コードネームは何ですか


 耳に入ってきたその言葉が、私に向けられているとは思わなかったから、私はスマホの画面をシュッシュと指で撫で、文章を書き続けていた。

 世の中にはこれで長篇小説を書いてしまうひともいる。フリック入力だといくらでも筆が進むのに、キーボードだとすぐに止まってしまうそうだ。私は旧型の人間なので、これはただの下書き。家に帰ったらパソコンで推敲する。


「あの、コードネームは何ですか。教えてください」

「…………」


 ふたたび、聞こえた。私にいっているのかもしれない。

 顔を上げ、隣の席のひとをおそるおそる見やった。

 私と同じ歳ごろ――二十代半ばの男子だ。前髪を斜めに垂らし、アンダーリムの眼鏡をかけている。一秒で「やばい」と思わせるおかしなオーラは、出ていないけど。


「初めまして。ジョガッサ=エミュルジャビです」


「――あれですか、ハンドルネーム。ネットで知り合ったひとと初めて会うとか」

「三月二十八日、午後六時半から七時にかけて、札幌駅のこのコーヒーショップにいる、青いシャツを着た女性――指令に該当するのはあなたしかいません」

 私は辺りを見回した。午後六時四十分、ほぼ満席の店内に青シャツの女は私しかいない。なるほど。

 で?

「ひと違いです。ぜったいに」

「慎重なひとだ。さすがヂンゴロピャフ機構のエージェントです、新井あらい沙織さおりさん」

「なんで名前を!」

 悲鳴のような声が出た。周囲のざわめきが一瞬止む。

「コードネームを教えてください。僕の素性を疑っているんですか。間違いなく、ジョガッサ=エミュルジャビです。だって、こんなイカれた話をしてくる男は他にいませんよ」

「自覚あんのか」

 私はスマホをかばんに放りこんで席を立った。

 飲み屋で知り合ったひとかもしれない。私が酔っぱらって覚えていないだけで。それなら普通に話しかけてくればいいのだ。ばかじゃないの。

 待ち合わせしている友だちには、落ち着いてから、場所の変更を連絡するとして――


「沙織さん、どうしたの。お手洗いですか」

「早いなアコちゃん! 約束は七時だよね!」


 いつの間にか、森島もりしま章子あきこが私のそばにやって来ていた。ショートボブに丸眼鏡、カメラをたすき掛けにしている、いつもの格好だ。

「こちらの男性はお友だち?」

「ぜんぜん。まったく。ちっとも。行こう」

「待ってください、新井さん」

 ジョガなんとかが血相を変えて立ち上がった。名前を呼ぶな。

「『つっかえ棒』を指定された結節点に設置しないと、札幌が次元流動体に呑み込まれて虚数空間化してしまいます」

「そこのダイソーで買ってきたら」

「ふざけないでください」

 おまえが私にその言葉をぶつけてくるのか。

「デュシケナウ式固定装置の通称に決まっているでしょう。さあ、早く『つっかえ棒』を僕に。ヂンゴロピャフ機構も札幌を失うのは本意でないはずだ」

「私は『つっかえ棒』に関してなんの権限もないので、いちど機構のほうに問い合わせていただけますか。もう営業時間は終わってるけど」

 適当に応えて章子の手を引いたけど――

 章子は動かなかった。おかしな男と、じっと睨み合っている。

 あれ、この感じ。張りつめたきれいな横顔。まるで、世界のほんとうの形を見定めようとするような――


「失礼します」

 章子はカメラを手早く構え――画面を見るのでなく、ファインダーに眼鏡ごと目を当てて撮るのがこの子の流儀だ――シャッターを数回切った。


 私はあぜんとした。

 いつもは風景や静物ばかり撮る章子が、人間を! 私だってまだ撮ってもらったことがないんだぞ、この野郎! 場違いな嫉妬がむくむくと胸の裡に沸きあがる。

 しかし、ジョガ(略)の反応はこちらの想像を超えていた。目を見ひらき、唇をぶるぶると震わせる。

「そう来たか――指令そのものが僕へのトラップだったのだな。お前がゾドァゲミプ調停委員か」

「あなたがそう思うのなら、あなたにとってわたしはゾドァゲミプ調停委員なのだと思います。でも、わたしと沙織さんはあなたの認識する世界には生きていません」

 章子は淡々と言う。その謎の単語、よく一発で覚えられたな。

「覚えていろ。かならず雪辱を遂げてみせる。ジーク・ジオン!」

「最後! 雑! 創作した固有名詞の語感は統一しなよ! そこで世界観が壊れるでしょ! こら、待てって!」

 小説指導みたいな私の言葉には応えず、男は店外に駆け去っていった。


 にわかに私たちへ集まっていた注目がなくなった。安堵交じりのざわめきが蘇る。

 私と章子は顔を見合わせた。


「――沙織さん、なんだったのでしょう、あれ」

「わかんない。それより、なんであれを撮ったの、調停委員さん」

「そういえば、そうですね。『人間という感じがしなかった』ので、では、なんなのだろうという興味が」

「さりげなくコワいことをいわないでよ」

 ある意味、あの男より章子のほうが常軌を逸していたということだろう。気合勝ちだ。

「アコちゃん、その写真、私のスマホに転送して。Twitterに流して注意喚起する」

「いけません。あの男性にも日常生活があります。沙織さんのほうが悪人になってしまいますよ」

「あるの?」

「――たぶん」

「素性を隠して、ふつうに会社とか行ってんの? 彼女とかいんの?」

「わたしだってわかりません!」

 章子が珍しく声を荒げたので、この話題は終わりにした。

「じゃ、転送しなくていいから、見せて」

 私が求めると、章子はカメラの画面に男の写真を呼び出した。

 数秒間、私たちは小さな画面を見つめた。

 身体の底から寒気が這い上がってきて、足に力が入らなくなる。章子も同じだと思う。

「――アコちゃん、ちゃんと撮ったよね」

「――はい。間違いなく」

「別の日にどっかのコンセプト居酒屋かなんかで撮った写真が混ざってないよね」

「あの男性を収めたはずの、最新の写真です」


 写真には、無数の薄汚れた機械が壁にも天井にもびっしりと配置された、古い宇宙船の内部みたいな空間が写っていた。写っちゃったのだから仕方がない。の並行世界だか何だかだとしよう。

 じゃあ、その中央に――?――形容しがたい色彩の雪だるまみたいな固まりが。

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