其ノ三
光沢のある黒髪、細められた愛らしい栗色の目、細すぎず、だが太過ぎもしない女性らしい肢体を、王族が着るに相応しい豪華なドレスで包んでいる。
ハイエッタ・フラグレント・シルヴァリア。ヘンリー・三世の王妃にして、今や形式上太后の座に座っている、この国で二番目に偉い人物だ。
対外的には。
王族以外の女性に政治に関わる権利を与えていないこの国では、象徴以外の役割などない。彼女は王族に輿入れしたものの、王族そのものになってはいないのだから。
これで彼女とヘンリー・三世の子供が即位していれば話は違ったが——残念ながら、それは夢物語でしかなかった。
(にしても、兄妹でここまで似ていないとはね……)
まだ熱が冷めない紅茶を、火傷しないようにゆっくり飲みながら、サシャは太后を観察する。
ミドルネームの通り、彼女は枢密院院長であるギーヴ・フラグレントの妹御に当たる。しかしあの爬虫類めいた顔をしている男が兄だとは想像出来ないぐらい、彼女は同性である自分から見ても美しい。
「兄とはあまり似ていないでしょう?」
「ッ、い、いえ、けしてそのような事は、」
自分の心の内を言い当てられて動揺するサシャに、ハイエッタ太后は女性らしく、大量にフリルがあしらわれた扇で口元に浮かんだ笑みを隠す。
「そんなに動揺しなくても構いません。よく言われる事です。口さがない人間は『どちらかが妾腹の腹違いだ』とか『娼婦を妹に仕立てて陛下の機嫌を取っている』なんて言います。
でもこれでも正真正銘兄妹なんですのよ。血の神秘と言いましょうか、兄は父に、私は母によく似てしまったので」
「は、はぁ、そうですか」
冗談と受け取って笑い飛ばせば良いのか、それとも神妙な顔をすれば良いのか分からず、サシャは曖昧な笑みで頷く。
読めない人物だ。もっとも、それも道理な話。
女性であるとはいえ、彼女も貴族の大家に生まれた女性。政治の学がなかったとしても、本心を隠すという習性は、もはや貴族という生き物の本能と言っても良いだろう。
しかし、それではダメなのだ。
彼女には、これから本心で話さなければいけないのだから。
「それで? わざわざ私のような人間に《勇者》様直々のご訪問。何か聞きたい事がお有りなのでしょう?」
「……ずいぶん率直な言い回しですね」
「そうですね。相手が貴族であれば、拙い策を弄しながらお話しする事になっていたでしょうが、サシャ様は《勇者》。この浅学の身で駆け引きなど、烏滸がましい話です」
先程からずっと崩れていない、まるで聖女のような笑みの中に、キラリと知性の光が灯るのを、サシャは見逃さなかった。
きっと目の前の女性は自分がなにを聞きたいか、なにを話してほしいのかと察しているのだろう。
察している上で「嘘は言わず知っている事を話します」と言っているようなものだ。
それがきっと、彼女の生家であるフラグレント家、ひいてはギーヴ・フラグレントの役に立つ事なのだろうと思って。
サシャもそういう駆け引きが上手い人間ではないが、それでも分かる程、彼女の態度は明け透けとしているように思える。
「……では早速。
失礼ですが、陛下は殿下とはお会いになりましたでしょうか? なにやら体調が悪いという事で、私はまだお会いしていないのです」
サシャの言葉に、ハイエッタは首を軽く振る。
「いいえ、私も御目通りが叶っておりません。いきなり自分が王位継承権一位などと言われ、きっと心労が祟ったのでしょう」
彼女の瞳の奥に、心配げな色合いが見える。
嘘を言っているようには思えなかった。
それが、どうしても不思議でならなかった。
「……失礼な物言いになって申し訳ないのですが、殿下はヘンリー・三世王の、隠し子です」
「ええ、諸々の事情は、兄上から聞いています」
「そのお方が王位につかれるというのは、陛下にとっては非常に辛い事なのではないですか?」
政治的な結婚だったとしても、王妃はヘンリー・三世の妻だ。その事実は変わらない。愛人がいたという事実だけでも衝撃なのに、その子供が王位に就くというのを、容認できるのだろうか。
その言葉とは裏腹に、ハイエッタは首を振る。
「いいえ、あり得ません」
そうではない、とも。
辛くはない、とも言わない。
あり得ないという、明確な全否定。
「失礼ですが、《勇者》様は貴族などの生まれではなかったのですよね?」
「……ええ、そうです」
「ならば、
「………………」
――貴族の中でも、後継者問題は重要なものだ。
だがどんな時代、どんな場所であっても、子供が産めない女というのは往々にして存在する。だから少しでも後継者を、一族の血を絶やさぬように、貴族は愛人や側室を設け、子を少しでも多く作る。
結果正妻の子供ではない子供が当主の座に収まる話も、珍しい事ではない。
――サシャは、そういうものは価値観の問題だと思っていた。価値観とは今いる環境や常識によって形成され、状況によっては変化するものだと。
それを、ハイエッタは慈母のような笑顔を浮かべながら、それでも強い言葉で否定した。
そんな生温い話ではないのだと。
彼女たち貴族にとっては、生態と同じ。水の中に生きている生き物が鰓呼吸をするのが絶対であり、当たり前である事と同じであると証明するように。
良い悪いのレベルではなく、そういう事だ。
「ですから、愛人を作った事も、子を成した事も、その子が王座に就く事も。私は一向に悲しくはない。むしろ、王の血が脈々と受け継がれていく事は、とても喜ばしい事です」
家の存続こそ誉れとする。
何処にでもいる、高貴の象徴。まごう事無き貴族の姿がそこにはあった。
「無礼な発言を、お許し願えますか、陛下」
サシャの言葉に、相変わらず笑みは崩れない。
「構いません。そのように生きていない人間に理解出来るものとも思っていませんから……ですがそうですね、悲しむ事があるとしたら、あの子を王座に就かせなければいけない、という事でしょうか?」
「? それはどういう?」
少し言うのを憚られるように躊躇しながら、ハイエッタは悲しみの乗った言葉を呟く。
「……きっと陛下も、そして愛人の方も、最初からあの子を王位に就ける気はなかったのでしょう。出来れば、小さな爵位を与え、ただただ平穏な日常を送ってもらいたかった。
あのお方は、誰よりも王位の重責を理解している方でした。改革を推し進めるのが国の為ではありますが、それでも、兄や民政議会に板挟みにされ、辛い状況でしたから」
この国で、いや、世界どの国であっても、王という存在に共感出来る人間はいないだろう。たった一人で国を背負い、良い方向に導いていかなければいけない。
その良い方向は、現段階で〝良い〟と受け捉える事ばかりではない。将来にある良い結果を想定し、今は辛い選択をしなければいけない時も、あるのだろう。
それは《勇者》もそうだ。
決して善悪で割り切れる部分だけで生きていけるわけではないのだ。
……だがハイエッタの言葉で、腑に落ちた点はある。
エリザベスという最愛の娘を必死で隠したのは、彼女を王の重責から逃がす為だった。母親の氏素性は聞かされていないが、隠し続けるという事は彼女を支える後ろ盾が無かったのだろう。
王は一人で王にはなれない。
有力貴族との縁を作り、その権力と地位を背景に動かなければいけない時が必ずある。何より、貴族は自分達に都合が悪い王であったなら、反乱や独立をチラつかせる。
王を命令系統の頂点にする王国軍がないこの国では、武力制圧は困難。つまり最初から後ろ盾という名の貴族の支援は必要になってくる。
ヘンリー・三世にとってはそれがフレグラント院長で——、
「……すいません、失礼ついでと言っては失礼の上塗りになるかもしれませんが、晩年の王陛下とフラグレント公爵の仲を、良ければお聴きしたいのですが?」
「陛下と兄の、ですか?」
サシャの言葉に、ハイエッタは首を傾げる。
「そのような事が、今の《勇者》様には重要なのですか?」
「ええ、重要です」
少なくとも、彼女への質問の中で最も重要と言っても、過言ではない。
ヘンリー・三世は、フレグラント家当主の妹であるハイエッタとの結婚で、この国で最も強力な後ろ盾を得たと言っても過言ではないだろう。
後ろ盾に逆らう事が出来る人間はそうはいないはずだ。
しかし実際はどうだ?
王は平民重視の国政を行い、貴族に不利になる法案を次々と生み出している。フレグラント公爵からとってみれば、それは飼い犬に手を噛まれるような気分だろう。
そんな相手に対して、思う所が無かったのかと。
「そうですわね……表立って仲が悪いという事はなかったとお思います。兄は融通が効かない人なので、公式の場ではいくら義弟とはいえ臣下の礼を崩しませんでしたし。
それ以外の場では、時折二人で話をなさっていたようですけど」
「どのような事をお話しされていたのですか?」
「さぁ、政治に疎い私は、席を外しておりましたので……何やら時々、声を荒げるような事もあったようですが、」
「……そうですか、ありがとうございます」
平静を装いながら、ちょうど良い温度になったお茶を飲む。
目の前の女性は貴族の子女。フレグラント公爵の不利になるような発言はしないだろう。
だとすれば、今聞いた話は「フレグラント公爵に落ち度はない」か、「全くの出鱈目」なのか……そこら辺は、ウーラチカの情報収集で何かしら分かってくるだろう。
何せ貴族の人払いに、侍従や召使いは含まれないのだから。
その後のお茶会は、極めて平穏そのもの。ハイエッタは貴族出身の太妃とは思えない程隔たりもなく、こちらに親しく接してくれ、サシャもどこか気持ちよく茶会を終える事が出来た。
王妃、そして太妃という立場に立っていても、同じ目線で話が出来る、聡明で優しい人物なのだろう。
もっとも、だからこそ油断して話を鵜呑みにする事は出来ない。
彼女がもしあの笑顔の奥底に嫉妬を隠しているのだとすれば、暗殺者の二、三人でも雇って王女の追い落としを企む事だろう。そしてそれを後押しするのは、勿論フレグラント公爵。
……本職の
「サシャ、お茶会終わった?」
脇の通路から足音なく現れたのは、相変わらずポケットからはみ出る程のお菓子を貰っているウーラチカだ。
「ええ、なんとか無事にね」
「良かった。でも、
「出たけど、貴方そんなに沢山貰っているのに、まだお菓子が欲しいの?」
「お茶菓子は貰ってない」
「そういう意味でもなかったんだけどねぇ……それで、何かいい情報は拾えた?」
サシャの呆れの言葉にもなんとも思っていないのか、表情を変えずに頷く。
「うん、色々。お姫様、急に大人しいって。言葉はきついけど、ここ何日かは大人しい……やっぱり、違い人?」
「まぁ、そう考えるのが普通でしょうね」
怪しまれないように同じ行動をした所で、どこか違いはあるものだ。
元々逆らうような行動をしていた王女の真似をして厳しくしても、重要な所で暴れてはいけない。大人しくいう事を聞く替え玉にした、意味がなくなるから。
侍従達は主人の機微に敏感でなければいけないのだから、それを一番強く感じるのは彼女達だろう。
そんな侍従達をして少し「変わった」程度で済んでいるという事は、外見的には相当似ているのだろう。
おまけにそれなりに演技が出来る人間……そんな人材を探すのは、短時間では難しい。やはり事前に準備していたというのが、自然だろう。
「それで、フレグラント公爵の話とかはない? 何か変わった動きがあったとか」
ウーラチカはその言葉に、少し頭を傾げながら、
「…………悪い人じゃない、と思う」
どこか言いづらそうに、だがはっきりと言った。
「……根拠は?」
「皆、確かに悪く言う。目付きが気持ち悪いとか、言葉が厳しいとか、あの年齢でけっこんしないのは、だんしょくの気があるとか、よく分からないけど、悪い事ばっかり」
……最後のは聞きたくなかった。
「……なのに、皆、悪く言った最後に、〝でも〟がついた」
「でも?」
「うん、〝でも〟。
〝でも〟、お茶をこぼした時に心配してくれた。
〝でも〟、よく出来ていた時は褒めてくれた。
〝でも〟、小さな子供達に優しかった。
〝でも〟、人の事を良く見ていてくれる……って」
「………………」
「だから、ウー、ふらぐれんと公爵は、悪い人、思えない」
「……そう」
返せた返事はそれだけだった。
今はフラグレント公爵が人間的に良い人なのかどうかのかを探っているわけではない。
フラグレント公爵が政治的に暗躍しているのか、エリザベスを現段階で危険に晒している張本人なのかを知りたいだけだった。
それ以外の情報は全て無駄、切り捨てて考える——。
(――無理ね)
サシャは、頭の中に湧き上がった
冷静に事実だけを精査し、見極める。
それでは先代まで続いた《勇者》と何も変わらない。それでは誰も〝救われない〟。
それがどんなに楽だとしても、心に痛みを感じずに済む方法だったとしても、今、《勇者》として此処にいるサンシャイン・ロマネスが一番選んではいけない選択肢だ。
そういう人間的な部分も含め、出来るだけ悲しみを少なくする。この鬱屈とした物語をハッピーエンドに変えるには、単純に考えてはいけない。
「うん、だから、変だなぁって思った事あるって、王様付きの侍従さん、言ってた」
ウーラチカの言葉に、思考が止まる。
「それはどんな事?」
「王様が亡くなる何日か前に、王様の部屋で王様と、そのふらぐれんと公爵が、喧嘩してたって」
――喧嘩、
『声を荒げることもあったようですが』
随分優しい言い回しになったものだ。
「どんな内容かは分かる?」
「部屋すぐ出たから分からなかったって。でも、ふらぐれんと公爵、言ってたって。
『私は貴族の義務を果たす』って」
貴族の義務。
「……何を果す気でいるのかしら」
サシャの言葉は自分が想像した以上に小さく、言葉はすぐに消えていった。
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