本当に純粋なもの
「ビストロ 本当に純粋なもの」
そう書かれた小さな看板をドアの横に掲げただけの、入りづらいお店だった。
通りがかった私が足を踏み入れたのは、行きつけのワインバーで摂取したアルコールが、作家志望のOLとしての好奇心を後押ししたからだ。
薄暗い店内に、テーブル席がふたつと、短いカウンター席。テーブルはすでに埋まっていて、私はカウンターに導かれた。メニュー表は置いていない。
シャツにエプロンの青年がやってきた。
「では、料理をお持ちしてよろしいですか」
そういうお店はある。ひとつの品、ひとつのコース料理しか出さない方針の。しかし、内容を伝えず、値段も提示しないのか。
私は正直に、小声でお財布の中身を告げて「足りますか」と訊いた。
「値段はお客さまに決めていただきます」と返ってきた。
とことんそういうノリですか。ちょっと面倒な気分になってきたけど、何が出てくるのか見届けたい気持ちが勝った。素晴らしくても酷くても、小説か、友だちとの雑談のネタにはなる。
二分も待っていないと思う。シェフの青年が料理を運んできて、私の前に置いた。
浅いシチュー皿のような食器に、透明の液体が満たされている。色はない。匂いもない。具材やスパイスの類も入っていない。これが、料理。私にはまるで――
「水です」と、シェフが言った。「あらゆる作為を廃した純粋な飲食物を味わっていただく店でございます」
調理そのものを無粋な作為とみなしておいて、ビストロを構える心境とは。しかし、まずは目の前の「料理」だ。
「なんの味つけもしていないんですか。塩をひとつまみとか、果汁を一滴とか」
「不純物はいっさい使用しておりません」
「どこかの山奥から汲んできた銘水とか?」
「そういった『物語』を有り難がられることを、オーナーはもっとも嫌いますので。お客さまには、ただの水に、無心に向き合っていただきたく存じます」
テーブル席の客が「ちょっと、あなた!」と、尖った声を上げた。
私と同じものを飲んだ結果、そういう声が出たらしい。青年は私に一礼して、客のもとに向かった。
「これが店のやり方というなら、それはおたくの自由ですよ」身なりのいい中年女性だ。「でも、私にはわからない。この水でスープでも作ってよ」
「どうしても、そういうつまらない料理のほうがよろしいのなら、ご注文にはお応えしますが」
「ええ、つまらない人間に合わせてちょうだい」
客の苛立ちも皮肉も意に介さず、青年はいったん食器を下げ、いくらも経たないうちに戻ってきた。皿からは湯気が上がっている。
運ばれた料理をスプーンで口にした中年女性は、激情を抑えた声で「コンソメスープね。ふつうの」と言った。
「お客さまのご希望に沿いました」それがシェフの返答だった。
客は席を立ち、名刺をテーブルに放り出した。
「お金は払いません。いいでしょう? 文句があればここに連絡してきなさい」
「評価はお客さまのものですから、こちらから否定はいたしません」
ドアを叩きつけるように閉めて、中年女性は店を後にした。
「すいません、お会計を」
もうひとつのテーブル席の客が手を上げた。青年と同年代の、丸い眼鏡をかけた男性だ。
「いやあ、面白い試みですねえ。『情報』を食べているだけのバカが多い時代、ひとは食というもののいったい何に価値を見いだすかという、これはもはや現代アートだなあ。『4分33秒』を思い出します」
滔々と語る客に、シェフは慇懃に「ありがとうございます」と頭を下げる。
「SNSに上げていいですかね」
「かまいません」
眼鏡の男性は一万円札を出してテーブルに置き、空の皿と紙幣をスマホで撮って、楽しそうに帰っていった。
客は私だけになった。
「やはり、ああいう方もいらっしゃいます」シェフの青年は苦痛に耐えるような表情を浮かべる。「先に出て行かれた方のほうが、ずっと純粋だ」
「でも、お金はもらうんですね」
「評価は受け入れます。望まない評価も」
過剰な額を「文脈」に支払われるのは、この店にとって、怒りの無銭飲食よりも堪えることらしい。
私は、自分の「料理」に目を落とした。
眼鏡の男性をちょっと滑稽に感じたのは、正直いって私にもあった。
でも――ひとがひとに何かを差し出すとき、それが完全な無意味であることは可能なのだろうか。
「こういうお店をやろうという意志も、不純物というなら、そうなのでは?」
「それは、おっしゃる通りです」
揚げ足取りみたいな私の言葉に、シェフはうなずいた。「本当に純粋なものに、こちらは漸近することしかできない。それは、決して辿り着けないことと同じです。だから――お客さまに、見せてほしいのです」
「傲慢ですね。客を試して、客を批評している」
「ですから、個人的な感情としては、こちらから報酬をお支払いしたいくらいなのです。しかし、それではお客さまの『仕事』になってしまう。純粋さが失われるので、出来かねる次第です」
このまま帰ろうかと、真剣に考えた。
しかし、私はスプーンを手に取った。
試されてやる。批評されてやろうじゃん。皿の中身をすくって、そっと口に含む。そんな私を、青年がじっと見つめる。
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