第8話 私もたまには女物のドレスで


 ベイカー街のいつもの午後、新聞を読んでいたリョウが声を上げた。


「ふむ! ワトソンくん、ロイヤル・アルバート・ホールにイタリア人のオペラ歌手が来ているらしいぞ」


 ぼくは顕微鏡から目を上げた。三日前に届いたばかりの逸品だ。


「それが?」


「分からないやつだな、君は。いつもそうやって自然物ばかりを眺めているから、たまには人工物の美しさを鑑賞してはどうかと提案しているんだ」


 返事をせず、ぼくは接眼レンズを覗き込んだ。玄関先で採取した土埃から花粉を選り分ける作業の途中だったのだ。


「人の話は聞きたまえ」


「うわっ、そこに立たないでよ! 顕微鏡に光が入らないだろ!?」


「オペラだぞ? 話題沸騰、超人気歌手の!」


「残念ながら、ぼくはイタリア語はさっぱりでね。オペラなんて、肥満体の男女が奇声を上げているようにしか見えないんだ」


「だったらなおさら観に行くべきだね。本場の歌手が演じる本物のオペラを体験すれば、少しは良さを理解できるかもしれないだろう? かの偉大なる博物学者チャールズ・ダーウィンはこう言っている。音楽は、私たちの言語能力よりも先に生まれた可能性があると」


 人差し指をぴんと立てて、リョウはぼくを諭す。


「つまり、音楽による感動は言語を超えるんだよ。たとえイタリア語が分からなくても、美しい旋律を耳にしたら私たちは本能的に感動してしまうんだ」


「怪しげな仮説だなぁ」


「では、ぜひとも仮説を検証しに行こうじゃないか。ダーウィンの考えが正しいかどうか、私たち自身の耳で実験するんだ!」


 ぼくはまじまじと相手を見つめた。


「どうしたの? 今日は妙に食い下がるね」


「べ、別に……。せっかく世界一の歌手がこの街に来ているんだ。この好運を逃す手はないと思っただけで――」


 どういうわけか、リョウは何かを弁解するような口調だった。


「好運といえば、あのときは肝が冷えたよ」


「あのとき?」


「ブラック・ジャックのこと。君はあそこで一生分の運を使い果たしたんじゃないか?」


 犯罪者のなかには、自らの決めたルールを厳守して行動する者がいるという。あの教授と交渉が成り立ったのは、リョウがゲームで勝っていたからだ。もしも負けが重なっていたら、あの男がどんな行動に出たか分からない。


「なんだ、そんなことか」


 リョウは得意げに笑う。


「ブラック・ジャックには必勝法があるんだよ」


「なんだって!?」


「世界広しといえど、この方法に気付いている人間はそう多くないだろう。もしかしたら私だけかもしれないね。……ブラック・ジャックでは、すでに使われたカードを見れば、山札にどんなカードが残っているか判るだろう?」


「ま、まあ……。理屈ではそうだけど――」


 並外れた注意力と記憶力が必要になるはずだ。


「山札に残っているカードが判れば、ゲームで自分が勝てる確率も計算できる。あとは、その計算結果に従って、収益が最大になるような金額を賭ければいい」


 リョウが賭け金をつり上げたのは、決まって山札が薄くなってからだった。残りの枚数が少なくなれば、それだけ勝利の確率を正確に計算できる。一方、山札が分厚いうちは、不確定要素が多いので少額しか賭けられない。運が悪くて山札に弱いカードしか残っていない場合も同様だ。


「つまりあのとき、君は期待値の計算をし続けていたというのか? しかも暗算で!?」


「私は小さいころから、これで鍛えているからね」


 ――すちゃ。

 彼女の華奢な手のなかで、そろばんが涼やかな音を立てる。


「暗算は得意なのさ」


 得意というレベルではない。人間離れした計算能力だ。

 リョウは目を伏せた。


「というか、お礼をまだ言っていなかったな」


「お礼というと……?」


「助けてくれてありがとう。もしもあのとき、君がいなかったら、私はピストルで撃たれていただろう。あの一件の後、少し反省したんだ――」


 しゅんと肩をすぼめる。明日は雪が降るかもしれない。


「――私がホワイト・チャペルを歩き回ったことがあると言ったら、君は叱ってくれただろう。口うるさいと感じて邪険な返事をしてしまったが……。ワトソンくん、君は本気で心配してくれていたんだね。頭に銃口を突きつけられて、ようやくそのことに気が付いたんだ」


「驚いたな、君でも恐怖を感じることがあるのか」


「まったく、私をいったい何だと思っているんだ。これでも一応、うら若き乙女のつもりなのだけどな!」


 冗談めかしてリョウは言う。ぼくも冗談めかして答えた。


「女扱いされたくないんじゃなかったっけ?」


「それは仕事中の話だ。休みのときぐらい、女扱いしてくれてもいいんだぞ」


 リョウはくちびるを尖らせる。ぼくは苦笑した。


「……それじゃ、ぼくも観に行こうかな、オペラ」


「本当か!?」


 彼女の顔が、パァァァアと輝く。


「ならば今すぐ身支度をしたまえ。私もたまには女物のドレスで出かけよう!」


「ドレスなんて持っていたの? ていうか、性別がバレたらまずいんじゃ――」


「私だってドレスの一着や二着持っているさ。顔ならつばの広い帽子で隠せばいい。なんなら、色の濃いヴェールをかぶってもいいだろう」


 ご機嫌である。


「そうだ、もう一つ分からないことがあったんだ」


 レンズにカバーをかぶせながら、ぼくは訊いた。


「あの事件では結局、君は依頼人から報酬を受け取らなかったんだよね?」


「もちろんだ。貧しい子供からカネを巻き上げたりしないさ」


「じゃあ、あの事件の監査は大赤字だったわけだ」


 彼女はブラック・ジャックで勝ったぶんの金を受け取っていない。費用ばかりがかさんで、収入はなかったはずだ。


「赤字? とんでもない!」


 リョウは軽やかに笑った。


「あの場にいた男たちはみんな、ヨーロッパ各地で商売を営む金持ちだ。名刺を渡して、私の新しい顧客になってもらったよ。違法な賭け事に手を出していたとはいえ、根っからの悪人というわけではなさそうだったからね」


「なんてやつだ」


 探偵が聞いて呆れる。


「新しい客を開拓できたことを考えれば、充分に黒字(ブラック・インク)だよ。……それでは、私は着替えてくる!」


 歌うように言って、彼女はぱたぱたと自分の寝室に駆け込んだ。

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