第5話 正体不明の少女


 洗面所でざぶざぶと口をすすいでいると、背後から声を掛けられた。


「やはり、調べてみようと思う」


 戸口に肩をもたせかけてリョウが言った。

 ダブルボタンのマントに、どこかの国の軍帽。彼女が外出するときのいつもの格好だ。


「調べるというと?」


「オリヴィアのことさ」


 彼女は結局、ホラティウスの詩集について何も語らなかった。今は屋根裏部屋のベッドで寝息を立てているはずだ。


「なあホームズ、いい加減にし――」


「こんなものを見つけた」


 彼女が掲げたのは、ポケットサイズのフランス語辞典だった。


「例のタンスのなかに、まるで隠すように押し込んであった。クレア嬢にはあのタンスを開けられないし、マーガレットおばさんにも見覚えがないそうだ。これはオリヴィアの持ち物だと考えていいだろう」


「……だから?」


「われらが下宿のメイドは、極めて語学に堪能らしい。メイドらしからぬほどね。この辞書には、所々にイタリア語やロシア語の対訳が鉛筆で書き込まれている」


 だから、あの子がスパイだと言いたいのか?


「まったく、どうかしてるよ!」


 リョウは淡々と答えた。


「マーガレットおばさんに訊いたが、オリヴィアは紹介状を持参していなかったそうだ」


 執事やメイドが転職する場合、それまでの主人に紹介状を書いてもらうのが通例だ。

 それを見れば、円満退職だったのか、それとも何かトラブルがあって追い出されたのかが判る。好待遇の仕事を得るには好意的な紹介状が必須だし、ましてや紹介状がなければ路頭に迷うことになる。


「そのせいで仕事が決まらず、オリヴィアは職業紹介所で何日もぼんやりと過ごしていたらしい。見かねて、マーガレットおばさんは彼女を雇うことにしたそうだ」


 いかにもおばさんらしい話である。


「つまり、誰もオリヴィアの正体を知らないんだよ。彼女の過去も、人となりも」


「それがスパイだという証拠にはならないぞ」


「もちろんだ。そして否定する証拠でもない」


 ぼくは相手の顔をしげしげと眺めた。


「……驚いたな。よほど変な新聞を読みすぎたとみえる」


「誤解しないでほしい。言うなれば『重要性の原則』だよ」


「重要性の原則?」


「たとえば会計監査の際には、理屈の上ではすべての領収証を確認して、帳簿に正しく記載されていることを確かめなければならない。けれど、現実には不可能だろう? 一つの企業は一年間に何百件、何千件もの取引をしているからね」


 リョウはフランス語辞典に目を落とす。


「だから普通は、まずは金額の大きなものに絞って領収証を確認する。高額の取引にごまかしや間違いがあれば大問題だからだ。重要性の高いものから調べようとすれば当然、まずは最悪の事態を想定することになる」


「で、最悪の事態が起きていないと確認できれば安心できる……ってこと?」


 彼女はうなずいた。


「それにしたってホームズ、あまりにもバカげた想定だよ。諜報活動をしようにも、住み込みのメイドには自由時間がほとんど無いんだよ?」


「ガウアー街にお遣いに行ったとき、彼女は二時間も帰ってこなかった」


「だとしても、だ。狙いは何だ? ぼくたちが政府高官ならともかく――」


「狙いね」


 リョウは小さく笑った。


「それは君のほうが詳しいのではないか? 私もちょっとは新聞を読んでいるからね。この街に集まっているのがマルクス主義者やスパイばかりではないと知っている」


 彼女の言う通りだ。無政府主義者や虚無主義者、アイルランドや植民地の独立運動家。さらには多数のユダヤ人移民と、彼らに対する排外主義者――。ロンドンには世界中の危険人物たちがやってくる。殺人事件の発生件数から言えば、毎日一人、誰かが殺される。

 世界でいちばん華やかな都市は、世界でもっとも剣呑(けんのん)な街でもある。

 そして今のところ、オリヴィアは正体不明の少女なのだ。


「あるいは、狙いは私かも」


 何てことないように彼女はつぶやいた。

 またしても、いつもの疑問が脳裏に浮かぶ。

 リョウ、君はいったい――?

 ぼくは言葉を飲み込んだ。


「……分かったよ。そこまで言うなら、ぼくも一緒に調べよう」


 彼女は満足げにうなずいて、いつもの武器を取り出した。


 ――すちゃ。


 そろばんという東洋の計算器具だ。類いまれな日本式珠算の才能があったからこそ、リョウはこの街で〝会計探偵〟を営むことができている。


「では、さっそく監査開始だな! それにしてもワトソンくん、私は嬉しいよ。ようやく私の助手となる決心がついたようだね」


「言っておくけど、ぼくが調べるのはオリヴィアのためだ。君の助手になるつもりはない」


「むっ」


「クレアは泥棒やネコババを疑っているし、君ときたらとんでもない嫌疑をかけている。だけど――。いいや、だからこそ、ぼくはオリヴィアの潔白を証明してあげたいんだ!」


 するとリョウは、よろめくように二、三歩後ずさった。


「なんてことだ……。ワトソンくんがあの子をそんな目で見ていたとは」


「へ?」


「正気になりたまえ。向こうはおそらく十四歳だぞ!?」


「何かとんでもない勘違いをしていないか!?」


 リョウはくるりと背を向ける。


「いいからさっさと身支度を済ませてくれ。すぐに出かけるぞ!」


「出かける……って、行き先は?」


「もちろん、オリヴィアのいた職業紹介所だよ」


 不機嫌そうな声。


「場所はウェスト・エンド。《ノースロード職業紹介所》だ」


 今朝そこで起きた凶行を、ぼくたちはまだ知らなかった。

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