其ノ二






「――ッ!」


 風が通り抜けるのを頬が感じる。

 大我マナのおかげで普段以上の力が出るおかげで、体は不思議に思えるほど軽い。一人女を背中に背負っているとは思えないほどの軽さだ。

 不安定な足場にも拘らず、体は跳ねるように前に進み、時々越えなければいけない場所を飛び越える為に力む時も、着地の時も、少しも痛みを感じない。

 ただ足の裏に感じる衝撃を、楽しんですらいられる。

 少しだけ周囲を見渡す。

 幸い、まだ追いかけてくる人間はいないし、待ち伏せしている人間が出てくる気配もない。

 いきなりこんな所﹅﹅﹅﹅を走るなんて敵は予想していなかったんだろう。いや、そもそも予想できるほうがおかしい。


「おい、そっちは大丈夫か?」


 声をかけると、俗に言うお姫様だっこで抱え込んでいる女が頷くのが視界に入って、安心して前を向く。

 彼女を走らせなきゃいけなくなるって時は、ソレこそ相当切羽詰っている時だ。そうでない限り、ここを走らせる訳には行かないだろう。




 こんな、屋根伝いを。




 最初は当然、群衆の中に紛れて大通りを進んでいた。そうすれば人に紛れる事が出来るし、何より目的地は同じなんだ。ゆっくりであっても真っ直ぐ進める。

 勿論それによって、広場に、戴冠式の壇上に着く時間そのものは遅くなってしまうだろう。だけどこれなら、襲われる心配はない。


 しかし必ず止まる瞬間がやってくる。


 広場が人でいっぱいになれば。戴冠式が始まってしまえば、周囲の流れは停滞気味になり、終いには完全に止まってしまう。その時は当然トウヤ達の足も止まってしまう事になる。

 そうなるほんの少し前、わき道に逸れなければ動く事すら儘ならなくなる前に、トウヤはコイツを連れて屋根によじ登って、そして今走っている。

 《眷属》としての身体能力があってこそ実現出来る方法だ。普通の人間だったら女一人抱えて屋根に上って走るなんて事は出来ない。

 だから『群体蟻アンツ』にも予想出来ない。

 しかし走り始めて既に十分ほど。この広い王都の中でどんなに身体能力があったとしても、屋根伝いで広場まで辿り着くのは、あと四十分ほどは掛かってしまうだろう。

 何より、ここで襲われでもしたらそれ以上、


「――ツッ!?」


 そう思った瞬間、耳のすぐ横を鋭い風切り音が通過する。その数瞬遅れて、さっきまで足を置いていた屋根の瓦が割れる音がした。


「うへぇ、予想以上に早いッ」


 周囲を見渡してみると、薄汚れた黒衣を着た人間が屋根の上を走っている。オレの速度ほどじゃないが、それでも普通の人間より鍛えられたその脚が出す速度は、相当だと言えるだろう。

 おまけに正面を見れば、トウヤの進路を塞ぐように、わらわらと同じ服装の人間が屋根の上に上がってくるのが見える。

 その姿は、その名の通り、黒い蟻達が大量に枝葉に上るように、大勢。


「――手を放す、しっかり捕まってろよ!」


 今の身体能力であれば、女一人片腕で抱き上げる位わけはないが、相手はそうも言っていられない。

 そう事前に言い渡すと、オレは金属篭手ガントレットを着けている腕を伸ばし、アレクセイに言われた通り親指を握り込んだ。

 それだけで、いつもは刃として生み出される魔力物質エーテルが、盾の形を持って顕現する。

 展開された瞬間、正面を塞いでいる『群体蟻』達が放った矢が、そのラウンドシールドとぶつかりあった。


 魔力物質で作られた、それそのものが既に武器である盾。

 木と、鉄の鏃で作られた矢。


 どちらのほうが強力だったかといえば、言わなくても分かるだろう。矢はその威力を発揮する事無く、逆に衝撃を喰らったかのように弾き飛ばされた。


「うっしゃ!」


 歓声を上げながらも、足は止めない。広場に向かい続ける。


「ッ、止まれ!」


 前方から、四人組の『群体蟻』が襲い掛かってくる。

 手には黒い刀身を持ったナイフを構え、その人数と体格を活かすように、オレ達をそのまま押しつぶそうと同時に飛び掛ってきた。

 それを、


「うるせぇ、邪魔だ!!」


 盾と共に突進し、そのまま吹き飛ばした。


「――ッ!?」


 何をされたのだろうか。

 覆面の奥から見える目には、そんな言葉が映りこんでいる。

 女一人を抱えて走っている男一人と、訓練を受けた自分達四人。それで押し負ける事はあり得ない。そう思っている事がはっきりと分かる目だ。


 悪いな。


 口には出さず言った。

 ただの傭兵だったら、そりゃあそうだろうな。

 でも生憎――こっちは、《眷属》なんだよ。そう簡単にはやられないんだ。


「うっしゃ、このまま行けば、結構早い段階で広場に着く。準備してお、」


 胸の中でしがみついている彼女にそういおうとした瞬間、背中から再び鋭い風切り音が聞こえてきた。

 今度のは、先ほどの矢とは違う。

 普通の弓とは思えないほど早く、まるで飛び下がってくる隼のように鋭いそれ。それは気づいた時には、もう遅かった。

 真っ直ぐ実直にオレの元に飛んできて、




 トウヤの横合いから襲い掛かろうとした『群体蟻』を吹き飛ばしていた。




 そもそも、矢ですらなかったのかもしれない。

 視界の端に映ったそれは、トウヤの盾と同じく魔力物質の燐光を帯びていた。


「――ハッ! おせぇよ!!」


 背中を護られる感覚に安堵しながら、思わず叫んでいた。






「……聞こえないけど、」


 何か、とてつもなく理不尽な事を言われた気がする。

 ウーラチカはそう思いながら、故郷の森でも良く見かけた蟻のように見える敵に魔力物質で生み出された矢を放ち、トウヤの進行を手助けしていた。


 ――自分は今回、余り役に立っていなかった。


 なにやらサシャが難しい事を考えていた事は知っている。

 トウヤは誰かを守りながら旅をしている事は知っている。

 そんな状況で自分に出来る事はそれほど多くない事を、一般的な知識に乏しいウーラチカでも、理解していた。

 古き唄を知っている事、森を歩く事、そして弓を射る事。自分に出来る事と言えば、所詮その程度だと。

 だがそこで悲観して立ち止まる訳には行かない。

 出来る事が少ないのであれば、精一杯出来る事をしよう。

 そう決めたウーラチカは、いつも通り表情一つ変えずに、矢を放ち続ける。



 ――その距離をトウヤの世界の距離単位に直すとするならば、約一キロ。



 弓でその威力を発揮する事は難しく、望遠鏡などで見ていないウーラチカにはそもそも、敵を視認する事が出来ないはずだった。

 しかし、大我の供給に拠る身体能力強化と、彼の愛弓|矢要らずの弓《フェリル・ノート》の為せる技だった。

 出来る事は少なくとも、彼のその〝出来る〟は、《眷属》になることによって既に英雄の位階にまで押し上げられていた。







 王城の前に設けられた舞台は、豪華絢爛なものだった。

 王家の紋章たる大鷲の旗印を中心に有力貴族達の旗印が風に揺れている。

 平民達が立ち見で見ている場所から一段高い場所に貴族の席が設けられ、更に一段高い所には、この国の重要な地位に立っている人間が中央を見守るように、両脇に控えている。

 そしてもう一段上に、戴冠を迎える本人は儀礼用の衣装であるローブを着て、フードを目深に被り、カリの玉座の上に座っている。

 それと並ぶようにサシャと、背後に控える『七節擬スティック』の替え玉は戴冠を執り行う『唯一教会』の司祭とともに立っていた。

 既に戴冠式という大きなセレモニーは始まってしまったわけだが、メインイベントであるエリザベスの戴冠までには、まだ幾許かの猶予が残されていた。


 まずは数々の貴族から送られてくる祝いの品を一つ一つ姫の前に提示。


 それから《勇者》であるサシャと司祭の言葉、次にこの国でも重要な貴族、あるいはそのような役職に就いている人間の祝辞が述べられ、そしてようやく、姫の戴冠と演説へと続く。

 戴冠式は、もう貴族や官僚の挨拶にまで進んでいた。

 贈り物が想像していた数より少なかった、司祭の言葉が思いのほか簡潔に住んでしまったこともあるが、これでもサシャやギーヴが相当長引かせているのだ。

 そもそも余り長い式典ではないこの戴冠式という場では、ココまでが限界だった。


(――遅い)


 美辞麗句としか言いようのない官僚の祝辞を聞き流しながら、サシャは心の中で焦っていた。

 本来ならもう少し早く到着していてもおかしくはない。自分の援護、ウーラチカの援護を受けているトウヤの身体能力であれば、女性を一人連れているとは言え可能なはず。


(王都での襲撃は予想内ではあるけど、予想出来ていなかったのは、その数なのかも)


 『七節擬』の存在が露呈すればギーヴ、ひいては後押しされている姫自体に厄介な煙が立つため、彼らをトウヤの支援にまわす事はしなかった。

 だが予想以上に時間がかかっている事を考えれば、もしかしたらまわしておくべきだったのかもしれない。


(……ううん、焦っちゃ駄目)


 サシャは頭の中に浮かんだそんな不安を、また払いのける。

 ウーラチカならば、トウヤならば。きっと上手くやってくれるはずだ。そう、自分が心から信頼している《眷族》達の事を考える。


「――続いて、民生議会議長、ランドルフ・オーレン様より祝辞を賜ります」


 司会を務める従者が声高らかにそう言うと、ギーヴの隣に悠々と座っていたオーレンが立ち上がり、中央に進み出た。

 上等なベルベットの衣装に身を包み、真新しいタイを絞めている男は、いつも通り人好きしそうな笑みを浮かべながら、まずは正面に立つサシャや司祭、そして戴冠する自分の未来の主人に向かって礼をする。


「――今日は、なんと素晴らしい日でしょう。まるでこの日を祝福しているような晴天に、私を含めた臣下一同、喜ばしく思います」


 そう言いながら、オーレンはもう一度礼をし、微笑む。


「先代の王が亡くなって、この国は足を止めてしまった。元々混迷していたこの国は変わろうとしていましたが、残念ながら先君の亡き後その変化も足を止め、時は逆行するようでした」


 その言葉に壇上に座っている数人の貴族達が、どこか気まずそうに身じろぎをするが、オーレンは意にも返さない。


「王座は空席のまま、もしやこのまま、何も変わらず終わってしまうのか。

 そう思っていた矢先――エリザベス姫が現れました」


 どこか役者染みた言葉は壇上に限らず、魔術で増大され広場中に木霊している。


「エリザベス姫は、きっとこの国を変えてくださる。亡き王の後を継ぎ、きっとよき名君になられる事でしょう。

 さすれば、この国はきっと変わる。民の暮らしは潤い、きっと世権会議の中でも、いいえ、大陸の中でも一番の国になりましょう!

 そう私は信じております!!」


 ――その場にいた人間には、その笑顔が、その喜びの声がどういうものか理解していた。

 それは、陶酔に近いものだと。

 気付いた者の大半、特に彼を指示している平民達は『姫の存在を本当に喜ばしく思っているのだ』と、同じように喜びの笑みを浮かべている。

 壇上に上がっている貴族達は内心釈然とせず『調子に乗って』とどこか冷え切った目で見ているものが大半だった。

 彼の言葉を本当の意味で冷静に聞いていたのは、ギーヴとサシャ、共に立っている司祭……そしてその祝辞を受けている人物だろう。


「今こそ歴史は変わる。大仰に聞こえるかもしれませんが、私はそう言っても過言ではないと思っております。

 境姫が戴冠し王位に就かれれば、きっとこの国の歴史に新たな一文を加えてくださると、そう思っております、」


 そこで、オーレンは笑みを深め、仮の玉座に座る彼女を見る。

 誰が気付いただろうか。




「――もっとも、今この場にいる姫が本物であるならば、ですが」




 その目に一瞬、野獣の我欲が浮かんだ事を。




 そのたった一言が、壇上のみならず広場全体を騒然とさせる。


「な、何を言っているのだオーレン議長!」

「気でも狂われたのか!?」


 壇上に座っていた貴族や官僚は、立ち上がり罵倒する者、呆然と周囲を見渡す者、隣同士でコソコソ話し合う者、様々に反応する中、


「なんだ、何を言ってるんだ?」

「本物の姫様だったら目の前にいるじゃないか」

「――まさか、偽物なのか?」

「そんなの嘘だ!」

「で、でもオーレン議長が、」

「俺達の代表がそんな嘘吐くはずない、」


 オーレンを好意的に見ている平民達は、信じて良いのか、疑って良いのかも分からず、不安げに話し合うだけだった。

 国の中心は、一瞬で火が着いた鼠の巣のような喧騒に包まれていた。


「……どのような根拠があって、オーレン議長はそう仰っているのですかな?」


 この場でも数人しかいなかった、オーレンの言葉に動揺しなかった者の一人であるギーヴ・フラグレントは、厳格そうな姿勢を崩さず、立ち上がって発言した。


「いえ、もし仮にそうであったとして、貴方は誰からそのような情報を?」

「申し訳ありませんが、情報源は明かさないのがこのような事での鉄則でしょう?」


 オーレンもまた、余裕釈然とした笑みを崩そうとはしなかった。

 彼はゆっくりと振り返り、貴族ではなく平民たちに向かって大きな声で言う。


「そもそも、姫は既にこの王都には居られない! 何者かによって拉致され、この場に姫として座っている者は、ギーヴ・フラグレント侯爵が仕立てた替え玉だ!

 全ては、貴族たちが実権を握るために仕掛けられた、罠としか言いようがない!」


 オーレンの言葉に、さらにざわめきは大きくなる。

 困惑、驚愕、疑念。

 そのようなものが、広場中に渦巻く。


「オーレン議長。これは王家侮辱罪に当たる事を良く分かって仰っておられるのか?」


 ギーヴの責めるような言葉にも、オーレンは引かない。


「分かっております。しかし私も確信を持って言っているつもりですし……何よりこの疑念は、証明されなければいけない。

 私の為ではなく――民の為に!」


 その言葉が引き金になった訳ではない。

 元々平民達の中に渦巻いていた不平不満は、もはや限界にまで来ていた。

 もし姫が王座に就けば自分達の生活を変えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を持っていた彼らの心に、そんな疑問を投げかけられれば、

 当然平民達のそれは、歓声から怒号に変わる。



「……証明しろ、」



 群衆の中の一人が言った。



「本当の姫様だったら、証明出来るだろう……ッ」



 歯を食いしばるが如く放たれた言葉は、その一石は波紋を呼ぶ。


「――そうだ」

「本物の姫様だったら、顔を隠さなくても、」

「自分の口で違うと言えるはずだ、」

「本物の姫様だったら、」


 ――その言葉は、もはや毒だ。

 どんなに言い募った所で、王家の短剣を振りかざし『私が本物のエリザベス姫だ』と叫んだところで証明にはなり得ない。

 そもそも、証明するべきは告発をしたオーレンである筈で、ギーヴや姫にとっては関係のない事だ。

 ――だがもはや数千人、もしかすればそれ以上集まっている平民達の怒りは、怒号は、そんな理屈で止まるはずもない。


「証明しろ、」

「証明しろ、」

「証明しろ、証明しろ、証明しろ!」




「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」「証明しろ!」




 一つ一つは小さな音だった。羽虫の羽ばたきすらも大きく聞こえるほど、小さなそれは、一つ一つが寄り集まり、悪意に束ねられ、いまや嵐の雷鳴よりなお大きく轟く。

 警備に当たっていた兵士の壁は押され、今にも決壊し、壇上に人が流れ込まんばかり。

 これを止めるには、誰かの力強い言葉か、血を流す槍が必要だった。


 ――そんな場所で、いったい誰が気付いただろうか。


 偽物だと謗られ、証明しろと責められている本人が立ち上がったのを。

 彼女がゆっくりと、




 その口を、開いた事を。





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