2章 日本語通訳 The Japanese Interpreter

第1話 手荒な真似はしたくないんですがね


 これは、ぼくが後から聞いた話だ。

 事件そのものは、この街ではありふれたものだと思う。

 たしかにロンドンは文明の頂点を極めた都市だ。しかし路地裏に一歩踏み込めば、「文明」という言葉の意味を再考したくなる。太古の人々は「万人の万人に対する闘争」の世界を生きていた――というのは十七世紀の思想家トマス・ホッブズの主張だ。けれど、それはまさにロンドンの裏側に広がっている光景ではないか。暴力、強欲、そして飢餓。警察の力が届かない闇のなかで、銃やナイフで武装した人々が日夜、野蛮のかぎりを尽くしている。

 事件が起きた場所は、《ノースロード職業紹介所》。

 ウェスト・エンド地区の片隅にひっそりと看板を掲げている紹介所だ。二階建てのレンガ造りの建物で、正面玄関を抜けると短い廊下が続く。その突き当たりのドアには「面談室」と書かれた札。ここはメイドや執事の仕事を斡旋する場所である。

 事件が起きたのは、朝の八時だった。

 廊下に据えられた簡素なベンチには、早くも三、四人の女が座っていた。みな一様に硬い表情を浮かべて、面接の順番を待っている。

 しかし、今朝いちばんに面談室を訪れたのは、失業中の召使いではなかった。


「……我々は知りたいだけなんですがね、あの娘の居場所を」


 黒いシルクハットをかぶった男二人だ。丈の長いコートを脱ぎもせず、面接用の椅子にふんぞり返っている。


「どうしても、教えていただけない?」


 片方の男は口ひげをもじゃもじゃと伸ばしており、表情は読み取れない。もう片方は色白の若者で、にたにたと笑みを浮かべていた。身なりだけなら、きちんとした紳士に見える。

 だが彼らの暗く冷たい視線は、相手に警戒心を抱かせるには充分だった。


「ええ。申し訳ありませんが、お答えいたしかねます」


 事務机を挟んで男たちと向き合っているのは、四十代の痩せた女性。彼女はこの職業紹介所の日常業務を任されている人物だ。机の上には届いたばかりの求人票や紹介状が散らばり、地層を形成しつつあった。


「あの子は新しいお宅で、新しい仕事に就いております。そちらのご家庭にご迷惑をかけるわけにはいきませんから」


「ならば仕方ない――」


 口ひげの男のセリフに、彼女は内心ホッとした。朝一番で押しかけてきた、怪しげな客だ。ようやく諦めて、帰ってくれるだろう……。

 次の瞬間、彼女は「ひっ」と小さく息を呑んだ。


「――我々としても、手荒な真似はしたくないんですがね」


 若いほうの男が飛びかかり、左手で彼女の顎を掴んでいた。右手のナイフを、彼女の首筋にぴたりと当てる。はね飛ばされた書類が、ふわり、ふわりと絨毯の上に落ちていく。

 果敢にも、彼女は相手を睨み返した。

 職業紹介所では小さなトラブルは日常茶飯事だ。たとえば雇い主が約束の給料を払ってくれないとか、紹介したメイドが窃盗を働いて逃げたとか……。誰かに怒鳴り込まれたことは一度や二度ではない。

 口ひげの男は立ち上がった。


「ところで奥さん(マダム)、血圧を測ったことはおありですかな?」


 事務机に歩み寄りながら尋ねる。彼女は何も答えられなかった。少しでも動けば、刃が首に食い込みそうだったからだ。ただ眉を寄せて、拒絶の表情を浮かべる。

 口ひげの男は構わず続けた。


「人間の血圧は低くても八〇mm(ミリメートル)Hg(エイチジー)、普通は一二〇mmHgくらいあるそうです。この〝ミリメートルエイチジー〟という単位が、何を表しているかご存じですか。……おや、知らない? ならば後学のためにお教えいたしましょう。圧力計の水銀柱を一ミリメートル押し上げる圧力の強さ……これを一mmHgと呼ぶんです。あの重たい水銀を、三、四インチも持ち上げるほどの圧力があるわけです、人間の血液には」


 口ひげの男は、若い男の隣に並んだ。そのまま机の上に尻を乗せて座る。

 彼女の顔にようやく恐怖が広がった。若い男のにやにや笑いと、口ひげの男の氷のような視線。この男たちは、まともな会話が成り立つ相手ではない。ナイフのつけたかすり傷から、血の雫が一つ、彼女の首筋を滑り落ちる。


「水銀の比重は、水のおよそ十三・五倍です。つまり、押し上げるのが水銀ではなく、水のような液体――たとえば血液――なら、軽々と四、五フィートは吹き飛ばすほどの圧力なんですよ、人間の血圧というものは」


 男はちらりと上を見た。


「つまり今ここで奥さん(マダム)の頸動脈を切れば、天井から下がっているあのランプまで血しぶきが届くでしょう」


 そして、小さく笑った。


「というわけで、教えていただく気になりましたかな?」

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