスに目を向けた。ほどかれた麻縄が、取っ手にぶら下がっている。


「最近、よく夢に見るんです。あのころの――モントリオールのお屋敷で暮らしていたころのことを……。仲のよかった乳母のおば様のこととか、冗談が上手な庭師のおじ様のこととか、それに、もちろんパパのことも……。あのころは自分が〝お金持ち〟だということは知っていました。だけど、〝お金持ち〟が具体的にはどういうことなのか、何も解っていなかった」


「お父さんがどんな仕事をしているのか、知らなかったの?」


 オリヴィアはくすくすと笑った。


「小さいころのわたしは、パパの職業は魔法使いだと思っていたんです」


「魔法使い?」


「パパは手品が好きな人で、出張で何日も留守にしたあとには、必ず奇術の道具を買ってきました。透視ができるトランプとか、妖精の映る鏡とか、何度切っても一本に戻るロープとか。今思えば、素人の下手くそな手品だったのだと思います。だけど、あのころのわたしには本物の魔法に見えました。冬の長い夜には暖炉の前で、銀貨を消したり、金貨に変えたり……。きっと、わたしがあまりにも大袈裟に驚くから、パパも楽しかったのかも」


 けれどそんな時代は、あっと言う間に過ぎた。


「寄宿学校に入った日の夜、わたしは声が枯れるまで泣きました。朝になったら、まるでおばあさんみたいな声になっていて……。永遠の別れってわけでもないのに、おかしいですよね。少なくとも一年に一回は会えたのに。生きてさえいれば、いつでも会えたのに」


 オリヴィアはノートに目を落とす。


「パパが死んだとき、わたし、涙が出なかったんです」


 わたしのこと、冷たい人間だって思いますか――? 彼女はつぶやくように言った。

ぼくは答えられない。


「子供が泣くのは、涙を拭いてくれる誰かがいるからです。大声で泣きわめけば、誰かが手を差し伸べてくれる。守ってくれる誰かがいる。そう信じられるから、安心して涙を流せるんです。だけど、わたしにはもう、そんな人はいない」

だから、涙は出なかった。


「パパの船が沈んだと分かってから、たくさんの人が寄宿学校に来ました。弁護士さんとか、会計士さんとか……。慌ただしくて、涙を流す暇もなかったのかもしれません。ろくにお葬式をあげることもできなくて……。パパの会社は清算されて、どうやらわたしの手もとには何も残らないと分かりました。悪いニュースのはずなのに、なぜか救われているような気分でした。書類に目を通している間は、寂しい気持ちを忘れることができたから」


 そして、せわしない期間が終わるころに一個の小包が届いた。


「それがあの『ホラティウス詩集』です。わたしがラテン語の勉強をしていると知っていたから、送ってくれたのかな。パパからの最後のプレゼントになっちゃいました。……語学ができたって、もう何の意味もないのに」


「そんなことないさ。君のお父さんの言う通り、言語を知っていれば世界中のどこにでも行ける。君ぐらい才能があれば、翻訳や通訳の仕事もできるだろう。詩作だって、趣味で終わらせずに出版社に持ち込めば――」


「気休めは、やめてください」


 声は小さいけれど、断固とした口調だった。


「今のわたしには外国に行くお金はおろか、学校に行くお金もないんです。そんな夢みたいなことを言うなんて、ワトソンさんは残酷です」


「残酷……」


 ぼくは絶句してしまう。

 夢は、人間という機械を動かすための燃料のようなものだと思っていた。大それた夢でなくてもいい。真夜中に不安で目が覚めるのは嫌だとか、今よりもちょっとだけいい暮らしをしたいとか、そういう平凡な目標でも、それが心のなかで燃え続けているかぎり、人間は生きていける。しかし、どんな言葉で彼女にそれを伝えればいい? 今のぼくは、おそらく彼女が失ったものをすべて持っている。そんなぼくがどんなに諭しても、彼女の耳には空疎な甘言にしか響かないのではないか?


「最後のプレゼントが『ホラティウス詩集』だったのは、パパからのメッセージのような気がします」


 海の上では、どんな危険が待っているか分からない。死の危険だってある。万が一、命を落としたときのために、日付指定で送った最期の言葉。


「いまを生きよ(シーズ・ザ・デイ)――。ホラティウスの詩で、いちばん有名な一節です」


 明日をも知れぬ身、いまを生きよ。


「もう守ってくれるパパはいないんだから。お金もないんだから。わたしは、いまを生きるしかないんです。夢を見るなんて贅沢はできないんです」


 だから、メイドとして一人で生きていくことにした。住み慣れた寄宿舎を離れて、恐ろしい雇い主もがまんして。


「もう、あのころには戻れないんです」


 自分に言い聞かせるような口調。

 ぼくは何も言えなかった。


 沈黙を破ったのは、またしてもリョウだった。


「――ダメだ、まったく分からない!」


 山猫のような俊敏さで階段を駆け上がり、屋根裏に飛び込んできた。


「案の定、サマセット・ハウスでは私よりも先にマクノートン氏の遺言状を確認している人物がいたようだ。ちょうど一週間前のことだ。しかし、彼らの狙いが分からない。遺言状の文面に気がかりな点はなかった。ミンチン女史の言う通り、オリヴィアには財産らしい財産は残っていない。土地も証券も担保に取られていて、会社を解散する際の負債返済に充てられたらしい」


 どう思う――? リョウは腕を組んで首をかしげる。


「その前に、言うことがあるんじゃないの」


「ふむ?」


「オリヴィアはこうして無事だったんだよ。びっくりしないの?」


「君たちの会話は階段を登っているときから聞こえていた。彼女が無事なのは喜ぶべきだが、驚きはしない。むしろオリヴィアに危害が加えられていないことが、私を不安にさせるよ。まさか計算が間違っていたのか? この私の――?」


 まるで彼女が傷つけられれば良かったかのような言い草である。

 ぼくがたしなめるよりも先に、オリヴィアが口を開いた。


「あ、あの……。わたしが無事って、どういう意味ですか? 彼らの狙いって――?」


「ワトソンくん、まだ話していなかったのか?」


「うん……」


 そこまで話が進んでいなかったのだ。

 リョウはベッドに腰を下ろして、オリヴィアを見つめた。


「数日前、君の暮らしていた寄宿学校に二人組の男が現れた。そして今朝はノースロード職業紹介所にも、妙な男が二人現れたらしい。杞憂であればいいんだが、どうにも私には、君が男たちに狙われているように思えてならないのさ」


「はあ……」


「君が釈然としない表情を浮かべるのも無理はないだろう。けれど、会計の世界ではちょっとした違和感に注意を払うことが重要なんだよ。得意先からの入金がいつもより一シリング多いとか、減価償却費が先月よりも一ポンドだけ増えているとか、そういうわずかな違いから粉飾決算が発覚することも珍しくない」


「その言い方だと、まるで会計士は霊能力でも持っているみたいだね」


「まさか! 考えるよりも先に直観が働くようになっているだけさ。一流シェフが小さじ一杯のスープから隠し味のハーブを嗅ぎ当てるようなものだよ。大切なのは、違和感を言語化することだ。どこに違和感があるのか説明できれは、その原因も突き止められる」


「でも、パパの遺言状におかしなところはなかったんですよね……?」


「一読したかぎりではね。じつはテンプル・バー記念碑の近くに、会計士や経済新聞の記者がたむろするカフェがあるんだ。サマセット・ハウスに出向いたついでに、そのカフェまで足を伸ばしてきた。マクノートン氏の会社について何人かに尋ねてみたが、とくに気がかりな噂は流れていなかった。たとえば会社に隠し財産があって一人娘だけがそのありかを知っているとか、人から恨みを買うようなあこぎな商売をしていたとか――」


「わたし隠し財産なんて知りませんし、パパはそんな人じゃありません」


「そのようだな。生前のマクノートン氏については、手品が趣味の気のいいビジネスマンという噂しか得られなかった」


 リョウの計算結果を裏付けるような証拠がない。八方塞がりだ。


「そこで、当事者である君に話を聞かせてもらおうと戻ってきたわけだ。……何か心当たりはないか? 誰かに付け狙われるような覚えは?」

オリヴィアは首を振る。


「いいえ、まったく」


「だとすれば、ワトソンくんの言葉もあながち嘘とは言い切れないな。私には霊能力があるのかも」


「どういうことだ?」


「幽霊を追いかけているような気分だよ。……男二人は確実に存在している。ミンチン女史に嘘をつき、おそらくは職業紹介所にも現れた。なのに、正体も狙いもまるで不明だ」


 そう言ったきり、リョウは固く目を閉じて黙りこくった。


「――あら、みなさんここにお揃いだったのね」


 よっこいしょと声を漏らしつつ、マーガレットおばさんが階段を上がってきた。


「変ねえ……」


 腰に手を当てて、きょろきょろと屋根裏を見回す。


「どうかしたんですか?」


「クレアがいないのよ」


 ぞくりと背筋が粟立った。


「なんだと?」


 リョウが顔を上げる。


「てっきり、お遣いにでも行っているものだと思っていたのだが?」


「いいえ。まさに今からお遣いを頼もうと思ったのよ。オリヴィアは熱で寝込んでいるし、留守番を頼んでいたはずなのに……」


「あ、あのっ! クレアさんは、お仕事を投げ出すような人ではないです!!」


「そうよねえ……」


 ぼくとリョウは顔を見合わせた。言葉を交わさずとも分かった。例の男たちは、おそらくオリヴィアの写真を持っていなかったのだ。彼女が十四歳のイギリス人で、ベイカー街の下宿で働いているという情報しか知らなかった。つまり――。


「――人違いされたんだ!!」


 二人の声が重なった。

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