第2話 階級社会のこと


 同じころ、ぼくらはベイカー街の下宿で朝食をつついていた。

 冷え切った燻製ニシン(キッパー)を前に、わが同居人は言った。


「理解しがたいね、階級社会というものは」


 艶やかな黒髪をかき上げつつ、新聞を読みふけっている。

 白磁のような肌、長いまつげ。男装さえしていなければ誰もがふり返るほどの美人だ。

 彼女――リョウ・〝ホームズ〟・ランカスターは、英国人の父と日本人の母から生まれたらしい。言いしれぬ事情があってロンドンに単身移り住み、性別を偽って暮らしている。日本人の顔を見慣れている者は少なく、彼女の性別を一目見ただけで言い当てたのはぼくが初めてだったという。外見だけなら心穏やかな東洋人に見えるのに、口を開けば突飛なことばかり言う。行動も予測不能。彼女と一緒にいると退屈する暇がない。これは褒め言葉ではない。


「階級社会だって?」


「この国には、今でも厳格な階級制度があるのだろう? 貴族階級に生まれたら貴族になり、労働者階級(ワーキングクラス)に生まれたら死ぬまで労働者のまま。たとえ素晴らしい才能を生まれ持っていたとしても、階級が低ければその能力が世の中に役立てられることはない。いささか損失が大きすぎる制度だとは思わないか?」


 見れば、彼女は地下新聞を手にしていた。労働団体のなかでもとびっきり過激な連中が発行しているやつだ。


「そんなものを読むのはやめなよ、ホームズ……」


 ホームズ、ワトソンというのはぼくらのあだ名だ。ベイカー街の一角にあるこの部屋で、リョウは〝会計探偵〟を営んでいる。先日、とある探偵小説を読んだぼくが、リョウを「まるでホームズのようだ」と評したのだ。すると彼女は楽しそうに笑い、「ならば君はさしずめワトソンだね」と答えた。

 小説の名探偵と同じく、リョウも新聞をよく読む。

 デイリー・テレグラフやタイムズ、マンチェスター・ガーディアンはもちろん、下世話なニュースが満載のタブロイド紙まで選り好みせずに読み漁る。今だって、海図を広げた航海士よろしくテーブルの上を新聞で埋め尽くしていた。残されたわずかな隙間に燻製ニシンの皿が取り残されている。


「そんなものとはずいぶんな言い草だな」


「知っての通り、今のロンドンには世界中のマルクス主義者たちが亡命してきている。で、そういう新聞を発行して社会の転覆を謀(はか)っているわけだ。……君の顧客はイギリスの金持ちだろう? そんな新聞を読んでいると知られたら仕事がなくなるぞ」


 リョウはきょとんとする。


「……そうなのか?」


「そうなの! 君が考えている以上に、その新聞は危険なシロモノなんだよ。この国が百年前のフランスみたいになったらどうしよう……って、金持ち連中はぴりぴりしているんだから。まさか君はマルクス主義者ではあるまい?」


「まあ、彼の理論には興味深い点も多々あるが……。厳密な数字の科学であるべき経済と、演繹的な哲学とが充分に切り離されていないと感じていた。そうか、危険か。ならばこれを読んでいることは外では口にしないようにしよう」


「読むのはやめないんだね」


 ぼくは大袈裟にため息をついてみせた。しかし、リョウは新聞を手放さない。


「もちろんだとも」


 記事を目で追いながら、彼女はぶつぶつとつぶやく。


「可能なかぎりたくさんの新聞に目を通しておきたいのさ。もしかしたら母のことが――」


 そこまで言って、リョウはハッとしたように口をつぐんだ。


「お母さん? 君の?」


 彼女は答えず、テーブルの新聞をがさごそと引っかき回した。経済紙を拾い上げると、顔を隠すようにして読み始める。いったいどうしたんだろう?


「ふむ! カナダのバンクーバーは今ちょっとした起業ブームのようだ!!」


「あのさ……」


「どうやら大陸横断鉄道の影響らしいな。数年前に開通したやつだよ。バンクーバーは太平洋側の終点だから――」


「もしかして君は、お母さんを探しているの?」


 そのためにイギリスに?

 リョウはぎくりと身を固くした。たっぷり十秒は待っただろうか。


「……ああ、そうだ」


 観念したように新聞を下ろして、小声で答える。


「この国のどこかにいるはずなんだ……」


 それきり黙りこくった。

 ルームシェアを始めて、はや数ヶ月。初めて耳にする話だった。君は東洋で生まれ育ったのではないか? なぜ母親がこの国にいるんだ? その人を探し出すために、そうやって無数の新聞を渉猟(しょうりょう)しているのか? 会計探偵なんて妙な商売を始めたのも、母親の情報を得るためなのか――?

 たくさんの疑問が、ぼくの頭を駆け巡る。

 だけど、美人はずるい。そんな表情をされたら何一つ訊けないじゃないか。

形のいい小ぶりな鼻。風が巻き起こりそうなほど長いまつげ。イタズラを叱られた子供みたいにくちびるを尖らせて、言った。


「それで、ワトソンくん。君はどう思っているんだ?」


「どう、って?」


「その記事の中身だよ」


 と、テーブルに投げ出した地下新聞をあごで指す。


「恥ずかしながら、ぼくはマルクスの『資本論』は途中まで目を通して挫折していて――」


「そうじゃない。階級社会のことだ」


 黒々とした瞳でぼくを見つめる。


「この下宿のメイドに対して、君はしばしば驚くほど横柄な態度を取るだろう? 異国から来た私から見ると、少しばかり奇異に思えてね」


 大家のマーガレットおばさんは二人のメイドを雇っている。気の強いロンドンっ子のクレアと、一週間前からオリヴィアという少女も働き始めた。どちらも十四歳。


「横柄って……そんな態度をしたかなあ? というか、東洋にも召使いを雇っている家はあるでしょ?」


「たしかに私の生家でもお手伝いさんを雇っていた」


「ほらごらん」


「だが、この国の執事やメイドとはまったく異質のものだ。やはり君も、彼女たちを〝下〟に見ているのか? 社会の安定のためには、そういう〝下〟の存在が必要だと?」


 ぼくはため息をついた。


「上とか下とか、そんなこと考えたこともないよ。ただ、まあ、賃金分はきちんと働いてもらいたいとは思うけれど」


「なるほど、賃金か……」


 リョウはあごに手を当ててうなずく。


「それなら納得だ。けれど、その賃金を支払っているのは君ではない」


 痛いところを突く。目下のところ、ぼくは無職・無収入である。


「うーん、あとは……そうだな、この国の伝統みたいなものだから、とくに疑問を感じたこともないんだよ。それにしても、ずいぶん突っかかるね。もしや革命思想に目覚めちゃったの?」


 変な新聞の読み過ぎで。


「革命思想!」


 リョウは声を上げて笑った。


「まさか! 好奇心をくすぐられたから詳しく知りたいだけさ。才能の発見という観点から言って、階級社会はいかにも非効率だ。なぜ世界一の経済大国でそんな制度が生き残っているのか不可解でね」


「友人として忠告しておくけれど、今の疑問を君の――」


「――私の顧客にぶつけないほうがいい、かな? たしかに勘違いされて仕事を失う羽目になりそうだ。いずれにせよ君の意見は〝上〟に立つ側のものだ。本当に疑問がないのかどうか、本人に訊いてみようじゃないか。ほら、クレア嬢のご入来だ」


 リョウは人間の足音をかなりの精度で聞き分けることができるらしい。

 階段を登る足音が近づいてきて、クレアがドアを開けた。


「食後のお茶をお持ちしましたぁ~!」


 金髪、碧眼。背は少し低いけれど、黙っていれば充分に美少女で通る顔立ちだ。


「って、ホームズさん! まだ食べ終わってねーですか? 早くしねーとお昼になっちまいますよ」


 そう、黙っていればである。

 舌足らずで甘ったるい声なのに、口を開けば、まくしたてるような早口の下町言葉(コックニー)が飛び出す。マーガレットおばさんは熱心に教育しているようだが、あまり実を結んでいないらしい。


「お茶はもう少し後のほうがよかったでしょーか?」


「いや、ちょうどいいときに来たよ。議論が白熱して喉が渇いていた」


「それなら良かったです~♪」


「ぼくは食後にコーヒーをもらいたいんだけど」


 クレアはつんとそっぽを向いた。


「ご自分で淹れたらいかがです?」


「なんだと!?」


 彼女の欠点は言葉遣いだけではない。ぼくに対しては妙に生意気なのだ。


「あたしの雇い主はマーガレットおばさまです。おばさまからは、ホームズさんの身の回りのお世話をするように仰せつかっています。ワトソンさんのご面倒まで見るようにとは言われてねーですよ。……はい、ホームズさん。緑茶(グリーンティー)です!」


 腹は立つが、一応、筋は通っている。というか、リョウに話しかけるときのクレアは声が一オクターヴ高くなる。


「うん、いつも通りの味だ。美味しいよ」


「はぁん! もったいねーお言葉ですぅ♪」


 声変わり前の少年のような声で微笑むリョウ。身をよじるクレア。

 このメイドはリョウの本当の性別を知らない。東洋から来た金持ちの紳士だと信じ込んでいるのだ。彼女がぼくに生意気な態度を取る理由も、たぶんそこにある。ぼくのことを、自分とリョウとの間を邪魔する寄生虫みたいに思っているのだろう。


「ときにクレア嬢、君は自分の仕事に疑問を感じたことはあるかい?」


「疑問だなんて!」


 彼女はぶんぶんと首を振る。


「おばさまからいただいたメイドの指南書には、誠心誠意ご主人様にお仕えするよーにと書かれていました! ホームズさんのもとでお仕事をさせていただけるだけでありがてーです!!」


「そうか……」


「ほら、やっぱりね。伝統的なものだから疑問なんてないんだよ」


 ぼくが言うと、クレアにキッと睨まれた。リョウは続けた。


「私には、この国の堅硬な上下関係は旧態依然としたものに思えるんだ。才能が富に変わる時代にあって、その足かせにしかならないだろう?」


「きゅーたい……?」


「古くさいって意味だよ」


 ぼくが助け船を出すと、クレアはぐぬぬと口を歪めた。


「ホームズさんのゆーとーりです! 上下関係なんて時代遅れですよ。伝統に縛られるなんてまっぴらです!!」


 言っていることがめちゃくちゃだ。


「ところで、今日の朝食はオリヴィアの担当だったはずでは?」


 カップを片手にリョウが訊く。


「ああ、あの子は……。あまり言いたくねーですけど全然ダメです。手際は悪いし、ホームズさんの朝食後は濃いめの緑茶(グリーンティー)だってことも覚えていなくて、紅茶を淹れようとするし……。見ていられなくて、途中からあたしが選手交代しちゃいました」


 ベイカー街の裏手には、日本や中国からの輸入品を中心に扱う市場がある。リョウは暇を見つけてはそこに通い、東洋の怪しげな物品を買い漁ってくるのだ。彼女が愛飲している緑茶はその市場で仕入れたものだ。

 クレアは大袈裟に肩をすくめて見せる。


「仕事ができないばかりか、増やしやがるんです。いないほうがマシですよ、あの子は」


「ほう、君にしては珍しく辛辣だな」


 珍しく? このメイドは、ぼくに対してはいつでもこれくらいの悪態をつくぞ。


「階段のお掃除を頼んでみれば、手すりに磨き残しがあるし、暖炉の石炭交換を頼めば重たくてバケツに半分ずつしか運べないって言うし……。たしかに言葉遣いやマナーだけは丁寧ですからね、マーガレットおばさまも騙されちゃったんですよ」

「とはいえ教育がある子なら、お遣いは得意なのでは?」


 クレアは片手をひらひらさせた。否定の意味らしい。


「お遣いなんて任せられねーですよ、ネコババしようとするメイドに」


「ネコババだって?」


「ふむ、聞き捨てならないね」


「あたしが毎月二回、ガウアー街のお薬屋さんに行っているのはご存じですか?」


「マーガレットおばさんの咳止め薬をもらうためだな。たしか、特別処方の」


「この前、オリヴィアに代わりに行ってもらったんですよ。そしたら、二時間も戻ってこなくて……。なぜそんなに時間がかかったのか尋ねたら、歩いて行ったって言うんです」


 ベイカー街からガウアー街まで、地下鉄メトロポリタン線でわずか二駅だ。しかし徒歩では大人の足でも往復に小一時間かかる。


「オリヴィアは『鉄道が嫌いで、できるだけ乗りたくない』なんて言ってやがりましたけど、ぜってー嘘ですね。おばさまから預かった切符代も、あたしが問い詰めなければ自分の懐に収めるつもりだったに違いねーですよ!」


 クレア嬢はぷんすかと愚痴を漏らす。

 が、ぼくは釈然としなかった。この下宿の新しいメイド――オリヴィア・マクノートンは、大人しくて自分の言いたいこともはっきり言えないタイプの少女だ。そんなあの子がネコババを? にわかには信じられない。


「何かの間違いじゃないか?」


 クレアは一笑に付した。


「ワトソンさんは博物学がお好きで、いろいろな生き物についてお詳しいはずですよね」


「北部イングランドの鱗翅目には自信があるよ」


「でも肝心の、女という生き物が全然分かってねーです」


「十四歳の君が女を語るのか」


「ああいう清楚ぶった女に限って、意外とやり手だったりするものです。ワトソンさんも騙されねーよう、ご注意ですよ。老婆心ながらご忠告さしあげます」


「十四歳の君が老婆心を語るのか」


 宙を睨んでいたリョウが、ぽつりとつぶやいた。


「……しかし、たしかに私たちはオリヴィアのことをよく知らない」


「ホームズ! 君まであの子を疑うの?」


「領収証を見るまでは、帳簿に書かれた数字が正しいかどうかは分からない。同じことだよ。あの子の過去について、君は少しでも聞いたことがあるのかい? 出身地はどこで、以前はどんな家で働いていたのか――」


 ぼくは口ごもった。もともと口数の少ないメイドだ。リョウの言う通り、ぼくはオリヴィアについて何一つ知らない。


「さらに言えば、最近のロンドンには多数のスパイが潜入しているらしいからね」


「は?」


「だからスパイだよ。他国の諜報員」


 ようやく食事に手を付ける気になったのか、リョウはのろのろと新聞を片付け始めた。そのうちの一紙を取り上げて、掲げてみせる。


「ロシア皇帝もドイツの新しい皇帝も、大英帝国の後釜を虎視眈々と狙っているらしいじゃないか。この記事には『お宅の召使いにご用心』と書いてある。どうやら執事やメイドとして、政府高官に近づこうとする輩もいるらしい」


 ガチガチの保守系タカ派の新聞だった。


「ひえ~、怖ぇーです~!」


「呆れたね、オリヴィアがどこぞの国のスパイだと?」


 あんな子供が? ぼくは笑ってしまった。


「その可能性を否定する証拠はない」


 大真面目にリョウは答える。

 彼女の推理能力――本人は「計算」と呼んでいる――は、しばしば常識ではたどり着けない結果を導き出す。が、今回ばかりは非常識すぎる。もしも仮にオリヴィアが工作員だとしても、ベイカー街に住み着いた理由が分からない。

 それとも、まさかリョウはスパイに狙われるような身分なのだろうか。

 ぼくは頭をゆるく振った。


「君と一緒に暮らしたせいで、ぼくもだいぶ感化されてしまったようだ」


「いい傾向だな。君はもう少しお金に頓着したほうがいい」


「違うよ! 常識外れな考え方をするようになってしまった……ってこと!」


「ふむ?」


「まともに考えて、あの子が外国のスパイなわけがない。紅茶と燻製ニシンを愛する、れっきとしたイギリス人だよ」


「だといいがな」


 答えつつ、リョウは燻製ニシンをガリッと食べた。


「がり?」


「ほ、ホームズさん!?」


 リョウはしかめっ面で、魚の開きを裏返してみせる。

 ぞっとするほど真っ黒に焦げていた。

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