第7話 ブラック・ジャック


 パディントン駅はロンドンの玄関口だ。

 グレート・ウェスタン鉄道のターミナル駅であり、地下鉄とも接続されている。到着した人々を出迎えるのは、錬鉄の骨組みで支えられた巨大なガラス張りの屋根。ぼくたちが改札を抜けたときには、通勤ラッシュの人々でごった返していた。


「見ろ、ワトソンくん! 人がゴミのようだ!!」


 目をキラキラと輝かせながらリョウは嘆息する。


「何度見てもこの光景には惚れ惚れするよ。煙を吐いて走る鉄の獣! それらを覆いつくす駅舎! 旧約聖書のヨナを飲み込んだクジラの胃袋だって、これほど大きくはあるまい」


「君が鉄道好きだったとは意外だな」


「より正確には、鉄道を生み出した金の力が好きなのさ。いったいどれほどの資本があれば、こんなに素晴らしい産業を生み出せるのか……。ハァ……」


 白磁のような頬をわずかに上気させて、リョウはうっとりと周囲を眺める。


「感動する気持ちは分からないでもないが、列車に乗り遅れるわけにはいかないぞ。ぼくたちが何のために切符を買ったのか忘れたわけじゃないだろうな」


「もちろんだとも。そういう君こそ、その大荷物は何だ?」


 ぼくはたじろぐ。


「いや、えっと……その……。せっかくロンドンから離れるなら、その土地の動植物を採集したいと思って……」


「まったく、君の博物学趣味には呆れるよ。その長い包みは一見すると楽器のケースのようだが……。中身は猟銃か?」


「うん、鳥撃ち銃をば……」


「間違っても私の背中を撃たないでくれよ」


「撃たないよ!」


 こう見えても、銃の扱いには慣れているのだ。学校の勉強なんてそっちのけでウズラ狩りにいそしんできたのだから。

 リョウは真剣な顔になった。


「……ワトソンくん、こっちを向いてくれ」


「え?」


「早く!」


 ネクタイを力強く引っ張られる。急にリョウの顔が近づいて、ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。彼女の吐く息が、頬にかかった。


「こ、これはいった、い――」


 第三者から見れば、若い男二人が駅のホームで顔をくっつけているように見えるはずだ。ぼくらの生きる時代は〝進歩の時代〟と言われるけれど、そちらの方面での進歩は遅れている。男同士というのは社会的にも宗教的にもマズすぎる。


「ほ、ホームズ? 何のつ、つも……」


「静かにッ」


 周囲の通勤客は、ぼくらには目もくれずに足早に通りすぎていく。都会の人間が他人に無関心で助かった。リョウが耳元で囁いた。


「君の後ろに現れたんだよ。ロイ・バクスター氏が」


「……!!」


 ちらりと背後を盗み見ると、たしかにバクスター氏だった。背中をやや丸め、こそこそとした足取りでホームを進んでいく。


「ぐえっ!?」


 ネクタイをさらに引っ張られた。


「あまりじろじろ見るな。向こうは君の顔を知っているんだ」


「そ、そうだったね……」


 ぼくの肩ごしに、リョウはバクスターを観察する。


「客車のいちばん先頭、炭水車のすぐ後ろに派手な車両があっただろう?」


「うん。たぶんあれが特別仕様の一等車――」


「私の計算通り、バクスターはその車両に乗ったよ」


 握った手を、リョウは緩めた。

 歪んだネクタイを直しつつ、ぼくは振り返る。


「見たところ、車両一つが丸々一つの客室になっているみたいだね」


「ああ、設計としては食堂車に近いな」


「バクスターさんの他にも何人か乗っているみたいだけど……」


「続きは後にして、私たちもそろそろ乗車しよう。向こうからも、窓ごしにこちらの姿が見えてしまう」


 ぼくたちの座席は、特別車両から二つ後ろの客車だった。ごく普通の一等車だ。四人掛けのコンパートメントが並び、狭い廊下で繋がっている。同乗する客はいなかった。

 鋭い警笛が鳴り、座席がガコンと揺れた。

 年老いた獣が目を覚ますように、ぼくらを乗せた汽車はゆっくりと動き始めた。白煙を後ろに残してパディントン駅を滑り出る。レンガとセメントに覆われた風景はすぐに終わり、寒々としたロンドン郊外の景色に切り替わった。


「さてと、今までの話を整理しよう」とリョウ。「ことの発端は双子の少年――J・J・ブラザーズの持ち込んだ依頼だった」


「彼らの働くバクスター清掃社からジョエルという十四歳の少年が消えたという話だったね」


「そう、それが第一の謎だ。ジョエル少年はなぜ消えたのか。そして、どこにいるのか」


「あの時点で、君にはだいたいの真相が分かっていたみたいだけど」


「まあね。家出ではないとだけ言っておこう」


「で、第二の謎は?」


「ロイ・バクスター氏は何にカネを使ったのかだ。……彼は毎月第三週に、一〇〇ポンドもの現金を引き出していた。だが、その事実は現金出納帳には記されていなかった」


「代わりに、現金出納帳からは彼が毎月この列車に乗っていることが判ったけど……」


「第三の謎だな。この列車で、彼は何をしているのか? そして第四の謎は――」


「J・J・ブラザーズ」


「その通り。警察官たちはミスター・スロウによる誘拐を疑っていたけれど、私にはそうは思えない。そもそも、あの双子があそこにいたことが妙だと思わないか?」


「言われてみれば、たしかに。あの子たちが根城にしているイースト・エンドは、ぼくらの暮らすベイカー街からは離れている。あの時間に、なぜリージェンツ・パークの付近をうろついていたんだろう?」


「奇妙なのはそれだけじゃない。本当に誘拐事件の被害者なら、あそこで警察から逃げる理由がない。大人しくロンドン警視庁(スコットランドヤード)の庇護を受ければいいはずだ。にもかかわらず、警察官の目を盗んで逃亡した。なぜだ?」


「あの二人も何らかの犯罪に荷担していたのかな?」


 リョウはふふっと息を漏らした。


「あるいは、どうしても外せない用事があったのかもしれないね。警察の事情聴取を受ける時間も惜しくなるような用事が」


「そんな用事って、たとえば……?」


「誰かを助けようとしていた、とか」


 カーブに差し掛かり、座席がギシギシと揺れる。

 窓の外には牧草地が広がり、色づいた並木が農道を飾っていた。


「ここまでロンドンを離れれば、そう簡単に逃げ隠れはできないだろう。さてと、ワトソンくん。そろそろ行くとしようか」


 ぼくはぎくしゃくとうなずいた。背筋がぞくぞくした。


 出迎えたのは、目つきの冷たい青年だった。


「なんですか、あなたたちは」


 彼は列車の連結部、特別車両に続く扉の前に立ちはだかっていた。ぼくらの姿をためつすがめつしながら、青年は言った。


「余興のために呼ばれた音楽家か旅芸人……というわけでもなさそうですが」


「もちろん音楽家などではない。君たちの仲間に入れてほしいだけさ」


「教授からの招待状をお持ちでないなら、ここから先に通すわけにはいきません」


「そう堅いことを言うな。たしかに招待状はないが、これがある」


 リョウは革の手提げかばんを押しつけた。見た目よりも重たかったのだろう。受け取った相手はよろけそうになった。


「二〇〇ポンド入っている。これで君たちの遊びに交ぜてもらいたい」


「くだらない冗談は――」


「なんなら中身を確かめてもらってかまわない。ソブリン金貨で二百枚、きちんと入っているよ」


 二〇〇ポンドだって? ぼくは絶句した。そんな話、ぜんぜん聞いていない。リョウはいったい何をするつもりなのだろう。

 見張りの青年はまだ何か言おうとした。が、車内から出てきた男に遮られた。


「おやおや……。こんなところで途中参加なさるお客さんとは珍しい」


 すこぶる背の高い、初老の紳士だった。生え際は後退し、青白い額が大きく突き出している。髪には白いものが混ざっているが、ひげを綺麗に剃り落としているせいで実際よりも若々しく見える。本当の年齢のよく判らない顔だ。

 片眼鏡(モノクル)をきらりと光らせて、彼は言った。


「失礼だが、どこで我々のことをお知りになったのかね?」


「申し訳ないが、それをお教えすることはできないんだ。知人からの信頼を裏切ることになるのでね」


 リョウはぬけぬけと言ってのけた。これはハッタリだ。ぼくたちは誰かに聞いたのではなく、帳簿を読んでここまで来たのだ。


「とはいえ、まったくの部外者というわけでもない。今日はロイ・バクスター氏が来ているはずだ。ここにいる男はバクスター氏とは知り合いだよ」


 と、ぼくの背中を叩いてみせる。

 相手はいぶかしげに眉をひそめた。


「……どうしますか、教授?」


「まあ、かまわんだろう。供託金さえお支払いいただけるなら、我々としては来る者拒まずだ。終着駅まで時間はたっぷりある。ぜひお楽しみいただこうじゃないか」

教授と呼ばれた男は手提げかばんを受け取り、車内に戻ろうとした。


「おや、かばんの中身を確かめなくてもいいのかい?」


 リョウが訊くと、相手はくつくつと笑った。


「金貨の代わりに鉄板でも入れて、重さをごまかしているとでも? そんな命知らずなことをする者がいるとは思えんね」


 教授はドアの向こうに消えた。


 ぼくの姿を認めて、ロイ・バクスターは息を呑んだ。

 広々とした車内には豪奢なソファが並べられ、ちょっとしたホテルのロビーのような雰囲気だ。車両の真ん中には、濃緑色の羅紗(らしゃ)を張ったテーブルが一台。トランプと金貨が散らばっている。いかにも裕福そうな男五人がテーブルを囲んでいた。そのうちの一人がロイ・バクスターだった。


「き、君は……!?」


「昨日はどうもお騒がせしました」


 ぼくは微笑もうとして、失敗した。

 三人の子供の姿が目に入ったからだ。彼らは客室のいちばん奥で、トランクや手荷物に囲まれて座り込んでいた。どうやら後ろ手に縛られているらしい。十歳ぐらいの双子がひと組と、十四歳ぐらいの少年――。間違いない、J・J・ブラザーズとジョエルだ。

 双子たちは大きく目を見開き、今にも声を上げそうになった。

 ぼくはすかさず視線をそらした。今、ぼくたちの関係を知られるのはマズい。とはいえ、ぼくもパニックを抑えるので精一杯だった。なぜ子供たちがここにいるのだろう。この状況は、いったい何だ――?


「さあ、君もこちらに掛けたまえ」


 教授が椅子を引いて手招きした。リョウは迷いない足取りでテーブルに着く。


「そちらの彼は?」


「えっと、ぼくは――」


「彼は私の助手だよ。自由に使えるカネがないからゲームには参加できない。今日はあくまでも見学のために同席させてもらう」


 リョウはテーブルを囲んだ男たちと軽く自己紹介を交わした。


「お若いのにご立派だ」


「その歳でこれほどの金を用意できるとは……」


「まったく羨ましい限りですな」


 談笑する男たちに挟まれて、バクスターだけが居心地の悪そうな顔をしていた。


「では、新しい友人も加わったところでゲームを再開しよう」


 教授はテーブルを回り込んで、男たちと向かい合った。上着を脱いで、肘のすぐ下まで腕まくりする。どうやら、シャツの袖にカードを隠すイカサマをしていないというアピールらしい。長い指でトランプの束をすくい上げて、すばやく混ぜ合わせる。


「我々が遊んでいるのはブラック・ジャック。ルールの説明は?」


 カードをシャッフルしながら教授は言った。


「妙なハウスルールがあっても困る。一応確認させてもらおうか」


 教授の説明によると、ブラック・ジャックは配られたカードの数字の合計が二十一に近いほうが勝利となるゲームだそうだ。カードを配る『親』と、配られる『子』が一対一で勝負をする。今回の場合なら、『親』である教授が、リョウを含めて五人の『子』と同時に勝負することになる。


「我々の賭け金の最低額は一〇シリングだが、かまわんね?」


 わずか十回足らずのゲームで、貧しい労働者の月収を超えてしまう金額だ。


「もちろんだ」


 半ソブリン金貨一枚をテーブルに載せ、リョウは微笑を浮かべた。


「まずは小手調べに、最低額で賭けさせていただくよ」


 全員の賭け金が決まると、教授はそれぞれ二枚ずつカードを配った。親である自分のカードは一枚を裏返しで配り、残りはすべて表向きで配る。早ければこの時点で二十一が揃うこともあるようだが、今回は違った。


「さて、いかがするかね? ヒットか、スタンドか」


 追加のカードを引くことを「ヒット」、引かずに勝負に出ることを「スタンド」と呼ぶらしい。


「ヒット」


「スタンド」


「スタンド」


「ヒットだ」


「……スタンドで」


 男たちは口々に言い、それに応じて教授はカードを配った。

 二から十までのカードは書かれた通りの数であり、絵札であるキング、クイーン、ジャックは十として数える。またエースは、一と十一のどちらか都合のいいほうで数えることができる。配られたカードの合計が二十一を超えることを「バスト」と呼び、そのまま負けになる。『子』はバストしない限り、何度でもヒットできる。一方、『親』は十七以上になるまでカードを引かなければならず、十七を超えたら追加のカードは引けない。


「ごく標準的なルールのようで安心したよ。ヒットだ」


 リョウは淡々と告げ、そのままバーストした。


「って、バストしたらダメだろ!?」


「ううむ、ビギナーズ・ラックとはいかないらしい」


 男たちの顔に喜色が浮かぶ。


「まあ、気落ちするのは早いです」


「そうですとも! 勝負はこれからですよ」


 彼らにしてみれば、カモがネギを背負ってきたようなものだ。その後もリョウは三回続けてバストし、そのたびに男たちは心にもない慰めの言葉を述べた。そんな大人たちの姿を、三人の子供がじっと見つめていた。

 そうして三十分ほどもゲームを続けただろうか。

 一〇シリングずつしか賭けてこなかったリョウが言った。


「さて、そろそろ攻めに転じようか」


 一掴みの金貨をテーブルに載せる。男たちがざわめいた。


「ほう」と教授。「一〇ポンドも賭けるおつもりで?」


「ここで勝てば、今までの負けを一気に取り戻せる。何か問題が?」


「いいや、問題などないよ。負けが広がることを心配しただけだ。我々としても、誰かが破産するところは見たくないからね」


 ところがリョウに配られたカードは、クラブのジャックとハートのエースだった。

つまりは、自然に揃った二十一(ナチュラル・トゥウェンティ・ワン)だ。

 一方、教授はバスト。賭け金の倍以上が払い戻される。


「これはこれは……」


「一本取られましたなあ!」


 男たちは和やかにリョウの成功を祝福した。バクスターだけが言葉少なに、物欲しそうな目で金貨の塊を見ている。


「ふふふ、私にもツキが回ってきたようだ!」


 リョウは声を上げると、再び一〇ポンドを賭けた。


 列車はイングランドの農村地帯を抜けていく。

 黄色く冬枯れした牧草地のそこここで、羊たちが身を寄せ合っていた。この国に大きな山はなく、なだらかな丘陵がどこまでも続く。その景色を切り裂いて、鉄道のレールが張り巡らされている。

 真っ白な蒸気を噴き上げて、ぼくらの汽車は走り続ける。


 車内は沈黙に包まれていた。


「――では、またしても私の勝ちだな」


 リョウの前には山盛りの金貨。テーブルの上に収まらないぶんは、果物籠に入れて椅子の下に置いてある。

 隣席の男が叫んだ。


「い、イカサマだッ!」


 リョウは微笑む。


「私はカードに指一本触れていない。もしもイカサマだというのなら、それは教授を疑うことになる。それでも、イカサマだと?」


「う、ぐぐ……」


 リョウの後ろで観戦していて判ったことがある。

 彼女の賭け方にはパターンがあるのだ。

 基本的には、リョウは最低金額の一〇シリングしか賭けない。ところが何戦かに一度、大きく賭け金を釣り上げる。そして、そういうときに限って勝利する。敗北の回数も決して少なくなかった。けれど、負けるのはわずかな金額しか賭けていないときが多く、高額を賭けたときには高確率で勝利する。だから、いつのまにか金貨の山が築かれていたというわけだ。リョウが勝負に出るのは、決まって山札が残りわずかになったときだった。

 彼女は二〇ポンドを差し出した。


「カードを配ってくれ」


 他の参加者も苦々しい表情を浮かべながら、各々の賭け金をテーブルに置いた。疑るような目を向けつつ、教授がカードを並べる。

 『親』である教授は、裏向きのカードが一枚に、ハートの九。

 対するリョウの手元には、ダイヤの四とクローバーの六が配られた。合計で十だ。


「……さて、どうしたものか」


 リョウは同席者たちを見渡した。


「ヒット……と言いたいところだが、次に私が勝てば、君たちの用意した供託金は底をつく。いったいどうやってお支払いいただけばいいのかな?」


 答えはない。ロイ・バクスターを見れば、目を白黒させている。


「ならば、私に考えがある。私が今日持ち込んだ供託金は二〇〇ポンド。それを返してもらえれば、それ以上の金は要らない。その代わり――」


 彼女は車両の奥を指さした。


「――彼らを解放してもらいたい」


 三人の子供たちは揃って、ハッと息を吸い込んだ。

 教授の片眼鏡が光を反射し、白く濁る。


「どうやら我々は、招かれざる客を招き入れてしまったようだね」


「お褒めの言葉を賜り光栄だ」


「君はいったい何者だね。何の目的でここに?」


 リョウはかぶりをふった。黒い髪がさらさらと揺れる。


「私はリョウ・〝ホームズ〟・ランカスター。会計探偵だ」


 黒いインクを流したような、艶やかな髪。


「とある人物から依頼を受けて、ここに来た。ジョエルという名の少年を捜して欲しいと言われてね。あそこにいる子が、その少年だろう? 彼の身柄を取り戻さなければ、依頼を完遂できない」


「……探偵だと?」


 教授の声は低く、冷たかった。

 かまわずリョウは言った。


「ヒットだ。カードを配ってくれ」


 教授はトランプをめくろうとしなかった。


「そうはいかん。我々のこの集まりは、ごく内密なものだったはずだ」


「賭けるのがカネだけではないから、だな?」


「さよう。カネが無くなった者には別のものを賭けてもらう。いったいなぜ我々の存在を突き止めることができた?」


 リョウはため息をつく。


「聞こえなかったのか? ヒットだ」


「答えを聞くまでは、プレイは続行できん」


 会計探偵は肩をすくめた。


「ならばしかたない、種明かしの時間だ――」


 ふと横を見て、ぼくは声を上げそうになった。

 先ほどぼくらを通せんぼした見張りの青年が、いつの間にか車内にいた。右手をコートの奥に入れている。あの右手は、おそらく肩から提げた拳銃を握っているのだろう。リョウが変なことを言えば、すぐさま撃ち殺すつもりなのだ。当のリョウはといえば、こちらには背を向けたまま。

 これは、まずいぞ……!?


「――大したことじゃないさ。とある方法を使って、バクスター清掃社の当座預金の入出金記録を調べたんだ。さらに現金出納帳も見せてもらった。これらに加えて、関係者の証言を繋ぎ合わせれば、真相を計算するのは難しくない」


 ほんの数フィート後ろに死が迫っていることに気付かぬまま、リョウは続ける。


「バクスター氏はもともと高い志を持って会社を始めたようだ。ところが一年前に奥方が亡くなった。ご心痛は察するに余りあるが、その後がマズかった。寂しさを埋めるために賭け事に手を出してしまうとは!」


 バクスターは目を伏せ、うめくような声を漏らした。


「ブラック・ジャックを練習していると聞いただけでピンときたよ。当座預金の記録を見て確信が持てた。あなたが賭け事に興じるようになったのは、今年の一月からだね。第三週に一〇〇ポンドを引き出し、翌週には倍の金額を入金していた。きっとビギナーズ・ラックで大きく勝ったのだろう」


 バクスターは答えない。


「ところが負けが重なるようになり、やがて会社の運転資金さえ危ぶまれる状況に追い込まれてしまった。そこで、賭け事の主宰者から提案されたのだろう。支払うカネがないのなら別のものを渡せ、とね」


 リョウは子供たちにちらりと目を向け、バクスターを見つめた。


「そして、あなたは人身売買に手を染めた」


 教授の目つきがどんどん険しくなっていく。


「皮肉なものだね。貧民街の子供たちを助けるために事業を興した男が、あろうことか子供を売ることになるとは……。ともかく、ジョエル少年が賭け事の犠牲になったのであろうということは計算できた。ならば次の問題は、賭け事の行われている現場がどこで、ジョエル少年がどこにいるのかだ」


 見張りの青年が一歩、リョウに近づく。右手はコートに入れたまま――。

 ぼくは飛びかかって彼を止めるべきだろうか? しかし、その後はどうなる? もしも彼を倒すことができても、結局は多勢に無勢。教授を始めとして、この車両に乗り合わせた男たちから逃げ切れるとは思えない。下手をすれば、二人揃って命を落とすことになる。


「ブラック・ジャックの行われている場所はすぐに判ったよ。なんとなれば、毎月欠かさずにこの列車の切符を購入していたからね。なぜ高級列車を賭け事で遊ぶ場所に選んだのかは分からないが……。ともかくバクスター氏は、今までは月に一回だったのに、今月に限って二回も同じ汽車に乗ろうとしていた。これが意味するのは、バクスターさん、あなたがジョエル少年を取り戻そうとしているということだ」


 バクスターは力なくうなずいた。


「ああ、そうだ。今日勝てば、ジョエルを返してもらえるはずだった――」


「しかし、無条件にではないだろう?」


 リョウは教授に目を向ける。


「おおかた、今日負けたら、さらに子供を差し出せとでも言われていたのだろう。だからあの双子が選ばれた」


 彼女の言わんとすることが、ぼくにも分かった。

 パディントン駅はベイカー街からそう遠くない。きっと、あの双子は無理やりイースト・エンドから連れて行かれたのだ。そのとき、双子は涙でも流していたのだろうか? たまたまそれを目撃したミスター・スロウが、よくないことが起きると直観して彼らを連れ去ろうとした。おそらく誘拐騒動の真相はこんなところだろう。


「それにしてもバクスターさん、あなたが子供たちから信頼と尊敬を集めていることには驚かされるよ。……君たち双子がパディントン駅に向かったのは、自分たちがいないと仲間が――ジョエルとバクスター氏が困ると分かっていたからだね?」


 リョウが言うと、J・J・ブラザーズはこくこくとうなずいた。

 バクスター清掃社の仲間を助けたい一心で、彼らは警察官のもとから逃げ出したのだ。もちろん警察に助けを求めるわけにはいかなかった。そんなことをすれば、バクスター氏まで逮捕されてしまうから。


「これは推測だが……。バクスターさん、あなたはこちらの教授から招待状を受け取ったのではないかな。奥方を亡くして弱り切っているところに、つけ込まれたのでは? 聞くところによれば、あなたの会社では子供たちに煙突掃除をさせていたというじゃないか。どんなに安全に配慮していても、違法な働かせ方であることは揺るがしがたい。その点を突かれて脅迫されたら、人身売買を突っぱねることもできなかった。違うかな?」


 バクスターは目を閉じた。しわの刻まれた目尻から、涙が一粒滑り落ちる。


「まったく……。何もかもその通りだ。私が愚かだった――」


 リョウは得意げな笑みを浮かべた。


「私の計算に狂いはなかったようだね。つまり、教授……あなたは最初からバクスター清掃社の子供を狙っていたのだな」


 相手も微笑を返す。


「さよう。浮浪児は掃いて捨てるほどいるが、あの会社の子供たちはきちんと大人の言いつけを守るように教育されている。高く売れると踏んだのだよ」


「高く売れる、か……。金のためなら何をしてもいいとでも?」


「もちろんだ。会計探偵さん、君も金は好きだろう」


「好きだ。だが、人の血を吸った金は手にしたくない」


 教授は頭を横に振った。「やれやれ」と言いたげな仕草。


「君は若いな。この世に、人の血を吸っていない金など存在しない。いずれにせよ君とはここでお別れだ。ブラック・ジャックで大勝した方法を聞けないのは残念だが――」


 教授が目配せすると、見張りの青年はすぐさま反応した。さらに一歩近づき、リョウの後頭部にリボルバーを突きつける。


「――動くな!!」


 ぼくは叫んだ。


「この距離で撃てば、君の首から上はミンチになるぞ!!」


 自分でも驚くほどドスのきいた声が出た。二連式の散弾銃で、相手のこめかみに狙いをつける。青年は顔色一つ変えず、じろりとこちらを睨んだ。こんなこともあろうかと、わざわざ楽器用に間違えられやすいケースを用意したのだ。リョウに注意を向けていたせいで、誰も、ぼくが猟銃を取り出そうとしていることに気付かなかった。

ひっ、とバクスターが小さな悲鳴を上げる。

 他の男たちもにわかに慌て始めた。


「ま、待ってくれ」


「人殺しなんて勘弁してくれよ?」


「私はただ、トランプをしにきただけなんだが……」


 青ざめた顔で、口々に言う。どうやら全員が全員、教授の味方というわけではないらしい。一言ずつ噛み潰すように、ぼくは言った。


「その人から、銃を、どけろ」


 青年は答えず、教授に視線を向ける。


「はあ、なんたることだ……」


 教授はいらだたしげにくちびるを歪めた。


「今日は厄日だな、こうもビジネスを邪魔されるとは」


「ビジネスだって!?」ぼくは吠えた。「ビジネスというのは誰かを喜ばせるためのものだろう。あなたがやっているのは、断じてビジネスじゃない。ただの薄汚い犯罪じゃないか!!」


「君がどう思おうと勝手だよ。しかし、困ったことになったね。その青年は、私のためならいつでも命を捨てる覚悟ができている。今だって、命令一つで君のご友人を殺してくれるだろう」


「そんなことをしてみろ――」


「まあ、落ち着け。彼を育てるにはそれなりに金がかかったんだ。今、彼を失うことは私にとって大損だ。その散弾銃で撃たれるのは避けたい」


 教授の頬はぴくぴくと引きつっていた。

 男たちと三人の少年は、固唾を飲んでことの成り行きを見守っている。

 ガタン、ゴトンというレールの音。


「ヒットだ」


 口を開いたのは、リョウだった。


「何だと?」


「ヒットだと言ったんだ。そちらの疑問には答えたはずだ。プレイを再開してくれないか。約束は果たしてほしい」


「……本気で言っているのかね?」


「冗談なものか。さあ、カードを引いてくれ」


 冷たい眼光でリョウを睨みながら、教授は山札のいちばん上をめくった。

スペードのエース。リョウの手元で二十一が完成する。

 教授は声を上げて笑った。


「ふ、ふふふ……。ははは! はーっはっはっ!!」

 彼は身をよじる。


「君はなかなか見どころのある人間のようだね、会計探偵くん!」


「まだゲームは終わっていない」


「いいや、かまわんさ。私はここで降りるよ。君の剛胆さに免じて、勝ちは譲ろう」


 カードをテーブルに放り出すと、教授はズボンのポケットに手を入れた。一瞬、空気が凍り付く。しかし彼が取り出したのは、大ぶりな葉巻の包みのようなものだった。


「それは……!?」


 リョウが絶句する。


「君が着席するときに、椅子を引いてご案内したのはこの私だ。そのときに拝借したんだよ。ずいぶん変わったものをお持ちのお客さんだと訝しんだのだが――」


「スリ取ったというのか! この私から!?」


 あからさまに狼狽するリョウを尻目に、教授は続けた。


「まさか私のビジネスを潰されることになるとはね。あのとき始末しておくべきだった」


 猟銃を握った手が、ぬるぬると滑る。構え直しつつ、ぼくは言った。


「あと二十分もすれば次の駅に着く。異変に気付いた駅員が警察を呼ぶだろう。あなたたちはおしまいだよ、教授」


「さて、どうかな」彼はクックッと笑った。「そうだ、会計探偵くん。君は『なぜ高級列車で賭け事をするのか分からない』と言っていたね。たしかに、貴族連中の上品なトランプ遊びとはワケが違う。違法なものを賭けて遊ぶなら、路地裏の地下室とか、町外れの廃墟とか、そういう場所のほうがおあつらえ向きだろう。だが、そういう場所には致命的な欠点があるのだよ。分かるかね――?」


 教授はもう片方のポケットからマッチを出すと、素早く発煙筒に火をつけた。


「いざというときの逃げ場がないという欠点さ」


 彼は発煙筒を床に叩き付けた。中身の薬剤が飛び散り、車内に煙が充満する。あっという間に視界を奪われた。

 不快なにおいが口と喉を満たし、ぼくは激しく咳き込んだ。


「ホームズ! どこだ!!」


「――ワトソン!!」


 リョウの細い腕を探り当てて、引き寄せる。

 よかった、彼女は無事だ!


「くそっ、私としたことが! こんなの計算違いだ!!」


 煙が薄らいだときには、教授も青年も消えていた。

 彼らは走行中の列車から、綺麗さっぱり逃げ去ってみせたのだ。


「ジョン! ジャック! 怪我はないな!」


「「はい!」」


「ジョエル、どうか許しておくれ……」


「親方こそ、ご無事でよかったです」


 バクスター氏は涙ながらに、少年たちの縛(いまし)めを解いていた。彼らは抱き合っておいおいと泣いた。

 その背後から、リョウが歩み寄る。


「さてと、バクスターさん。あなたの会社についてご相談したい」


「……覚悟はできています。私の心が弱いばかりに、罪を犯してしまいました。どうぞ、いつでも警察に――」


「いいや、通報などしないさ」


「へ?」


「私はある種の功利主義者でね。あなたを警察に突き出すことで守られる社会の秩序と、あなたの会社がなくなることでロンドンの街が被る損失とを比較検討してみたんだ」


「は、はあ?」


「計算の結果、ぜひともあなたの会社には存続して欲しいという答えが出た」


「……!?」


 バクスター氏は雷に打たれたように硬直した。彼の手を、少年たちが固く握りしめる。


「ただ、その代わりと言ってはなんだが……。一つ頼みがある」


「なんでしょうか! ホームズさんとおっしゃいましたか? あなたの頼みであれば、どんなことでもうかがいます!!」


「ベイカー街付近をうろつき回っている身なりの汚い男がいるんだ。恵まれない生まれのためにそんな暮らしを余儀なくされているが、本当は気が優しくて力持ち。今は不運にも、無実の罪で警察に拘束されている。……彼の身元を引き受けて、あなたの会社で雇ってはもらえないだろうか?」

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