第4話 日本の病人食


 メイドたちは屋根裏部屋で寝起きしている。

 部屋の両端にベッドをしつらえて、真ん中のついたてで領土を区切っていた。

手鏡やブラシなどの小物類、ハンガーに吊された着替え――。物の多い側がクレアの使っているスペースだろう。整理整頓は行き届いているが、生活感は隠しきれない。

 一方、オリヴィアの使っている側にはまだ何もない。ベッドも衣装ダンスも、以前からこの家にあったものだ。スリッパが一足ちょこんと置かれているだけで、板張りの床が剥き出しになっている。


「まったくもー」


 クレアはぶつくさ言いながら、同僚のスペースにずかずかと踏み込んだ。汗で湿ったシーツを引き剥がし、あっという間に取り替えてしまう。

 オリヴィアはぼくの腕のなかで、早くもうつらうつらとし始めていた。


「ほら、ワトソンさん! そんなイヤらしい目で眺めてねーで、オリヴィアをこっちに運んでください!」


「イヤらしい目とは失敬な……」


 ぼくが彼女をベッドに降ろす間にも、クレアはせわしなく動き続けていた。清潔なタオル、水差しの水、小ぶりのたらい。看病に必要な道具を揃えていく。


「汗で汚れた服のまま寝たら、治るものも治らねーですよ。着替えるついでに、体も拭いちまいましょう。寝間着はどこですか?」


 オリヴィアはよろよろと衣装ダンスを指さした。両開きの扉がついた頑丈そうなものだ。

 南京錠(パッドロック)の代わりだろうか? タンスの取っ手には麻縄が結びつけられている。


「……変わった結び方だな」


 博物学的興味から、ぼくはタンスに歩み寄った。縄に使われているのは、おそらく南米産のサイザル麻だろう。結び目を調べようとしたら、クレアに横から押しのけられた。


「ワトソンさん、いつまでこの部屋にいるおつもりです?」


「へ?」


「あなたがいてはオリヴィアが着替えられねーでしょう」


 軽蔑しきった目でクレアは続けた。


「それとも、ワトソンさんは妙なご趣味をお持ちなのですか」


「滅相もない」


 というわけで、ついたての反対側に追い出された。

 そういえば、リョウは何か薬になるものを用意すると言っていた。彼女を手伝うことにしよう――。そう思って、階段を降りかけたときだ。


「むっ、むむーっ!?」クレアの奇声。「なんですか、この縄は! いったいどうやって結んだらこんな――。ああ、もうっ! 全然ほどけねーんですけど!?」


 ガタッ、ゴトッと不穏な音がする。

 クレアのことだ。無理やり結び目をほどこうと、力尽くで引っ張っているのかもしれない。あの重そうなタンスが万が一にも倒れたら危ないな……と思った矢先。


「――きゃあ!!」


 ドサドサッと物の落ちる音がした。ぼくは慌てて階段を駆け上がる。


「大丈夫!?」


「うぅ~、痛ぇですぅ……」


 クレアは床にぺたんと座り込んで、頭をさすっていた。タンスの上に載っていたガラクタが床に散らばっている。端布(はぎれ)や古い裁縫道具などに混ざって――。


「おや?」


 八折り判の本が一冊。表紙にはラテン語で『ホラティウス詩集』と書かれている。四隅は丸く削れており、背表紙には紙テープを糊付けして補修した跡があった。


「あっ、それは……!」


 黙ってベッドに横たわっていたオリヴィアが、小さく息を呑んだ。


「これは君のかい?」


 ホラティウスといえばローマ時代の詩人だ。ぼくたちのような中産階級以上のイギリス人にとっては基礎教養の一つであり、子供時代にグラマースクールで叩き込まれる。


「君はラテン語の読み書きができるの? 感心だな――」


 手に取ったついでに、ぺらぺらとめくってみる。あまり上等とはいえない品質の紙が使われていた。

 そして、妙な黒い染みがあった。

 ページとページの繋ぎ目、見開きにしたときに真ん中になる位置に、ぽつぽつと飛び石のような染みがある。なんだろう、これ……?

と、彼の作品群のなかでも、もっとも有名な一節が目にとまった。


「――それなら、Carpe(カルペ) diem(ディエム)の翻訳もできるわけだ」

直訳すれば「その日を摘み取れ」、英語に訳せば「いまを生きよ(シーズ・ザ・デイ)」となる。


「いえ……その……」


 オリヴィアは目を泳がせた。


「……違います」


 蚊の鳴くような声。


「そうなの?」


 だとすれば、マーガレットおばさんの息子のものだろうか。おばさんの話によれば、彼は今インド洋で海軍の船に乗艦しているらしい。

 わなわなと震えながら、クレアが立ち上がった。


「あんたのじゃねーなら、誰のものです」


 ぼくと同じ疑問を口にする。


「あたしは前からこの部屋で暮らしていたんです。だから間違いねーです、あのタンスの上に……いいえ、この屋根裏に、そんな本はありませんでした」


 クレアの声が一段低くなる。


「もしや、盗みやがったんじゃねーですか?」


 オリヴィアはぶるぶると首を振った。


「ちっ、違います……。盗むなんて、そんな――」


「じゃあ、この本はなんですか!? あんたが来て一週間、この部屋に入ったのはあたしたちだけです。この本が自分のものじゃねーって言ったのは、あんたですよ。よもやホームズさんから盗んだんじゃねーでしょうね!!」


「ほ、本当に……違うの……」


「罪を認めるなら、早いほうがいいですよ! 持ち主のところに返しに行きましょう。なんなら、あたしも一緒に謝ってあげます。同じ家の仲間が泥棒で捕まるなんて、ぜってーにイヤですからね」


 クレアは、半ば懇願するような口調になっていた。


「――泥棒とは穏やかではないな」


 リョウが階段を昇ってきた。マーガレットおばさんも一緒だ。


「いったい何の騒ぎですか?」


 おばさんは鍋を手にしていた。ふたの隙間から白い湯気が漏れている。

 ぼくが簡単に経緯を説明すると、リョウは「なるほどね」と言った。


「だが安心してくれ、クレア。その詩集は私のものでもない。状況から言えば、たしかにオリヴィアが持ち込んだものと考えるのが自然だろう」


 リョウの口調は冷たかった。


「でも、これは君のものではないのだね?」


「おいホームズ……」


 ぼくはつい口を挟んでしまった。彼女の言葉が、あまりにも詰問調だったから。


「……」


 オリヴィアはシーツの端を握りしめて、じっと黙っている。


「ホームズさんが訊いてるんですよ。きちんと答えなさい!」


 口を尖らせるクレアの頭を、ぼくはぽんぽんと撫でた。


「まあ、そうやって病人をいじめるのはよそうよ。詳しい事情を教えてもらうのは体調が回復してからでもいいんだ」


「手をどけてください。髪留めがズレるんですけど」


 クレアの小言を無視して、ぼくは続けた。


「今は、何も言いたくないんでしょ?」


「…………はい」


 こくんとオリヴィアはうなずく。さすがのクレアも追い打ちをかけようとはしなかった。


「ところでマーガレットおばさん、その鍋は何?」


 ぼくが尋ねると、おばさんはふたを開けてみせた。


「リョウコの言う通りに作ってみたのよ。日本の病人食ですって」


 真っ白なペースト状のスープだ。甘い米の匂いが、ふわりと漂う。


「ライスプディングみたいなものかな」


「ワトソンくん。君だって中華料理屋で粥ぐらい食べたことはあるだろう?」


「お粥なら、もっと色々な具や香辛料が入っているんじゃないの?」


 リョウは遠くを見るように目を細めた。


「子供のころ、熱を出したときは母がいつも作ってくれたんだ。余計な具の入っていない、まっさらなお粥をね」


「そうか、お母さんが……」


 リョウは母親を探すためにイギリスに来たらしい。先ほどその話を聞いてしまったせいで、ぼくは言葉に詰まる。

 とはいえ、米を煮ただけ? 何だか味気なさそうだ――。


「――ふむ。何だか味気なさそう、って顔をしているね」


「心を読まないでもらえるかな!?」


 せっかくシリアスな気分になっているのに!!


「そこで、これの出番だ」


 リョウが取り出したのは、ジャムを入れるような広口瓶だった。赤褐色でしわしわの粒が詰まっている。


「日本で昔から食べられているプラムのピクルスだよ。ウメボシという。調味料として使われるだけでなく、薬理作用にも優れている」


 すでに述べた通り、ベイカー街の近くには東洋の物産が集まる市場がある。このウメボシもあそこで手に入れたのだろう。リョウが瓶のふたを開けると、たしかに果実の酸っぱい香りが鼻を突いた。


「――って、かなりキツいぞ、このニオイ!?」


「そうだろうか?」


 リョウはきょとんとしているが、「甘酸っぱい香り」なんて生易しいものではない。封切りしたばかりの酢(ビネガー)のような鼻腔を刺すにおいだ。


「本当に食べて大丈夫なんだろうね、これ」


「大丈夫も何も、私にとっては子供のころからの好物だ。さあ、君たちも試してみたまえ」


 リョウは一粒ずつ配った。オリヴィアのお粥をよそった小さなボウルにも、ちょんと一つ載せる。


「お薬の代わり、なんですよね……?」


 オリヴィアはスプーンの先でつついたり、表面の薄皮を破ったりしている。


「えっと、まあ、体に良さそうなニオイではあるわね」


 いぶかしげに片眼を細めつつ、マーガレットおばさんがつぶやいた。


「ホームズさんがお奨めなさっているものに、間違いはねーですっ」


 意を決して、クレアはそれを口に放り込んだ。ぼくたちも後に続く。


「っっっっっ!!」


「――!?」


「~~~~!!」


「………………」


 すごい味だった。

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