第6話 事件のにおいがする


 対応してくれたのは二十代半ばの女性だった。


「オリヴィア・マクノートンですか? ええっと、ちょっと待ってくださいね――」


 面談室の壁際には、書類用の本棚が並んでいる。そこからファイルをとっかえひっかえ抜き取っては、パラパラとめくってみる。


「たしかこのあたりに……マクノートン……マク……あれ? 違ったかな――?」


 しびれを切らして、リョウが言った。


「失礼だが、君はここで働き始めてどれくらいだ?」


「まだふた月です。三ヶ月は試用期間だと言われて、時間給で働いています」


「たしか、もう少し年上の職員がいたはずだろう。四十代ぐらいの、いかにもベテランという雰囲気の女性が」


 相手はファイルから目を上げて、わずかに眉をひそめる。


「それが、今日は早退しちゃったんです。体調が優れないとかで、まだお昼にもなっていないのに帰っちゃいました。……ああ、そういえば朝一番に嫌な来客があったとも言っていたかな。妙な二人組の男が来たとかなんとか……。私、ホントは午後から予定があったのに、おかげで休めなくなっちゃって――」


「分かった、作業を続けてくれ」


 永遠に喋り続けそうな彼女を、リョウは片手を上げて制した。相手は少し残念そうな顔をしたが、すぐにファイルへと視線を戻した。

 オリヴィアには紹介状がなかった。しかしマーガレットおばさんは本人と面接して、人柄に問題がなさそうなので即座に採用を決めたという。そのときに前の職場についても訊いたらしいのだが、おばさんの記憶は曖昧だった。


「あっ、ありました! そっか、この子かぁ……」


 ファイルをばさばさしていた女性職員が声を上げた。


「ここです」


 ぼくらは揃ってページを覗き込んだ。以前にオリヴィアが勤めていた家の名前と概要が書かれていた。


「これを見ると……彼女は以前、ソーホー地区で働いていたみたいだね」


「ああ。どうやら弁護士の家庭だったらしい」


「この住所はたしかソーホーのなかでも――ぼくの記憶が間違いでなければ――一階を事務所や店舗に、二階以上を自宅にしている建物が集まっているエリアのはずだよ」


 つまりオリヴィアの以前の職場も、ぼくらの下宿とさして規模の変わらない家だったのだろう。田舎の大邸宅(カントリーハウス)に暮らす金持ちなら数十人の召使いを雇っていることも珍しくないが、ロンドンでは違う。主人一家と二、三人の使用人だけで慎ましく暮らしている家庭が多い。


「思い出しました。この子のことなら、私も覚えています。わりと変わった経緯でここに来たから……」


「変わった経緯?」


「夜逃げしたらしいんですよ、前に働いていた家の人たち」


 若い女性職員の言葉を信じるなら、くだんの弁護士には妻と二人の子供がいたらしい。商売が上手くいかないと心もささくれ立つようで、夫婦は揃ってオリヴィアを厳しく叱った。彼女がこの紹介所を訪れたときにも、二の腕には赤いミミズ腫れが残っていたそうだ。乗馬用の鞭で叩かれたのだ。


「知らなかった……」思わずぼくはつぶやいた。「オリヴィアはそんなこと、一言も喋ってくれなかった」


「彼女のあのおどおどした態度は、そのときに染みついたものかもしれないな」


 ところが、である。

 ある朝、オリヴィアが目覚めると、主人の一家は消えていた。メイドの朝は早い。朝食の準備をするために彼女が台所に行くと、銀の食器がなくなっていることに気付いた。慌てて主人の寝室に向かったが、何度ノックしても返事がない。恐る恐るドアを開けると、ベッドには誰もいなかった。シーツさえ無かったそうだ。


「――ね、変わった経緯でしょう? 印象的だったからよく覚えているんです」


「書籍はどうですか?」


 ぼくが訊くと、女性職員は「はい?」と目をパチパチさせた。


「弁護士になるような人間なら、書斎に本を貯め込んでいそうなものでしょう。本はかさばるわりにそれほどお金にならないから、夜逃げするときにも残していきそうだと思うのですが」


「さあ、そこまでは分かりませんけど」


 リョウが小さく噴き出した。


「あはは。例の『詩集』は前の主人のものではないか――。君はそう考えたのだね」


「何が可笑しい」


「いいや、失礼……。だけどきちんと計算すれば、そんな結果は出ないはずだよ。オリヴィアを雇っていたのは、メイドを叱るときに鞭を持ち出すような主人だ。そんな人物の〝思い出の品〟を後生大事に持ち歩くと思うかい?」


「そ、それは……ぼくらの知らない事情があるのかもしれないだろ?」


「可能性は否定できないね。だが、今はそれよりも――」


 リョウは女性職員にファイルを返す。


「私が知りたいのは、さらに以前の主人についてだ。この台帳には、弁護士の家庭で半年間働いたと書かれている。しかし、それ以前は? いったいどこで働いていたのだろう」


「さあ、私には分かりかねますが……」


「ソーホー地区なら、もっと近場にも職業紹介所がある。わざわざここまで足を伸ばしたということは、オリヴィアは以前にもこの紹介所を利用した可能性が高い」


 女性職員は、ぽんと手を打つ。


「なるほど……。それなら、少し古いファイルを調べれば分かるかもしれません。ここの地下室は書庫になっていて、半年以上経ったものは全部そちらに移しているんです」


「差し支えなければ、その地下書庫に案内していただきたいのだが」


「ああ、いえ――」


 相手は首を伸ばすようにして、リョウの肩越しに部屋の入り口を見た。開け放たれたドアの向こうには、短い廊下。今は誰も並んでいない。


「――手も空いていますし、私が探してきますよ。お二人はこちらでお待ちください」


 こうしてぼくたちは面談室に残された。

 が、じっと座っているようなリョウではない。事務机に覆い被さるようにして、何やら書類を摘まんだりひっくり返したりしている。


「勝手に触らないほうがいいと思うよ」


 たまらずぼくが注意すると、リョウはふり返りもせずに答えた。


「たしか、いつものベテラン職員は体調不良で早退したと言っていたな。朝一番で嫌な来客があったようだ、とも」


「そうらしいね」


「ふむ! 何やら事件のにおいがする」


 見たまえ、とリョウは机を指し示した。


「書類がぐちゃぐちゃだから気になっていたんだ。いくらここが多忙な職業紹介所で、机の上が雑然としがちだとしても、求人票と紹介状を同じ束にしておくのはおかしいだろう? まるで、床に散らばった書類を慌ててまとめたような状態だ」


「たしかに」


「それで怪しいと思ったのだけど……。案の定だ。机のここに、真新しい切り傷がある」


 細いくさび型の穴が穿たれて、白い木目が覗いていた。


「ワトソンくん、これをどう思う? まるで、誰かが怒りにまかせてナイフを突き立てたような跡じゃないか。穴の向きから言って、犯人は今の私たちと同じ位置に――つまり職員と向き合うように――立っていたはずだ」


「何か固いものを落としただけかもしれないよ」


「私もそう信じたいね。だけど、もしもこの穴が本当にナイフのものだったとしたら? 犯人はここに立って、くだんのベテラン職員に凶器を向けていたことになる。しかし結局は、人間ではなく机にナイフを刺した。もとより相手を傷つけるつもりはなかったのだろう。……つまり、何かを訊き出すために脅迫していたとは考えられないかな? 相手が思うような返事をくれないから、ドンッとナイフを机に叩きつけて脅した」


 ぼくは笑ってしまった。


「オリヴィア=スパイ説もそうだけど、君の想像力の豊かさには呆れるよ。きっと三文作家になれる」


「体調不良で早退したとなると、おそらく最後には犯人の狙い通り、情報を喋ってしまったのだろうね。ただ恐怖を感じただけなら、警察に駆け込めばいい。そうしないのは、教えるべきではないことを教えてしまったという不面目さや罪悪感があるからだ」


 ぶつぶつと漏らしながら、リョウは事務机の観察を続けた。

 彼女の一挙手一投足ごとに、黒髪がさらさらと流れる。窓の外は、薄曇りのロンドンの空。ぼんやりした光の下でも、彼女の髪だけは磨いた黒檀のように輝いていた。

 オリヴィアもこの部屋から、あの空を見上げたのだろうか。


「――つくづく、ついてないよなあ」


 彼女の灰色っぽい金髪を思い浮かべた。緑の瞳、子犬のように柔らかで軽い体。

 そして何より、あの怯えた表情――。


「ついてない?」


 リョウがふり返った。


「オリヴィアのことだよ。前の主人、どうして夜逃げなんてしちゃったのかな」


「事業が倒産して、首が回らなくなったのだろう。よくあることじゃないか、この街では」


 彼女はこちらに体の正面を向けて、机に寄りかかる。

 ぼくは続けた。


「そもそもの話なんだけど……」


「どうした、もったいぶって」


「こんなことを訊くのは、正直なところ恥ずかしいんだけど……」


「だから何だ。煮え切らないな」


「倒産って、何?」


 リョウは最初、笑おうとした。

 だが彼女の顔はゆっくりと絶望に染まり、最後には可哀想なものを見る目に変わった。テムズ川の真ん中で溺れる野良犬を、川岸から眺めるような顔。


「……本気で訊いているのか?」


「も、もちろんぼくだって、商売が立ち行かなくなることを『倒産』と呼ぶことぐらいは知っているよ。だけど倒産(バンクラプト)のほかにも、破産(クラッシュ)とか法的整理(リクイデイト)とか、似たような言葉がたくさんあるじゃないか」


 リョウは呆れたように言い捨てた。


「倒産というのは、それらの総称だと考えていい。もちろん厳密には、もっと正確な定義もあるのだが――。今教えても、君を余計に混乱させるだけだろう」


「分からないことはまだある。業績が悪化して赤字が続くと、企業は倒産するんだよね」


「まあ、大雑把にいえば」


「だけど新聞を読むと、巨額の赤字を出しても倒産しない企業があるじゃないか。大手の鉄道会社なんかはそうだよね。反面、小さな町工場では、黒字でも倒産して商売を畳んでしまうことがある。どうしてだろう?」


 相手はふーっと長いため息をついた。


「君には『そもそも商売とは何か』ということから教えたほうが良さそうだ」


「モノを安く仕入れて高く売ることじゃないの?」


「それは商売というものの半分――いいや、四分の一ぐらいしか言い表していない」


 事務机に目を落とすと、リョウはメモ用紙とペンを勝手に拾った。


「ときにワトソンくん。君は家計簿をつけているかな?」


「毎月いくら銀行から下ろして、いくら使ったのかくらいは帳簿につけているよ」


「いわゆる〝お小遣い帳〟方式の家計簿だな。現金の増減だけを縦一列に記帳する――。そういう帳簿の付け方を、会計学では『単式簿記』と呼ぶ。一般家庭でよく使われる方法だ」


「企業では違うの?」


「企業にせよ個人商店にせよ、商売をしている者なら『複式簿記』を使う。数字を縦二列に記帳する方法だよ」


 ペン先にインクを含ませると、リョウはメモ用紙に走り書きした。


「たとえば売上によって一〇ポンドの現金が入ってきた場合は、こんなふうに帳簿を付ける)。一方、仕入のために三ポンドの現金を支払ったときは、こうなる」


「現金の増減を、表の左右どちらに書くかで表しているのかな。現金が増えるときは表の左側に、減るときは右側に書くみたいだけど」


「その通りだ。悪くない観察力だね。こういう左右ひと組の数字を『仕訳(ジャーナル・エントリー)』と呼ぶ」


「この『借方(デター)』『貸方(クレディター)』というのは?」


「ここでは『表の右側』『左側』のことだと覚えておくだけでいい。もとを辿ればきちんと語源があるのだが……。現在の会計学では、ほとんど意味がなくなってしまった」


 ぼくは当然の疑問を口にした。


「わざわざ左右に分けて書くなんて手間じゃないか。普通に縦一列の――えっと、単式簿記だっけ――でも、まったく問題ないと思うんだけど」


「いいや、疑いようもなく、複式簿記のほうが商売の記録として優れているんだよ。理由は山ほど挙げられるのだが……ここでは一点だけ。現金に名前は書いていない」


「ぼくらの使う硬貨には、女王陛下の顔が描いてあるよ」


 カエサルのものはカエサルに。ヴィクトリア女王のものはヴィクトリア女王に。


「そんなトンチはよせ」


 リョウは大まじめだった。


「商売をしていれば、現金が増えるのは売上があったときだけではないだろう?」


「そうなの?」


「銀行から融資を受けたときや、出資者から資本金の払い込みを受けたときにも、企業の保有する現金残高は増える」


「ああ!」


「それぞれ、こういう仕訳を切る」


「顧客から受け取ったカネであれ、銀行から借り入れたカネであれ、現金(キャッシュ)は現金(キャッシュ)――」


「現金に名前が書いていないというのは、そういう意味だ。単式簿記でこれを管理するのは難しい。だけど複式簿記を使えば、それらを一元的に管理できるんだよ」


 よほどぼくが釈然としない顔をしていたのだろう。リョウは励ますように笑った。


「まあ、今すぐ分からなくてもいいさ。何となく『複式簿記』というものがこの世界には存在するらしい……程度の理解でかまわない。もちろん、もっと詳しく知りたいというのなら、私がみっちりと――」


 すちゃ。

 リョウはそろばんを取り出し、にこにこと微笑む。穏やかな表情のはずなのに、どこか猟奇的で嗜虐的。ぼくは慌てて遮った。


「今は『倒産とは何か』『商売とは何か』って話だよね!?」


「ああ、そうだった」と、そろばんをポケットに収める。


「その複式簿記とやらが関係しているの?」


「関係しているというより、それなくしては説明できないと言ったほうがいいな。想像して欲しいのだが、たとえば――そうだな、仮に一年間としようか。丸一年かけて、複式簿記で帳簿をつけたところを想像してくれ」


「まあ、やれるだけやってみようか……」


「たとえば現金なら、増えたときは左側、減ったときは右側に書いていくわけだ。そして一年後、左側と右側のそれぞれ合計金額を集計すれば、その差額が現金残高になる」


「借入金でも同じだよね」


「現金や借入金だけではない。複式簿記に登場するすべての勘定科目について、その残高を左右の差額として算出できる」


「うーん、なるほど?」


「この方法で残高を計算していけば、最終的には二つの表を作ることができる。貸借対照表(バランスシート)と損益計算書(プロフィット&ロス)だ。名前だけなら君も聞いたことがあるのでは?」


「そういえば、投資好きの友人がしきりと『BS』、『PL』と言っているのを聞いたことがあるよ。それのことかな」


 リョウは満足げにうなずいた。


「その通り。この二つの表が、商売をするうえで最も重要な計算書と言っていい」


 メモ用紙を裏返して、さらさらと図を描いていく。


「繰り返しになるが、現金の残高は最終的に表の左側に書かれる。だからBSでも、現金は左側に――借方に記載される。一方、借入金の残高は右側、つまり貸方だ。このBSを見て、何か気付くことはないか?」


「気付くことと言われても……」


「BSの貸方には、元手となるカネの出所(でどころ)が書かれているんだよ。商売を始めるには、まずは先立つものが必要だろう? 銀行から借り入れたり、家族や親戚から出資してもらったり……。何らかの方法でカネを調達しなければ、まともな商売は始められない。反面、BSの借方にはそれらのカネの現在の姿が書かれている」


「現在の姿?」


「現金は、現金のままでは利益を生まない。工場や店舗の設備を購入したり、それこそ商品を仕入れたり……。現金を何か別のモノへと交換しなければ、商売は始められない。BSの借方には、そうやって現金から姿を変えた『商売に必要なモノ』が書かれているわけだ。こういう『商売に必要なモノ』――。言い換えれば、『将来、何かしらの収益をもたらすモノ』をまとめて、『資産』と呼ぶ」


 リョウはメモ帳に矢印を書き込んでいく。


「ここで注目してほしいのは、カネの流れだ。まず商売を始めるにあたり、銀行や資本家から融資や出資を受ける。その内容がBSの貸方に書かれる。一方、そのカネを使って商売に必要な資産を揃える。その内容がBSの借方に書かれる。さらに、いざ商売を始めれば――」


「売上によってお金が入ってくるよね」


「正解だ。同時に、仕入や銀行への利子などでカネを支払うことになる。これらの、収益から費用を差し引いたものが『利益』だ」


「新聞が大騒ぎするのは、この利益の部分だね」


「利益を出しておしまいではない。利益の一部を出資者に――株式会社なら株主に――配当金として支払ったり、あるいは事業を拡大するために再投資したりする」


「なるほど、ぐるぐると回り続けるカネの流れがあるわけだ……」


「このカネの流れを回し続けること。それが商売だ。世の中には色々な経営者がいて、『商売とは何か』について様々な持論を振りかざしている。しかし会計学的な視点からいえば、商売の本質は、この図に描かれたカネの流れを止めないこと――。それに尽きる」


「もしもカネの流れが止まったら?」


 リョウはにやりと笑った。


「それを『倒産』と呼ぶ」


 その最たる例が、銀行からの借金を返済できなくなることだ。期日までに返金がなければ、当然、銀行は取引を停止する。すると、ここに描かれたカネの流れが元から止まってしまう。リョウは図のなかの矢印を指でなぞりながら言った。


「帳簿上では黒字が出ていても、返すべき現金が足りなければ企業は倒産する。たとえば顧客からの集金が遅れて、充分な現金が集まらなかったら、そういう事態になりうる」


「逆に、大幅な赤字でも現金さえたっぷり持っていれば――」


「簡単には倒産しない。大手の鉄道会社が赤字でも潰れないのは、それだけの信用があるからだ。ある銀行との取引が止まりそうになっても、別の銀行がカネを工面してくれるかもしれない。株式を新規発行して、投資家からカネを集めるという道もあるかもしれない。だから小さな町工場に比べれば、すぐには倒産しないのさ」


 リョウの解説が終わるのを待っていたかのように、女性職員が戻ってきた。地下室から階段を駆け上がってきたのだろう。軽く息を弾ませている。


「ありました!」


 彼女はファイルを胸元に掲げた。


「おっしゃる通り、オリヴィア・マクノートンは半年前にもこの紹介所を利用していました。くだんの弁護士の家で働き始める前ですね。それ以前の勤め先のことも分かりました」


「どこだ?」


「ミンチン女子寄宿学校……と、ファイルには書かれています」

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