scene71*「流れ星」


キラキラ星っていうよりも、あなたが弾くとなんだか流れ星みたい。



もう一度、その流れ星に逢いたくて必死で追ってた事なんて、きっと知らないんだろう。


いつかまた逢えるって信じていたら、本当にポロリと夜空から落ちてきたように目の前に現れた。


それも超新星みたいな極上の閃きの音を引っ提げて。 

やっぱり、相変わらず流れ星みたいだ。





【71:流れ星】





あれはいつの頃だったか。

まだ慣れないバイオリンで練習した「きらきら星」

本当はある人に聴かせたくて頑張って練習した。だけど結局それは叶わなかった。


悔しくてむかついて、ふざけんなあいつら全員見返してやるって、泣きながら弾いてた時に、ある女の子に言われたんだ。


「それじゃあ、きらきら星じゃないよ」

「…………」


「ねぇ、きらきらしてないよ、それ」

「…………」


「ねえ!!」

「うるせぇんだよ!ほっとけよ!」


「なんだ。しゃべれるんじゃん。ねぇ、そんな音じゃあ、きらきらしてないよ」


俺は鼻をすすりながらそいつのこと睨んでやった。女の子は、干されたシーツの真っ白いカーテンをひらりと抜けて俺の目の前に来た。自信満々に気の強そうな瞳をした女の子は、パジャマ姿だった。


「私もね、ピアノ弾くよ」

「だからなんだよ」

「ピアノがあったら伴奏してあげるのに」

「お前、いくつだよ」

「6才。あなたは?」

「7才。オレより年下じゃん」

「変わんないよ!……ねぇ、ピアノがあるとこ連れてったげる」

「は?……いいよ、いかねーよ」

「ここの病院ね、ピアノのホールがあるんだよ!だれでも使っていいの!」


女の子はそう言って有無を言わさずに俺の腕をぐいぐい引っ張りはじめた。

パジャマ姿の彼女に、なんだコイツどっか悪いのか。なんて子供ながらに思った俺はどこかで同情したんだと思う。

彼女に引っ張られるままついて行くと、俺の住んでるとこの公園にある『しゅうかいじょ』と同じくらいの大きさの広場があった。なんだか小さな体育館みたいだ。

奥の窓際にグランドピアノが置いてある。彼女は当たり前のようにそこへ行き、慣れた手つきで鍵盤蓋を開けた。


「ほら!弾こう!」

「……何でお前なんかと弾かなくちゃいけないんだよ」

「伴奏してあげる」

「いいよ!お前、『びょうにん』なんだろ」


そう言うと、彼女はびっくりしたような顔をしてそのまま固まった。

今思えばなんて酷い事を俺は言ったんだろうと思う。けれどその時は本当にそう思ったんだ。もしそれでムリなんかして目の前で倒れたら……死んじゃったらと思うと怖かったんだ。

泣き出すのか、諦めるのか。黙ったままじっと彼女を見ていると、ギッっと思い切り睨まれた。

そして力強く言い放ったのだ。


「それでも私は弾くの」


そして、俺より少し小さな手で、きらきら星を弾き始めた。


「ほら!弾いて!」



たとたどしい音だけど、笑うような事なんてなかった。俺は、合わせるようにしてバイオリンできらきら星を奏で始めた。

お互いとぎれたり忘れたり、俺は時折でたらめに弾いたりして、彼女はそのたびに大笑いしていた。

飛んでいるようなきらきら星のリズム。

さんざん弾いた後、彼女は笑い泣きしながら俺に言った。


「きらきら星っていうよりも、あなたが弾くとなんだか流れ星みたい」

「お前もだろ」

「ねえ、名前なんていうの?」

「……リュウセイ」

「……リュウセイ。ねぇ、漢字むずかしいの?」

「たぶん、むずかしくないと思う」


俺はまだ自分の名前が漢字で書けなかった。国語の授業で習っていない漢字だったからだ。だけど、もしその場に紙とペンがあって名前が既に書けたとしても俺は書かなかったと思う。だって俺の字、汚いし。


「あ!私、もう戻んなくちゃ!先生のとこ行くの」


突然、彼女は壁にかかっている時計を見るなり、慌てるようにピアノから離れて駆け出した。

人をこんなところに連れてきておいて自分はさっさと行っちゃうなんて、なんて勝手な女の子だと思いながらも彼女の名前を聞きそびれた事に気がついた。


「お前、名前……!」

「じゃあね、リュウセイ君!またここに遊びにきたら一緒に弾こうね!」


それきり、流れ星みたいね、って笑った女の子とは会えなかった。何故なら俺はもうその病院へ行く用事がなくなったから。


けれどその日から、バイオリンのレッスンを本気で頑張るようになった。

単純だ。キラキラ星をもっと上手く、かっこよく弾けるようになりたかったから。

それにただ光ってる星じゃなくて、彼女が言ってくれたような奏者になりたかった。


そうだ。

俺は流れ星そのものなんだ。


そんくらい圧倒的な、存在になりたいんだ。






ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!!!!




けたたましい音の目覚まし時計が部屋中に鳴り響く。あんまりにもうるさくて頭にガンガン響いてくるけれど、こうでもしないと俺は目が覚めないのだからしょうがない。のそりとベッドから手を伸ばし目覚ましを止める。


「……ひっさびさに見た……」


夢というより、もはや記憶だ。幼いころの記憶。

あの頃はまだマジメだったなと思い、起きて背伸びをした。

カーテンから漏れる光。今日はどうやら快晴なようだ。寒くなってくる季節だけれど、天気が良いだけで何となく気分があがる。

一通り身支度を終えてリビングに行くと、母親がソファで寝ていた。夜の仕事から帰って来てそのまま寝てしまったんだろう。いつものパターンだ。


俺は近くにあったブランケットを母にかけてやる。メイクが中途半端に落とされた寝顔を見ながら、これで寝酒をしていないのが救いだなと思った。

炊飯器を開けるとちゃんと飯が炊かれていた。どんなに疲れてても飯だけは炊いてくれるんだからありがたい。みそ汁は昨日俺が作ったやつがあるのでそれを温める。正直、そこらへんの菓子パンでもいいのにって思うのに、それを言うとめちゃくちゃ怒るんだからこっちが笑ってしまう。


女手一つで育ててくれた母は、そんなに酒が強いわけじゃないのに昔から夜の仕事ばかりしている。他の仕事につけばいいのにと言っても、俺が帰ってくる時間に家にいたかったんだそうだ。

他にも色々な事情が俺の家にはあって、本当はすげー金が俺にはあるのに、母親はその金を俺の学費とバイオリン関係でかかる時だけの、必要最低限しか使わない。あとは将来の俺の為の蓄えだと言い、普段の生活は母の頑張りの上で成り立っている。

じゃなきゃ夜の仕事と俺がこっそりやってるバイトの金を合わせただけの母子家庭で、俺が通う私学の学費を払い続けられるわけがない。


だけど、それでいいんだ。

どうせ俺は成功してやるつもりだから。

それで俺を否定し続けてきた奴らが間違ってることも証明する。


だから俺は絶対に成功しなきゃならない。


そのためなら、いくらでもお望み通りに遺された金を使ってやる。


「じゃ、行ってくるわ」

飯を食べ終え食器を片し、リュックとバイオリンケースを肩にかけると、夢の世界にいる母親にそっと言った。もちろん返事はない。それでも俺はこの習慣をやめない。それで良いと思うからだ。






学校に着くなり、校門のところで生徒指導の教師に呼び止められた。


「スギタ!!!お前まだ髪直してないのか!!」


バーコードはげの教師は俺を見るなり瞬間湯沸かし器のごとく怒り始める。いつものことだ。


「黒染め売り切れてたんす」

「それに、そのパーカーとリュックは校則違反だぞ!毎回言わせるな!」

「もうアクセとかつけてねーだけいいっしょ。それにさ、バイオリンケースかけてっと指定の学校鞄持ちにくいし。ちなみにブレザーはこないだ牛乳こぼして洗濯ちゅー」

「そもそもブレザーなんか着てこないだろうが!」

「コンクールとかここぞん時は着てるからいいじゃん。髪もスプレーで超ナチュラルにしてんし」


俺の通う学校は私立の総合高校だ。普通科の他にスポーツ科と芸術科があって、俺はそこの芸術科の中の音楽科バイオリンコースの3年に在籍している。


季節はすっかり秋を過ぎて、当然うちも受験モードなわけだが俺にとってはあんまり関係ない。何故なら俺はもう進路が決まっているも同然だからだ。

この秋に、ヨーロッパの音楽院から直接声をかけられたのだ。しかも報奨金までついてる特待生として。


俺は自分で言うのも何だが、自分でしている努力以外にもバイオリンの才能がしっかりとあるらしい。

この1年、何となく本腰を入れてコンクールに片っ端から出てみたら面白いぐらいに全部優勝。おまけに聴衆賞まで貰えたりなんかしてガンガン調子づいてたら、俺の演奏をたまたま聴いた音楽院のお偉いさんが気に入ってくれて、留学窓口になっている大学を通じて話が舞い込んできたのだ。そんなデカイ話は高校きっての事だから、学科主任も校長も大喜びだ。

一応、形だけの試験はしなきゃだけど、それも絶対通る自信が俺にはあった。


進路が決まっているからといっても学校名をかけてコンクールには当然出るし練習は必須だ。それに渡欧後も大丈夫なように英語とドイツ語のレッスンの為に今は学校に来ているようなもんだった。

また学校での練習とは別に、先生のつてでバイオリンの有名な先生に週2回ほど超絶技巧のレッスンに通っているので、それなりに忙しい日々を送っている。

にもかかわらず、学校生活では態度を好き勝手やってるもんだから当然教師からの俺の評判は賛否両論。

すっかり聞き飽きてる教師の言葉をテキトーに受け流していたら、俺の横をある女子がスッと通り過ぎて行った。


彼女の艶やかな長い髪は陽に当たり、天使の輪はより一層輝いていて今日も見惚れてしまう。

それをみすみす見送るわけがない。すぐにも駆けだしたくてウズウズするくらいだ。


俺は、「次はちゃんとすっから!朝の練習あるんで行きまーっす」と、調子よく嘘を言うと教師の止める言葉をそのまま無視し、彼女を見失わないうちに昇降口へと向かった。



「ユア、ぐっもーにん☆」


ユアに話しかけると、彼女は気の強そうな瞳でじとりと俺を睨んで「は?」と返事をした。その反応を見て今日も安定だと思う。さらりと長い黒髪が肩にこぼれた。


「てか2学期後半になっても生徒指導に呼び止められるとかダサすぎだから」

「そのうち直すって。今しかできねーからギリで楽しんでんの」

「いつもそのうち直すって言ってんじゃん。だいたいコンクールでの黒染め、完全海苔だからアレ。超ださいよ」

「だって俺の髪染め過ぎて変な色になっちゃうんだもん」

「だもんとか可愛いこぶっても可愛くないし」


ユアは音楽科のピアノコースに通う女子だ。

性格はこうも分かるように気が強くプライドが高い。

そりゃそうだ。

彼女の父親は大手製紙会社を経営しているのだから筋金入りのお嬢様だ。


この学校には色んな生徒がいて、俺みたいな母子家庭の奴もいれば親が大手企業の重役を務めている奴もいる。

その中でもユアは特別かもしれない。実際ユアのオヤジさんはウチの学校に結構寄付をしているらしいし。

けれど彼女のピアノの腕は本物で、俺同様にたくさんのコンクールで上位入賞を果たしているから、コネ入学だなんて言う奴は周りに誰もいなかった。


ユアと昇降口を抜けて階段を上がると、3人組の後輩に挨拶された。


「あ、スギタ先輩だー!せんぱーい!おはようございまーす!」


誰か分かんないけど多分話した事がある子だろう。

その元気の良い声に、俺は「おはよー!マジメに先生の言うコト聞けよー!」と手を振ると、女の子たちは「やだぁ!それ先輩だし!」とキャハキャハ笑いながら駆けて行った。

愛想笑いを振りまく俺に、

「……ちゃっら」

横で吐き捨てるように言ったユアをちらりと見ると、あからさまに不機嫌そう。


「他の子に優しくしないでって?」

「うぬぼれんのも大概にしてよね」

「ユア、そんなこと言うとまた俺の伴奏になっちゃうかもよ」

「マジ勘弁してよそれ。もうあんたとはやんないから。二度と。金輪際!」


バイオリンコースとピアノコースは試験や発表会など定期的にデュオを組まされることがある。

俺とユアは縁があるのか、高1の時からどうしてかペアになることが多かった。

ユアはすごく嫌がるけれど(俺の弾き方がどうも合わせづらいらしい)、それでも一緒に弾き出すと切磋琢磨という言葉がぴったりなように、俺達の息はぴったり合ってしまうのだから面白い。


それはユアが俺に合わせてくれるおかげで成り立ってるからなんだけど、ユアが俺に合わせてどんどん食らいついてきてくれるから、それがすごく弾いてて面白くなって飛ばしすぎてしまうのだ。たとえ毎回それで彼女に怒られても。


ちなみに昨日、3学期にある謝恩会でのデュオのバイオリン奏者は俺に決まったと先生に言われたばかりだ。

ピアノは誰かと聞いたらまだ検討中らしい。

俺は内心、ユアが伴奏になったらいいのにって思っていた。


「また俺の伴奏してよ」

「やだよ。私は次はリツ君と組みたいし」

「リツはもう組まないよ。フユカちゃんいるじゃん」


フユカちゃんというのはユアの仲良しのピアニストで、リツは俺のクラスメイトだ。

リツはバイオリニストとしては巧い弾き手だけど、真面目くさっててつまんねーなと思っていた。

それがフユカちゃんと組んだ春の定期試験で思いっきり変わった。


本当は俺とユアが試験で高評価をとって学芸祭で課題曲のベートーヴェンの『春』を披露するはずだったのに、思いのほかリツとフユカちゃんのほうが評価が高くてその場を奪われたのだ。

おまけに披露したのは『春』じゃなくて、二人とはまったく正反対なイメージの、ジャズ色の濃い『リベルタンゴ』をぶっつけ本番で変更してきたんだからたまったもんじゃない。

当然文句のつけようがないクオリティで教師陣や音楽科の生徒たちも騒然とし、絶対に冒険しなさそうな二人だと俺も思いこんでたから正直「やられた~」と思った。

もちろん『春』はアンコールで弾いて、より大盛り上がりだった。


そのあたりからリツの演奏は表現が変わった気がする。

なんつーか……溢れ出る色気?みたいな。

そんでもってその演奏会の後にリツとフユカちゃんは付き合い始めたのだから、どこにどんなドラマが生まれるかなんて分からない。


よく演奏者と伴奏者、音楽家同士はうまくいかないとか、恋愛にならないなんて聞くけどあの二人には今のところ通用しなさそうだ。


「あんたいつまでうちの教室の前いんのよ。ただでさえもう進路決まってんだから、そんなやつがウチの教室の前にいられると空気ひりつくのよ。早く自分の教室行ったら」

「そりゃ失礼しました☆」

「じゃあね」


彼女はそう言うとピシャリと教室のドアを閉めた。

どんなにつれなくされたって構わない。


だってどうせこうして話せるのも今だけだから。


あと数カ月もしたら、多分もうユアとは会えない。

まるっきり違う人生に決まってる。

その先もきっと交わらないってことも、分かってる。


窓から差し込む太陽の眩しさに一瞬顔をしかめて、俺は自分の教室へと向かった。







「ストップ!ストーップ!!押さえが甘い!!確実に押さえてない!あとまだ遅い!!」

「はい」

「もう一度。それ見たら、もう今日は終わりだ」

「はい。お願いします」



放課後、週2で行ってる師匠の超絶技巧曲のレッスンはむちゃくちゃ厳しい。

教師にどんなに怒られても怖いと思った事がなかった俺でも、師匠ってこういうもんなんだと実感するくらいにケタ外れに厳しくておっかないし無茶もたくさん言われる。


趣味で声楽もやっていて普段はよく通るバリトンの渋い声だけれど、怒鳴った時はマジで雷……イカズチと呼んだ方がふさわしいかもしれない。

体がビリビリとくるような声で初めて怒鳴られた時は、マジでビビって一回逃げた事があるくらいだ。しかも裸足で。

それでもどうしてか俺の行動を大目に見てくれて、どうにかレッスンも続けさせてもらえている。

それ以来俺の事を「クソリュウ」なんて呼んでいるんだから、なかなかに良い関係だと俺は思っている。

それにどうせやるなら完璧に弾きたいし精度を上げたいし、俺が進む道では当たり前にできなきゃいけないのだ。

学校生活では超テキトーにしてるけど、音楽に対する努力だけは全く苦じゃないから自分でも不思議だ。



師匠の厳しいしごきを終えると、先生の奥さんがおにぎりとメンチカツとお味噌汁を持ってきてくれた。

いつもレッスン終わりにちょっとしたご飯を気遣ってくれて、そういう優しさに弱い俺は有難くてちょっと泣きそうになると同時に、食べずに家に帰って母親の顔を無性に見たくなるような複雑な気持ちになってしまう。

まぁ、何だかんだやっぱり腹がへってるから食べちゃうんだけど。

お握りをほおばってると師匠が聞いてきた。


「お前、英語のレッスン真面目にやってるか」

「……一応、してます」

「ドイツ語は英語が基本になってるから英会話真面目にやんなきゃダメだぞ」

「それ前にも聞いたっす」

「向こう行けば当然自炊だし、言葉できないと困る事ばっかだかんな。あと友達作れ。ってお前は大丈夫か」

「それなら多分ヨユーっす。多分、どこ行ってもそこは大丈夫だと思う。それに前にも1年だけドイツいたから大丈夫っすよ」

「おふくろさん、何か言ってるか」

「やー、あんま話してないかもしれないっすね。母親、夜の仕事してるんで。向こう行けば報奨金もあるし、俺にはオヤジの遺産たんまりあるから金の心配もないし、賞とれば賞金も貰えるしそこらへんは大丈夫っす」

「金の話じゃあなくてだな」

「……俺の事一番心配して、それでも応援してくれてるんで大丈夫っすよ。……それに俺が傍にいたんじゃあ母親もいつまでたっても男寄りつかないじゃないっすか。一応?うちの母親美人なほうだと思ってるんで」

「ははは。……そうか」


珍しく師匠にウケたようだ。

師匠と会話してると、親父ってこんな感じなのかなと思う。

次回のレッスンの確認をし、師匠の家を後にした。

外へ出るとしんとした寒さが体を包み、そろそろマフラーを引っ張りださねばと思った。

指先は冷やしたくないのでかろうじて手袋は持っているけれど、それもそろそろちゃんとしたイイやつに買い換えたほうがいいのかもしれない。


駅の改札へ向かう階段途中で「スギタ君?」と名前を呼ばれたので振り向いたら、ユアの仲良しのフユカちゃんがいた。


フユカちゃんはユアとは対照的なふんわりした女の子で、今もベージュのPコートにもこもこしたマフラーと白の耳あてがよく似合っていた。

まだそこまで寒い季節じゃないけれど、その重装備を見てフユカちゃんは冷え性なんだなと思った。

トコトコと駆け寄ってきたフユカちゃんと喋りながら改札へ向かう。


「フユカちゃん、珍しいね。この駅で会うの初めてじゃん?」

「レッスン帰りなんだ。いつもは別の曜日なんだけど。スギタ君も?」

「そ。いつもより少し早めに終わって珍しくこの時間。フユカちゃんも音大行くんでしょ?やっぱリツたちと同じで東央藝大?」

「そんなそんな!私はそんなとこ行けないよ!地元の聖仙大の芸術学部。実家から通える範囲にするつもり」

「そうなの?なんか勿体ねー気するけど。でも聖仙の音楽科も名門だしな。……電車、俺の路線は下り方面だけどフユカちゃんはどっち?」

「私は上り。って、特快には乗れないから15分後だ~。出たばっかみたい」

「じゃ電車来るまで話すか」

「でもスギタ君、もうすぐそっちの電車来るよ」

「下り方面は電車が多いから大丈夫。ホーム寒いし、上で待ってた方があったけーじゃん。一緒に待つよ」

「……そっか。ありがと」


フユカちゃんはそう言ってふんわり笑った。ユアはいつもフユカちゃんを守るようにして一緒にいるけど何となくその理由が分かる気がした。

小動物みたいな、守ってあげたくなってしまうような。

全く正反対そうな二人が仲良いなんて面白い気がした。


改札を抜けたところの脇にベンチがあるので二人してそこに座る。

いつもはユアと3人で会話をする機会が多いので、こうしてフユカちゃんと二人して並ぶのは新鮮だった。


「スギタ君はもう大学決まってるんだもんね。いいなぁ。私なんてちゃんと受かるか今から不安だよ」

「フユカちゃんなら大丈夫っしょ。演奏も安定してるし巧いと思うよ」

「スギタ君からそう言われると嬉しいな。スギタ君はドイツ生活かぁ。向こうでの生活なんて私だったら想像つかないな」

「俺、前にドイツにいたことあんだよね。中学卒業して1年くらい、ホームステイしながら向こうの先生のレッスン受けにいたんだわ。まぁバイオリン以外はニートみたいなもんだったけど」

「え!?そうなの?すごいね!」

「いや、もう言葉とか必死だったし。結構忘れてるからピンチかもなー。……まぁそれで1年間向こうにいて、留学してた日本人の大学生のお兄さんと仲良くなったわけ。で、そしたら日本の高校も楽しいよって言われてさぁ。そのままドイツで世話になるかやっぱり日本に帰ろうか迷ってたんだけど、俺んち母子家庭だから母親も一人だしって思って、それでこっち戻って来て一年遅れで高校入ったの」

「そうなの!?じゃあスギタ君って私たちより1個上?」

「そうなるね。母親の地元がこっちなんだけど、音楽科のある高校もたまたまあってラッキーって感じだったし。既卒1年経ってたけどバイオリンはできたからそれで入れたわけ」

「私、全然知らなかった~。てっきり同い年かと……」

「入学も一緒だし、そもそも1歳差なんて変わんねーよ。バイオリン歴も俺より早く始めてればキャリア的にも変わんねーし」


フユカちゃんは驚いたり笑ったり、くるくると表情豊かだ。

リツも彼女のこういうところが可愛いって思ってるんだろうなぁ。


「でも、スギタ君そんなに遠くに行っちゃうの、不安じゃない?」

「全然。むしろもっと色んな国行きたいって思ってるし。もちろんプロになる前提で」

「あははは。スギタ君らしいや」

「なぁ、いっこだけ聞いて良い?」

「あ、ユアちゃんのことでしょ」


つとめてさりげなく言ったつもりだけれど、ずいぶん分かりやすかったらしい。

いきなり図星をさされて言葉につまりそうになった。フユカちゃんは変わらずニコニコしている。

……何となく、この笑顔には勝てそうにないなと分かって白旗をあげた。


「……何か、俺のこと言ってた?いや、何も言ってないんならいいんだけど」

「何にも言ってないよ」

「だよなぁ」


付き合っているわけでもなし。

お互い好きだと言ったわけでもなし。

だから、俺がユアを気になるのも、ユアが俺を気にしてくれているかという事を考えるのも、本当なら何の意味もないことだ。

それなのに何となく間接的にでも確かめずにはいられなかった。


まぁ、好きって言ったところでこれからの距離があまりにも遠すぎるし、どうにもならないに決まっているのに。

子供の恋愛なんて大人の世界に飛びだせば、簡単に消えてしまうに違いない。

そう思っていたら、フユカちゃんが続けた。


「でもね、すごく気にしてるよ。ユアちゃん意地っ張りだから口にしないだけで、多分心の中ではスギタ君に聞きたいことや言いたい事がありそうだなって、ちょっと思う」


駅のアナウンスが、もうすぐ上り方面の電車がくる事を伝えた。

フユカちゃんはベンチから立つと思い出したようにレッスンバッグから一枚のチラシを出した。

差しだされたそれには、地元の総合病院で開かれるミニコンサートの案内が記されていた。

奏者の名前にはリツとフユカちゃんの名前がある。


「リツ君のお母さんね、ピアノ教室の先生なの。そこの楠山病院の看護師長さんと知り合いらしくて毎年開いてるアンサンブルコンサートなんだって。今回は私とリツ君と、リツ君の弟さんのゲン君がチェロやるの。もし良かったら来てみて」

「へー。リツの弟はチェロなんだ。って受験生に容赦ないな」

「私とリツ君がムリにでも出たくって。曲も簡単なものだし、私も息抜きしたいし」

「息抜きでピアノじゃあホント休みねーな」

「ふふ。考えてみればそうだね。……良かったらスギタくんからもユアちゃんに声かけてごらん。多分、何だかんだで来てくれると思うから。じゃあもう私行くね。一緒にいてくれてありがとう、スギタ君」

「俺もちょうど電車きそうだし大丈夫。行けたら行く。さんきゅな」


下り方面の電車案内のアナウンスがちょうど構内に響いた。俺もベンチから立ち上がりその場で別れた。

フユカちゃんは電車に乗っても、見えなくなるまで手を振ってくれた。


電車に乗りながらチラシをもう一度見る。

開演時間は午後の1時半からで、曲目は『きらきら星』『ユーモレスク』『眠れる森の美女』『カノン』『愛の挨拶』『愛の歓び』などポピュラーでどれも明るい曲だ。


『きらきら星』を見て、何となく懐かしくなる。

女の子と一緒に弾いた病院は都心にある大病院だったから全然違う場所だけど、この曲が俺がバイオリンを好きになった原点だ。そう思うと聴きたくなってきた。

日曜だけど今週はレッスンを入れずにメンテナンス日にしてあったから多分行けそうだと思った。







日曜日、弓を張り直してもらった帰りに病院へ足を運んだ。

楠山病院は地元でも大きな総合病院だ。

数年前に改装が終わり、1階の待合は吹き抜けになっていて、白を基調にした内装にガラス窓が大きくとられたロビーはとても明るかった。


音楽ホールはないもののロビーは充分広く、普段も様々な院内イベントが行われているようだった。

ロビーの奥にはピアノと弦楽器用の譜面台のステージができており、客席は当然満員御礼だ。毎年開催していると言っていたから楽しみにしている人も多いんだろう。


何だかんだ寝坊をしてから出かけたので、中盤の『眠れる森の美女』が演奏される頃に着いた。フユカちゃんと、おそらくリツの母親が連弾をするようだった。

こっそりと客席の端にある柱に寄りかかって見ることにしたら、どこから見つけたのかリツがやってきた。

俺は「おう」と挨拶すると同じように返してくれた。

フユカちゃんと付き合い始めてから前のとっつきづらさがなくなった気がして、改めて恋の変化とやらはすごいなと思った。


「お前、主役の一人だろ。来ちゃって良いわけ?」

「いや、お前目立つしとりあえず声かけようと思って。次カノン弾くからすぐ戻るけど」


リツはちゃんとスーツを着ていた。

育ちが良い雰囲気は元々あるけれど、今日はさらに磨きがかかっている感じさえする。学校でも品行方正ってやつで俺とは正反対だ。


女子には評判があり友達もそこそこいるけど、どこかで俺をライバル視していた感が否めなかったから、俺に対してすごくギスギスしていた時期があった。

けれど彼女と付き合って、彼女とユアが仲良しだから自然と4人で話す機会も増えていき、リツの中でも俺への態度が上手く昇華できるようになったみたいだ。

そして、変わったリツに俺も前みたいに煽るようなことは言わなくなってた。もしかしたら俺のほうが、先にリツのことをライバル視していたのかもしれない。

ピアノの連弾は低音と高音で交互に主旋律が入れかわり、よく歌っていた。

リツの母親はピアノ講師だけあってすごく上手だ。

聴き入っているとリツが思いがけない事を提案した。


「お前、せっかくだから飛び入り参加してく?」

「いきなりだな。いや、俺めっちゃ私服だし。超ダメージジーンズだし、これでトリオ入ったら浮くっつーの」

「そんなに気にしないよ。じゃあ『愛の挨拶』弾けばいい」

「てか決定なのかよ」

「だってお前バイオリン持って来てんだもん。それに来年誘うにも日本にいないだろ。こっちこいよ」

「いやん、リツ君たら大胆」


冗談を言うとリツが子供みたいな顔をして笑った。

舞台の端にはリツの弟らしき男の子がいた。まだ小柄だからかチェロが大きく感じる。俺に気付くと緊張した顔で会釈をしてくれた。

こういうハプニングは嫌いじゃないしむしろ楽しんで演れるタイプなので、俺はちょっと面白い気持ちになりながらバイオリンの準備をしはじめた。


連弾が終わり、リツと弟のゲン君がステージに出た。

ピアノはそのままリツの母親が弾くようで、親子共演でカノンなんて夢のような舞台だ。

舞台袖に戻ってきたフユカちゃんは俺を見るとびっくりしながらも嬉しそうにした。

発表会用のドレスを着ていて、淡いピンクからきっと眠れる森の美女をイメージしたんだなと思った。


「スギタ君、きてくれたんだ!ユアちゃんは?」

「声かけてない」

「え、何で!?」

「まぁ俺寝坊するの分かってたし弓のメンテ行ってきたから。だから最初の方のプログラム聴けなくてごめんな」

「そっか……って、スギタ君、弾くの?」

「だってリツが飛び入り参加してけって」

「愛の挨拶、私が伴奏だよ」

「じゃあカップルでの演奏だったんじゃん。え、俺この後なんかリツに殺される系?」

「ふふっ。それはないって。こういうのも面白いかもね。進行も自分たちだから、多分大丈夫だよ。曲のプログラムもリツ君が自主的に動いてたみたいだからリツ君のお母さんも喜んでくれると思うよ」

「何気にフユカちゃんと組むの初めてじゃね?」

「わ、むしろ私のほうが光栄かも。だってスギタ君はうちの学校きってのソリストだもの。ユアちゃんの腕前と比べないでね」

「まぁまぁ、今日は楽しく明るくって感じでしょ?『愛の挨拶』弾くのも久しぶりだし、大丈夫だとは思うけど俺の方が足引っ張っちゃうかも」

「まぁ、スギタ君からは何となく程遠い演題よね。弾くなら『ツィゴイネルワイゼン』って感じだし」

「じゃあ今日は俺らしくなく弾いてみるかな。期待に応えたいと思うと燃えるんだわ」

「スギタ君ってやっぱり面白いなぁ」


舞台袖で内緒話するようにクスクス笑うと、どうやらカノンが終わったようで沢山の拍手がおこった。

終わるとフユカちゃんは交代するようにピアノの前について、一緒に出た俺はピアノに合わせて調弦をする。

私服でいきなり現れた俺に客席が少し戸惑うのが分かった。当たり前だ。


リツはマイクを持って『それではここで、特別なゲストをご紹介します』と繋げた。

舞台袖ではゲン君がリツの母親に話してくれている。

リツの母親は少し驚きつつも、笑いながら頷いてくれたので少しほっとした。


「突然ですが特別ゲストとして、僕の同級生であるバイオリニストのスギタリュウセイ君が、エルガー『愛の挨拶』を披露してくれます。よければスギタ君、一言ください」


おいおい、こっちに無茶ぶりかよと思いつつ、マイクを差し出された俺は一瞬だけ会場を見渡した。

入院患者、家族、スタッフ。吹き抜けになっている2階からも見てくれる人がたくさんいた。

それだけでもうここは立派なコンサートホールだ。


「えーと、ご紹介に預かりましたキリハラ君の同級生のスギタです。こっそり見てたつもりがバッチリ見つかっちゃって、まさに通りすがりのとこ捕まっちゃいました」


そう言うと客席はどっと笑った。つかみは大丈夫そうだ。


「私服もちょっと?こんなヤンキーっぽいし?むしろエレキのが似合うんじゃね?って感じなんすけど、ほんとにバイオリンは弾けるので安心してください。それでは、『愛の挨拶』、聴いてください」


拍手がおこる。

喋りも結構ウケたようで場の雰囲気はすっかり和んでいた。

俺はフユカちゃんと顔を見合わせてタイミングを確認する。

ピアノの優しい音色がホールに響き渡る。



エルガーの『愛の挨拶』


この曲に込められた想いを知ると、自分の中でも考えずにはいられない。

エルガーが結婚する前に、妻に捧げた音楽だからだ。

何にも持たない音楽家と、上流階級の娘だったと思う。

おまけに身分も宗教も違っていたから周りからは大反対の恋愛。


愛情や苦悩が聴衆にダダ漏れになるところが、クラシック音楽の魅力であり、恥ずかしいところでもある。

感情をそのまま音にするって、脳内を見られているのと同じだ。

ましてやこんな優しすぎる曲、こっちの気持ちが剥がされてしまいそうになるほどに、バイオリンの旋律はとことん甘く優しい。

楽器ではなく自分の心を鳴らしているような感覚がしてくる。


バイオリンは俺にとっては好きなものではあるけれど、自分を確立する相棒という意識が強い。

これで上に上がりたいと思うあまり、厳しい曲とばかり向き合ってきた。

その為には、多少なりとも色んな事を犠牲にしてきた。

そんな俺を、音楽をする人間として不純だと思うかもしれない。

けれどそう思う奴は、きっとぬくぬく温められながら周りに愛されてきた人間だからだろう。

それほどバイオリンは、俺にとっては自分が生きて行く為のツールなんだ。


……だけど今だけは、野心だけじゃない自分を許してもらえる気がしてしまう。

自分の為じゃない、誰かの為を思って弾くべき曲だから。



好きだ、


好きだ。



好きだ




最後に、高い音でヴィブラートをかけてゆっくりと静かに余韻を作る。


弓を離したとこで、客席はしんと一瞬静まり返った。

本当の無音だ。そう思った一瞬、少し遅れて拍手がどこからも湧きあがった。

客席にいた人たちはみんな顔をほころばせて、この曲が好きな人は目を潤ませてもいた。

俺は笑顔を作り、フユカちゃんと顔を見合わせてから一緒におじぎをした。

それでも拍手は鳴り続けていた。




コンサートが終わってから、着替えたフユカちゃんとスーツのままのリツと病院の屋上広場で小さな打ち上げをした。

病院の屋上は結構広くて、いくつかある芝生の島の間を縫うようにして、バリアフリーの散歩通路が作られていた。

芝生まわりはレンガで囲われており樹や花が植えられている。

芝生にはもちろん自由に入っても良くて、昼寝をしたら気持ちよさそうだと思った。

通路脇にはベンチがところどころ置かれ、その一つに俺達は座っていた。

冬だけれど今日は天気が良いのでいつもよりは暖かい。

木陰になっているしバイオリンにも安全だ。


俺達は先ほど病院からふるまわれたホットミルクティーと、看護師長さんの旦那特製のパンを食べていた。

すごくサバサバしていてカッコイイ看護師長さんの旦那は、地元で人気のベーカリー『蘇芳』の店主なのだそうだ。

古民家を改装したオシャレなベーカリーには俺も何度か行った事があって、たしかに美味しかった。

今食べているあんぱんはそこの一番人気の商品になっている。

どうやら看護師長さんは娘さんをリツの母親のピアノ教室に通わせているようだ。


リツは「スギタ、今日はありがとな」と改めてお礼を言ってくれた。なんだかこそばゆくなってしまう。


「いや、俺も楽しかったし、たまにはこういうのもいいな。息抜きになるの分かった気がするし」

「スギタ君の伴奏、私もすごく新鮮で楽しかったよ。ユアちゃんが言うような暴走もなかったし」

「あははは。あれは正直言ってわざと。だってユアどこまでも応戦して食らいついてくんだもん。気がつけば早弾きバトルみたいになって二人して先生に怒られんの」

「お前なんつーメーワクな奴なんだよ」

「リツの伴奏飽きたらいつでも俺に言って」

「スギタ!」

「あはははは」


他愛ない話をしていると「兄ちゃん!」と声変わり前のソプラノが響いた。

屋上入口の方からゲン君が走ってくる。

改めて見るとリツのミニチュア版みたいだ。スーツもきっとリツのお下がりなんだろう。

何やら母親と看護師長と院長が話をしたいらしく、それでリツを探しにきたらしい。

リツはすぐ戻ると言ってそのままゲン君に引っ張られて行った。

もちろん『フユカちゃんに近づきすぎるなよ』っていう軽い睨みも忘れずに。

俺はフユカちゃんと二人きりになった。この間と一緒みたいだなと思う。

乾いた風が流れて木漏れ日の散りばめられた光たちは不規則に揺れている。



「スギタ君って、演奏だとすごく正直なんだね」


ふいに、フユカちゃんが口にした。


「え、何が」

「愛の挨拶」

「そうだった?」

「ユアちゃんには気持ち、伝えなくて良いの?」

「えぐってくるねぇ~」

「茶化してるわけじゃないよ」


もちろんフユカちゃんが真剣に心配してくれているのを分かっていた。

だからこそ、俺もハッキリしておこうと思った。


「付き合わないよ。ユアとは。……それに、言わないし」

「……スギタ君」

「ユアと俺は、多分、全然違うし。それにユアはお嬢様じゃん?立派な家があって小さいころからピアノも許されて。音楽を続ける目的が多分俺とは最初から違う。俺は俺で達成したいことがあるし、そっちの道のりのほうが多分めちゃくちゃ険しい」

「ユアちゃんとは、今だけしかいられないってこと?」

「だってそうなるっしょ。俺、向こうで本当に手ごたえ感じたらこっちに戻ってくる気はないよ。母親には話してないけど、そのつもり。オヤジの金があるうちに向こうで早く成功しないとって感じだし」

「…………」

「ユアには話した事ない。まー、話す理由も関係でもないわけだし。……フユカちゃんには隠し事が何となく出来なさそうだから言っちゃうけど。俺、いわゆる愛人の子供ってやつなんだ」


フユカちゃんの様子を窺うと案の定絶句していた。

けれど話の続きを知りたそうな感じもした。

きっとこの子なら、聞いてくれるだろう。

それにリツがいたら同性の手前、何となく話せないだろうなとも思った。


「はは。昼ドラみてーだろ。……師匠以外に、誰かに話した事ないから変な感じだけど、まぁ俺が勝手に喋りたい気分かも。こんな事話せる友達まではいなかったし」


俺は、初めて自分の事を喋った。




* * * * * * *




母親が明確にこの事を言った事はない。

けど、大人になるにつれて周りが言ってた事がようやく分かって、自分の中でそういうことなんだろうなって思った。


母親も若いころから母子家庭で随分苦労してたみたいで、大学に進学しながらバイトでホステスをしていた。

けれどだんだんと生活費と学費が厳しくなって、結局学費が払えずに中退。

バイトでしていた水商売が本業になったっていうただそれだけのことなんだけど。

当時、同じ学生の恋人もいたらしいんだけど、大学辞めたのと同じに別れたっつってた。


……母親にはずっと懇意にしてくれる客がいたみたいで、学生時代で苦労していた時からずっと励ましたり支えてくれて面倒見てくれた人だったらしい。

……つかそれが俺の父親なんだけど。

その人には当然家族もいたし、立場も貿易系の大企業のトップの人でさ。

で、俺ができちゃって母親はそのまま店辞めてオヤジにも何も言わずに一人で俺産んだわけ。

実家頼るにもますます心配かけたくなくて、都心で俺抱えての生活をしてさ。

まぁ夜間託児所とかもあったから違う店ですぐに復帰したんだけど、夜の世界だし相手は色んな店知ってるだろうしで、しばらくしてオヤジに知られて。


結婚はできないものの、オヤジはすぐに自分の子だって強く言って認知までしてくれてさ。

母親は頑なに拒否したらしいけど、DNA鑑定までされたら終わりだよな。

……けど、オヤジはオヤジなりに母親の事、愛してたんだと思う。


物心ついた時には週に何回かニコニコ遊びにきてくれるオジサンって俺は思ってて、よく遊んでもらった。

嫌いじゃ無かったよ。今でも嫌いじゃない。

母親の親父くらいの年齢だったから、もしかしたら孫みたいな気持ちだったのかもしれないけれど。

オヤジは若い時に本当は音楽をやりたかったって言ってた。

だから俺にバイオリンをさせてくれたのもオヤジ。

まぁ後から分かったけど、自分の子供や孫にもやらせてたんだけどさ。


オヤジは俺が8歳の時に死んだんだ。

入院してるのを聞いてから俺は母親に見舞いに行きたいってしょっちゅう言ってたけど、今思うと愛人だし気軽に行けるわけがない。

けど、オヤジの秘書のおっさんがある日、面会に来てほしいって言ったんだ。

オヤジが俺のバイオリンの成果を聴きたい、楽しみにしてるって。

屋上なら音を出しても構わないから、そこで聴きたいって。

俺、すっげぇ練習したよね。きらきら星。


それでさ、面会当日。

あんなにデカかったオヤジがすげぇ痩せてて子供ながらびっくりした。

死ぬってことが、初めて分かった気がした。

それでもオヤジは俺と母親にすげぇ会いたかったって泣いてくれて。

バイオリンも聴かせてあげたいけど、調子があんま良くなかったのかベッドから起き上がるのはムリだって看護師さんに言われた。


子供だったから俺はそれに納得できなくて泣いてゴネて困らせた。

だって、聴かせられないまま死んじゃうってことだろって思ったし。

でさ、タイミングがことごとく悪い日ってあるんだな。今思えば厄日ってやつだったのかも。


本妻さんの娘、息子とその嫁、孫たちが知ってか知らずか見舞いにきたんだ。


いや、あれは嫁は絶対知ってたね、俺と母親が来る事。

だって俺と母親を見て、意地悪く笑ったのを俺は見逃さなかったし、「やっと面と向かって攻撃できる」って顔だった。

それに娘と嫁からしたら、自分の子供のほうが愛人の息子の俺よりも立場が低いって許せない事だし。


オヤジの孫……俺からすると甥に当たるけどイトコってことにしてる。 同い年くらいで甥って違和感あるし。

まぁそれはいいとして、そいつらもこれ見よがしにバイオリンを持ってきてたんだ。


同じようにバイオリン持ってる俺を見た時のあいつらの顔。


嘲笑うような、何でコイツが持ってるんだ?と許せなさそうな。

本能的に危険を察知した俺は、すぐにケースにしまって母親の陰に隠れた。


そっからはもう修羅場だよな。

息子の嫁と、オヤジの娘が母親の事を色々言ってた。

けどそんな言葉、母親の頭に入ってなかったと思う。

その場にいた一人に、言葉を失っていたから。もちろんそいつも。

俺にも、うっすらだけど見覚えがあった。


……母親の若いころの写真に一緒に写ってた男だったから。

オヤジの息子は、母親の短い学生時代の恋人だったんだよ。


名字もありふれた名字だったし、親の仕事が大きかっただけに自分の事をあまり語ってくれなかったと母親は後から俺に話してくれた。

実際、会社も娘婿が継いでそいつは某銀行の副頭取やってる。

……改めて考えるとマジ昼ドラで笑えてくるな。


けどさ、その場でイトコが俺に言ったんだわ。

『お前の音は汚い。コンクールで聴いた事あるけど、へたくそ。恥ずかしくないのかよ』って。


そのあと、俺はバイオリンケースを取られそうになったからケースを抱えてそのまま病室から飛びだした。

屋上で力任せにきらきら星弾いたよ。

泣きながら弾くから全然上手く弾けなかったけど。


……結局、その後は会う事もなく、練習曲も聴かせられることもないままオヤジは死んだ。

当時は会長職だったし財界にも大きく影響与えてた人だったから、新聞にも出たらしい。

これで切れるかと思ったら、そっからがまた修羅場の第二弾なわけよ。

オヤジが、俺に遺した遺言と遺産のことで。


それもちゃんと法的にも有効な形で、俺と母親が不利にならないように根回しもして。

折りを見て絵画コレクションとか売却する手配もちゃんとして、だから額は結構莫大。


けど相続には条件があった。

あくまで俺がバイオリニストになれるよう支援としたもので、本人がバイオリンを諦めた時点で寄付へと回す事。

母親は初めからそんなもの放棄するようしたけど、子供だとしても相続人の俺に一任するようにと後見人も既にオヤジが立ててくれてた。

……どっかで俺の事見抜いてたんだろうな。

俺の中身はもう子供じゃないって。

ていうか、病室でのあの一件でオヤジはそう決めたんだと思う。

これは憶測だけど、何となくそんな気がする。


それにイトコたちよりも俺の方がずっとバイオリンの才能があると見抜いてたんだ。

当時つけてくれてた講師も、イトコたちよりもずっとすごい先生だったらしい。

講師は講師で俺の才能を育てたいとオヤジに言ってたってのも、後から教えてもらった。


勿論向こうの家族は大揉め。

なのに仲裁に入ってくれてたのは意外にもオヤジの息子、母親の元恋人だった。

俺からすると異母兄弟になんだけど、それもまぁ微妙な関係だよね。

着かず離れずの距離で、兄のような父親代わりのような感じで俺たちに接してくれた。

そいつはそいつで、多分母親の事忘れてなかったんだと思うし、母も諦めてたけど本当に好きだったのは、思い出のそいつだったんだと思う。

じゃなきゃいつまでも昔の手帳に大事に写真を挟んでないと思うし。


バイオリンを諦めてほしい、実家に戻ろうと母親に泣かれたけど、俺は母親を説得した。

バイオリンで絶対に成功するから、遺産を使ってでも言われっぱなしにはさせないって。


……本当は、俺の音は汚い、恥ずかしい。

オヤジが習わせてくれたそれを、そんな風に決めつけられたのが一番悔しかった。

実力で見返して分からせてやろうと思っただけなんだけど。


もちろん、向こうも俺も都心住まいだからコンクールには絶対にぶつかる。

まぁ俺の方が毎回上だけどね。


嫌がらせは当たり前で、弓や弦も何回か切られたりスペアを隠されたりした。

だからコンクールでもバイオリンをどこかに置いたり、絶対に手放す事はなくなった。

便所にまでケースごと持ってったし。

でもそのおかげで演奏直前でも確実に調弦も合わせられて、本番前の集中力もめちゃくちゃついた。


負けられない、認めさせたい、俺のが上だ。


技術は高くても、俺のホントの心の中はギスギスしてた。

勿論バイオリンは好きだったけどね。弾けるようになるのも嬉しいし、それは嘘じゃないんだ。


中3の秋頃に母の元恋人が家にやってきた。そこで中学卒業後に少しだけ日本を離れて欲しいって頼まれた。

留学口も費用も予め提示されて、当然ドイツの講師にも既に話をつけてあると言われた。

蓋開けりゃコンクールで俺が上に毎回立ってるから、イトコたちがノイローゼ気味になってたらしい。

俺からしたら、だったらあいつらが辞めればいいって感じだけど。

……まぁ、自分の子供たちが可哀想だから目障りのほうがいなくなれって、嫁や娘の差し金だったんだけど。


でも、俺もコンクールのたびにそいつらの名前を絶対に気にしてたし、正直疲れてた。

だから留学話は即答した。

ちょうど習ってた講師の友達が向こうにいるから、家だけはそこに住まわせてもらうことにした。

母親だけが心配だったけれど、もう俺の事は止めなかった。

人からしたら何て情けない母親だって思うかもしれないけど、母親にこそ俺のワガママとかエゴとかに付き合ってもらったって感じ。


……とまぁ、それでドイツ行って有難くもそこでメキメキ腕を上げさせてもらってさ。

戻ってきたら全然あいつらとはレベル違うし、コンクールに出てもあいつらは本選には出てこなくなってるし。

なんだか俺も都心にいるのはどうでもよくなって、母親と一緒に実家に戻ってきたわけ。それで今に至るってとこ。




* * * * * * *




話し終わり、一息つく。

一気に話して頭が少し疲れた。ミルクティーを一口飲んだら、糖分でいくらか落ち着いた気がした。

フユカちゃんは、何も言わない。

俺の中に少しの申し訳なさが生まれたけれど、俺はもう少しだけ続けた。



「前の時は、将来の自分の野心の為に留学してバイオリン弾いてた。まぁ、今回の留学も野心は当然あるよ。でもそれだけじゃない。本当に自分の腕をもっともっと高めたくて、行くんだ。……俺は俺の才能で絶対に成功したいから。……ってそれ完全に野心か」


そう俺が笑ってみせると、フユカちゃんもやっとそこで笑みをこぼしてくれた。

そして言ってくれた。


「……スギタ君の演奏の凄みの正体が分かった気がして、やっと自分の中で腑に落ちたよ。……だってすごいもん。どうしてスギタ君の演奏には、怖いくらいの勢いと、こっちの胸が破けそうなくらいに憂いを感じるんだろうって、正直ずっと思ってたの。

……なんだ。全部、スギタ君が出てたんだね」


真正面から物事を受け止めて、まっすぐに相手に伝える。

落ち着いて、物おじせず、それでいて傍に寄り添う。

……そんな強さを感じる子だから、彼女の前では何となく嘘がつけない。

フユカちゃんが、ユアにもリツにも好かれるのが分かった気がした。


実際、俺の話もフユカちゃんだから話せたような気がする。

どうしてだろう。この子には不思議な雰囲気がある。


俺は、こっちに来てからずっと感じていた事を話したくなった。

何故ならこっちに来てからは本当に楽しくて良い事ばかりだったから。


「高校に来て、ユアやみんなに会って、初めて気持ちのゆとりができた。

都心にいた頃はずっと息が詰まってた気がする。勿論目的は変わってないけど、都心にいた頃よりずっと心が自由なんだわ。何か前よりも性格が明るくなった気がするし、面白い話だけどそれで講師からも音に柔らかさが出てきた言われて、音楽や楽器ってマジで心と繋がってんだなって思ったし」


本当だ。

もちろん都心のほうがレベル高い弾き手が沢山いるけれど、全日本コンクールとかデカイ大会に出てしまえば本当に巧いやつしか残らない。

しっかりした良い講師と機会さえ逃さなければどこにいようが変わらないんだというのも分かった。

それでも、一通り言ったところでもフユカちゃんは食い下がらずに言った。


「これは私のお節介になるけど……それでも本当にユアちゃんには正直でいなくていいの?海外に行くなら余計に……だって数カ月しかないんだよ。どうせ何にも話さないまま卒業して、海外行っちゃうんでしょう?

……スギタ君、絶対後悔するよ。今じゃなくて、何年も何十年も先で、後悔すると思う」


たしかに、そうかもしれないなと思った。

けれど、乗りかかった船じゃなくて最初から乗ってしまっている船であることは自分が一番分かっていた。

そのためには何かを手放さなきゃいけない事も、優先順位をつけざるを得ないことだって分かっているつもりだ。

もう俺は決めていた。

地面に散りばめられた光を見ながら、自分の中に微塵も迷いがないのを再確認した。



「成功するまでは正直、恋愛とか考えられない。二の次になる。それは絶対なんだ。

つーか、好きな女の子に堂々と二の次扱いしたくないし、俺は俺の人生の目標を早く達成させたい。それが前提。


……だから、付き合わないよ。ユアとは」



俺の言葉にフユカちゃんは一瞬悲しそうな目をしたけれど、納得したのが分かった。

多分、俺を説得することはもうないだろう。



それに、俺なんかとは雲泥の差の育ちなのは誰よりも分かってるんだ。


ユアにも気持ちを強いたいわけじゃない。

俺が勝手にユアを好きなんだ。


全てを言ったところで、戸惑うに決まってる。



「……こんなん、聞かせらんないっしょ。それに全然人生も違うし」


無意識に、呟いていた。

口にした後で、多分こっちが俺の本音かもしれないと思った。

そんな俺に、フユカちゃんは言ってくれた。


「でも、もう遅いよ。ユアちゃんの気持ちはきっと決まってるもの。それは、スギタ君には決められないことでしょう?」


フユカちゃんの言葉に、俺も何かを言おうとしたけど結局何も言葉が出てこなかった。

しばらくするとリツがゲン君と戻ってきたので、俺達は無言のままミルクティに一口つけた。





夕方頃、家に帰ったけど母親はまだ出かけたままだった。

俺はとりあえず飯を炊いて、冷蔵庫を見ると大根と油揚げがあったので味噌汁を作る事にした。

作り終えて味見をしたところで玄関のドアが開いた。母親だった。

何やら色々な袋を引っ提げて騒がしく入ってくる。


「あれ?リュウセイ、夕ご飯作ってくれてるの?ありがとねー!ただいま~!」

「米と味噌汁しかねーけど。にしてもすげー荷物だな。どこ行ってた?」

「やぁね。私前に言ったじゃない。今日はお店のスタッフで日帰りバス旅行って。ちょうどよかった。サービスエリアであんたの好きな餃子買ってきたから一緒に食べよう」

「明日ニンニク臭いまんま登校かよ」

「寝る前に牛乳飲めば消臭になるって聞くわよ。リンゴもあるしそれ食後に切ればいいから。台所ちょっと貸してね~」


母は上着を脱いで荷物をダイニングデーブルに置くと、腕まくりして手を洗う。俺はそのまま母の夕飯作りを手伝った。


たらふく焼いた餃子を二人して食べて、出掛け先で買ってきた白ワインを母は飲んだ。

ほんの少し飲んだだけでも顔は赤くなって、試しに俺も一口飲んだらジュースのように甘かった。


「こら、未成年が飲むんじゃない」

「一口だけじゃん。てかこんな甘っこいのでそんな赤いのかよ。全部飲めないんじゃねーの」

「いいのよ!そしたら料理に使っちゃうし。私はお酒弱いのにあんたは強そうね」

「ま、向こう行ったら飲みまくりだろうな」

「こらこら」

「母ちゃん、俺が向こう行ったら、男作っていいからな。てか今からでも良いし」

「え?あんた何言ってんのよ。もうそんなものいいわよ」

「ただ言ってみただけだって」

「そんなの心配しなくていいのに」

「あはははは」

「こら、笑うんじゃないの」


母は酔っぱらいながらも、本当に心から楽しそうに笑った。

どんな母親でも、俺はこの母親でよかったと思う。

どんな風に思いながら俺を産んで育てて、俺の道も許してくれたか分からない。……多分、俺がバイオリンをするのは正直嫌がっていたと思う。

けれど、俺が一人前になって成功したら、俺自身だけじゃなく俺を産んでくれた母親の人生を肯定することができる。

それに、恋人を見つけて欲しいのは本当だ。

俺の代わりに傍にいてくれるような……ワガママを言ってしまえば、バージンロードの先で待ってくれるような男が、母にも出てきたらいいのに。

離れてしまう分、母親には幸せになってもらいたい。


「でもさ、マジで彼氏できたら、ゼッタイ俺に紹介しろよな」

そう言ってみせると、母はまた呆れ笑った。






そのまま季節は過ぎて、年を越した。

センター試験も無事に終わり、レッスンの合間に学科も抜かりなく勉強しなきゃいけなかったので、一応の結果に俺も他の同級生たちも正直ホッとしたところだ。

ただ、藝大受験組は試験日程も合わせて合格発表が3月ギリギリなので気は抜けない。みんなピリピリしていた。


もちろんユアたちともあんまり話す事もなく、年末くらいからユアは何となく俺とは距離をとっているような気がしたので俺もそのままにした。

前みたいにしょっちゅう口げんかみたいなやりとりをしていたのが懐かしいような気がする。

相変わらず俺は師匠のとこのレッスンに通っていて慌ただしい毎日だ。

実技試験に向けた練習手ごたえも今の出来なら大丈夫そうだと言われたし、この分じゃ卒業まで本当にあっという間だろうなと思った。


2月になると、学校はもう自由登校になっていた。

俺はとりあえず英語教師にこまめに顔を出すように約束されていたので師匠のレッスン前には必ず通うことにしていた。


この日も登校して3年の英語担当の教師とマンツーマンで個人授業をしてもらった。

英語教師と言ってもドイツで育った経験のある人なので、これから留学を視野にいれている音楽科の生徒からしたら頼もしい存在だった。


語学レッスンは昼頃に終わり、学食に顔を出すと後輩たちが次々と「スギタ先輩だ!」と声をかけてくれて、一緒に食べながら学校生活の他愛ない事を話した。

食べ終わって学食を出ると、たまたま登校していたスポーツ科の同級生から昼休みのサッカーに誘われ一緒にサッカーをした。

サッカーは転んだりしないかぎり指を怪我したりもしないから思いっきり楽しめる。

友達にドイツに行く事をめちゃくちゃ羨ましがられたので、サッカーの生中継がこっちで映らなかったらリアタイでスカイプしてやるよとかって冗談を言い合って笑ったりした。


午後の授業の予鈴が鳴る。

俺は何となく教室へと向かった。

自由登校になってからは3年生はほとんど学校に来ない。



がらんとした教室は、いつもより広く感じた。冬だけど午後の日差しは充分に暖かい。


俺は窓際にある自分の席に座ってぼーっとしてみた。

別棟の音楽室から音楽が聴こえる。

ビゼーのペールギュントだった。

おそらく合奏授業だろう。第1曲の朝のパートはとくに好きな曲だった。


目を閉じて、バイオリンを弾く気持ちで指のポジションを頭の中でイメージしていると、

「スギタ……?」

思いがけない声に俺は教室のドアのほうを振り向き、驚いた。


ユアがいたからだ。


何だか久しぶりに見るような気持ちだ。

相変わらず黒い髪が艶やかに肩に流れていて、より肌が白く見える。

気の強そうな大きな瞳は俺を捉えると、どこか遠慮がちに言った。


「……学校、きてたんだ」

「ユアこそ珍しいじゃん。どしたん」


ユアは近くに寄ってきた。

バイオリンコースの教室へは初めて入るから新鮮なのか、辺りを見回している。


「ロッカーに忘れたままの楽譜があったから取りに来ただけ」

「なんだ。俺に会いにきてくれたのかと思った」

「ばっかじゃないの。何で私があんたに会いに来なきゃなんないのよ」

「俺、あと少ししたらホントに行っちゃうからさ」


ユアは何も答えなかった。

俺の前の席に座ると、二人して校庭をそのまんま眺めた。


いつもは口喧嘩ばかりだから、無言で二人でいるのは変な感じだ。

校庭で行われている体育の授業の音、合奏の音。

それらが混ざり合って、いかにも学校の日常なのに、この二人の空間だけが静まり返っている。

ここだけ別の世界にいるみたいだ。


遠くを見つめるユアの横顔を改めて見る。

整った鼻筋に、花のように色づく薄めの唇はいつも何かを決めているかのように結ばれている。

彼女のピアノは勿論好きだけど、同じくらいに見た目もすごく好きだ。

多分、これが一目惚れなんだろうなと思えるくらい。


「……ユア。東央、頑張れよ」

「こればっかりは神のみぞ知る、でしょう。何浪もしてる人もいるわけだし」

「それもそうだな」


特別とも言えるようなこんな二人きりの瞬間なんて、もうこの先訪れないかもしれない。

何故だか急にそう思った俺は、柄にもないけれど初めての言葉を口にした。


「俺、お前の弾くやつで『愛の夢』が一番好き」

「……何よ、急に」


やっとこっちを見た、と思う。

少し戸惑いを見せた表情が少しだけ幼いと思った。


「だってもうこんなのユアに言えなさそうな気がするし。学校も自由登校になってるし。

……たぶんユアと知り合って、初めてコンクールを見に行ったときの曲。高1であれだけ表現できんの、すげーなってちょっと感動したし。だからデュオでしょっちゅう組んだのも、すげー楽しかった……今度の謝恩会のピアノは別の奴になっちゃったけど、最後だからホントはお前と弾きたかったし。ま、しょうがねーか」


こんな風に話せる時間はないかもしれないと思ったら、今まで伝えたかったけれど伝えられなかった言葉がスラスラ出てきた。

いつもはふざけてるから絶対に言えなかった言葉たちだ。

柄じゃないと分かりながらもすべて伝えたら少しだけ心がすっきりした。

そんな、いつもと違う俺にユアが戸惑いながらも何か言いたそうだったけど、何も言わずに視線をまた校庭へ戻した。


けれど少し間をおいて、ユアは呟くように小さな声で言った。



「……私だって、好きよ」



今度は俺の方がビックリしてユアを見ると、焦ったように顔を真っ赤にさせた。

肌が白いので、本当に花が咲いたようだった。


「違う。あんたの演奏。……何だかんだ、一緒に組むのは楽しかったし。……大変だったけどね」

「……そっか」

「沢山色んな演奏したし、あんたのも聴いたけどさ。……沢山のソリストの中でも……私はスギタの音、結構好きかも」

「まじで?……あっちでも超励みになるわ。さんきゅ」

「でもホントは、まだ聴きたい曲……ある、かも」

「え、なになに。リクエスト答えちゃうよん。絶対弾くし」


俺がいつもみたく調子よく答えたらユアは目を逸らして、一瞬言葉を詰まらせたのが分かった。

そんなに難しい曲だろうかと思っていると、ユアはためらいがちに言った。



「あんたの『きらきら星』が、一番聴きたい。……ずっと」



「……ユア?」



その瞬間、頭の中で光が弾けたような感覚がした。

今まで浮かんでいた疑問の粒が小さな光になって、点で散らばっていた光と光が線になり繋がって、それを確信だと思って良いんだと何かに言われたような気さえした。



ずっと“もしかしたら”って思ってた事がある。入学した時からずっと。


もっと言えば、ピアノコース主席入学者のユアの演奏を見た瞬間だ。



……―ユアが、あの病院で出会った『きらきら星』の女の子なんじゃないかって。



会った事なんてあのたった一日だけだったけれど。

ほんの少ししか一緒にいなかったけれど。

名前だって聞けなかったし、声だってあの頃とは違うけれど。


でも、面影は同じだった。

笑うと、やっぱりあの女の子だとずっと思ってた。


……それなのに、俺は聞けなかった。


ユアの事を知れば知るほど、“知らない”“覚えてない”って言われた時を想像しただけで辛くなったから。

だから、聞かないでずっと胸の中にしまっていた。


俺が何を言おうか考えていると、俺の顔がよほど呆けていたのかユアは小さく噴き出した。



「リュウセイなんて名前、すぐ分かるに決まってんじゃん」


「……でも、なんで……。こっからも結構遠い都心だし、病院……」



俺の言葉はてんでバラバラだったけれど、ユアはそれだけで分かったようだった。

やっぱりユアがあの女の子だったのだ。

ユアは思い出すように目を伏せながら、懐かしそうにあの時の事を話した。


「あの頃ね、小児喘息が酷くて入院してたのよ。ピアノも頑張りすぎると興奮しちゃってか息するのも大変で。……そんな時に会ったのが“リュウセイくん”」


名前を敢えて強調されて少し気恥ずかしくなった。

けれど、俺はユアが一番苦しい時に出会ったんだと思ったら胸が震えそうになった。


「……あの日、鍵盤を押せば音が出るなんて当たり前のことなのに、久々にちゃんとピアノに触れて、自分で音を出せたと思ったら嬉しくて泣きたくなった。

あの後ね、気持ちが興奮して走って病室に戻ったくらい。もちろんすぐに体調悪化してみんなに怒られたけど、その時初めて絶対にピアノだけは諦めない、頑張ろうって思った。

またいつか“リュウセイくん”と弾けたらって。そのくらい一緒に弾いた『きらきら星』が楽しかったから。


その後、病院で会えず仕舞いになっちゃったけど、それでも大きなコンクールのバイオリン部門じゃ毎回気にしてた。名字は知らなかったけど、絶対にこの子だって思ってた。

でも私が中3になるとどうしてかパッタリ名前を見なくなった。

もしかしたら“リュウセイくん”はバイオリン辞めちゃったのかなって……そう思ってたら、同級生でこんな地方の高校の音楽科に一緒に入学してきたんだもん。名前も同じで、顔の面影もあるし目つきの悪さなんて変わってないし……嘘みたいって思ったわよ。

だから……本当はずっと、スギタの事知ってたの。高校入る前から。


一緒にデュオを組んだ時だって本当はすごく聞きたかったけど、あんた何も言わないんだもん。

だから、覚えてるのも気付いてるのも、私だけかもしれないってずっと思って、私も言わなかった。

それにあんたの性格までは知らなかったし、あんなにおちゃらけてるし、そのくせ音はすごく好きだし……。

どっちの“リュウセイくん”を信じたらいいのか分からなくなっちゃったくらいよ」



全部言い終わると一息ついて、困ったように笑った。

ユアの告白を聞いて、自分の指の感覚がなくなりそうなくらい俺は動揺していた。

それこそ、俺の方が夢見てるんじゃないか。


「……だって、お前、名前言わなかったじゃん。あの時」

「え、そうだっけ?言ったと思うな」

「いや、ゼッタイ言ってねーから」

「そんなはずない。言ったし」

「お前の方から見つけてくれてたんなら……何で言ってくれなかったんだよ」

「だってあんたがこんなにもちゃらけてるなんて思わなかったし……私ばっか追いかけてるみたいで、嫌だったし」

「……まぁこっち来たら、徐々にちゃらけたっつーか」

「同じだっつの」


ユアに突っ込まれて否定できなくて笑ってしまったら、それにつられてユアも笑った。

こんな時間が約束されてたなら、もっと早く俺から言えば良かった。

過ぎてしまう時間がこんなにも惜しくて離れがたい。初めて本気でそう思った。


『運命』だなんて、稚拙な言葉だとは思う。

だってそれって全て思い込みのようなものだから。


それでも、きらきら星を弾いた時から、入学式でユアを見かけた時から、デュオを組むたびにも、こうしてお互い打ち明け合った後にも……『運命』ってあるんじゃないかって、思わずにはいられなかった。

ひょっとしたらその思い込みってやつに、自分の運命を変えるくらいの大きな力があるんじゃないだろうか。



ひとしきり笑って落ち着いたユアの指先に、俺は勇気を出してそっと触れた。


引かれるかと思ったけれど、ユアはそのまま受け入れてくれた。

あんまりにも嬉しくて何も考えられなくなりそうになりながらも、ユアの指は俺のよりもずっと細くて、これであの力強い音を奏でているんだと思った。


もしかしたら、音楽は『人』そのものなのかもしれない。

俺も、ユアも、その音が好きだと思うのと同時に、どこかで好きだと思っているから自分の心に響いてくるのかもしれない。

この感情を、ユアにそっくり伝えられたらいいのにと思う。けれど、ユアも何となく同じような事を思っている気がした。


「俺、あの日があったからずっとバイオリンやってこれたんだ。これからにも、向かっていける。……お前なら絶対受かるよ。初めて組んだ時から巧かったし、きっと大丈夫」


するとユアは、俺の手の下に重なっているそれをくるりと返し、柔らかな力で俺の手を握った。

そして俺をいつものように真っすぐ見つめた。



「……私、絶対に東央受かるから。それで、ドイツに留学するから。……そしたら……今度は私の方から、リュウセイに逢いに行くよ」




こんなの、『好きだ』とお互い言ったようなものだ、と思った。


気持ちごと向こうに持って行くつもりだったのに。

手放そうと覚悟もしたし、誤魔化す為にかっこつけたくもあった。


それなのに、今こうしている瞬間でさえ気持ちは惹かれ続けていて止まる事を知らない。



やっぱり、好きだ。 


好きだ、 好きだ、 好きだ。



俺はユアの事が、本当はすごく好きなんだ。

あの頃から、ずっと。


何物にも変えられないし、天秤で計れないほど、ずっとずっとユアと本当は一緒にいたい。

もっと傍にいて色んな話をして色んなものを見たいと思うほど。

ユアと一緒に弾く瞬間だけが、純粋に音楽を好きでいられた時間なんだ。



「……絶対、待ってる」


気がつけば、そう返事をしていた。

魔法みたいに自然と引き出された俺の言葉に、ユアは本当に嬉しそうに頷いて微笑んだ。


自分はもう少し大人だと思っていた。

けれど、それは俺の勘違いだったようだ。

フユカちゃんの「絶対に後悔するよ」って言葉がふいに思い出されて、心の中でおとなしく頷いた。

だって好きな子の笑顔を前にして気持ちを止められるわけがないんだと、俺はようやく気がついたから。




ユアの受験が終わったら、その時は一緒にきらきら星を弾こう。

きっとユアは頷いてくれるだろう。もう心が繋がっているのが、分かってしまったんだから。

もしかしたらその時に、言わないと決めていた気持ちを言ってしまうかもしれないけれど、そしたらその時はその時だ。


自分の心に正直になるしかないだけだ。



ユアの綺麗な黒髪が光に透けて柔らかく輪郭をつくっている。

お互い握り合っていた手はいつの間にか、指を固く絡め合っていた。






( 流れ星なんかじゃないよ。初めて出会ったときから、ずっと一等星だった。 )

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