第10話 あっしは悪くない


 あっしは悪くない、あっしは悪くない――。


 馭者の男は、繰り返し心のなかで念じていた。

 辻馬車を操るようになって二十年、こんな犯罪に手を貸す日が来るとは思っていなかった。


(……手を貸す、だって!?)


 手綱を握りながら、彼はぶんぶんと頭を振った。とんでもない、自分はただ巻き込まれただけだ。自分だって被害者の一人なのだ。そう思わないと、あと先を考えずにこのまま警察署へと馬車を突っ込んでしまいそうだった。

 もしもそんなことをしたら、あのナイフの男は何をするだろう?

 男たちの会話を盗み聞きしたかぎりでは、彼らにはたくさんの仲間がいるようだった。しかも絶望的なことに、彼らは馭者の家族のことを知っているのだ。今日のために調べ上げているのだ。

 背後の客室からは、ときどきドカッ、ボカッと音がする。

 おそらくあの少女がもがいて、椅子を蹴り上げているのだろう。二人組の偽紳士に挟まれているのに、まだ逃げ出すことを諦めていないらしい。あの少女――。

 馭者の男の胸が、きりきりと締め付けられる。

 目を閉じる必要はなかった。

 まるで白昼夢のように、先ほどの凶行が脳裏に浮かぶ。

 偽紳士の二人は堂々と道を横切ると、下宿らしき建物のドアノッカーを鳴らした。メイドとおぼしき少女が玄関に現れるやいなや、何かを口に押し込んで黙らせて、頭からすっぽりと布袋を被せてしまった。ベイカー街は、決して人通りの少ない道ではない。むしろひっきりなしに辻馬車が行き来している場所だ。にもかかわらず、彼らの手際はあまりにも鮮やかで、誰一人として足を止めなかった。彼らは抱きかかえるようにして少女を捕まえると、そのまま落ち着いた足取りで戻ってきて、馬車の客室に押し込んでしまった。

 馭者の男は、ぶるりと身震いする。

 彼らには、ランベス地区に向かえと命じられていた。テムズ川の南岸、貧民街が点在する場所だ。どうやらその一角に、彼らの隠れ家があるらしい。


 かぽっ、かぽっ、と蹄鉄が地面を叩く。


 唐突に、目の前の馬を羨ましく感じた。この犯罪行為のいちばんの立役者は、馬だ。四輪馬車の重みをものともしない大人しい動物だ。もしも自分が馬だったら、良心の呵責など感じずに済むのに……。

 道の混雑が激しくなってきた。

 すれ違う人も、馬車も、今ここで行われつつある悪事には気付かない。

 助けてくれと叫びたい気持ちをぐっとこらえて、馭者は手綱を握り続けた。頬を撫でる空気に生臭いにおいが混ざる。もうすぐテムズ川である。渡ってしまって、いいのだろうか。

 迷いを断ち切るのは簡単だった。心のなかで唱えるだけでいい。


 あっしは悪くない、と――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます