「乾さん」

 ぼくは見るも無惨な、上半身だけの姿となった乾さんに駆け寄った。

 乾さんは微動だにしなかった。

 彼の胸に手を当ててみたが、彼の鼓動を感じることは、もうなかった。

 死んだのだ。乾さんは。

 幼少の頃から兄のように慕ってきた、ぼくの大切な人がまたひとり、この世を去ってしまった。

 眼の奥からこみあげてくる熱いものをぼくは必死に押さえ、乾さんの半開きになったまぶたを、そっと閉じる。

 ぼくたちがこの戦を終わらせますよ。必ずね。

「ちょっと待ってよ。隊長が死んだら私の報酬はどうなるの」

 霧崎が顔をしかめて抗議した。

「今はそんなことを話している場合じゃないだろう。終わった後に赤鳳隊の本部にでも請求してくれ」

 ぼくは苛立いらだちを隠さずにそう返した。

「連中が素直に払うわけないでしょ。隊長が軍事費の中から必要経費をこっそりかさ増しして出してたんだから。あんたらの誰かが出してよ。二千万。全員でカンパしてもいいから」

「いい加減にしてください」

 赤月が珍しく眉間にしわをよせ、怒気のこもった声で言った。

「何。その眼は。文句あるの。ねえ」

 赤月が向けたむき出しの敵意に霧崎もますます不穏になる。

「おい。やめろよ。敵地のどまん中だぞ」

 仕方なく仲裁を試みるが、ふたりは聞く耳を持たない。

「麗那先輩」

 ぼくは麗那先輩に助けを求めたが、彼女はそんなふたりのやりとりを見ているのが面白いのか、ただにやついていた。本当にこの人は。

 しばらくにらみあいが続いていたが無益だと悟ったのか、霧崎は反転し、来た道を戻りだした。

「やってらんない。金がないならあんたらとはここでおさらばよ。せいぜいあがいて死ね」

 この女、本当に金にしか興味がないらしい。そんな彼女の背中をにらみつける赤月と、どうでもよさそうに手をひらひらとふって見送る麗那先輩。勝手にしろと言わんばかりにふたりとも無言だったが、この先どんな強敵が待ちかまえているかもわからないのに霧崎が抜けるのは正直痛手だった。谷垣と根津のコンビも、霧崎がいなかったら倒すのは難しかっただろう。どうにか引き止める方法はないものか、と、ぼくはせいぜい並程度の脳回路をフル稼働させた。

「おい。ちょっと待てよ。金なら夢葉が払ってくれるぞ。あいつの家すごい金持ちだし」

 ダメもとで言ってみたが、霧崎は一瞬足を止めたものの、振り返らずにそのまま行ってしまった。

「私たちだけで何とかしましょう。あんな人、帝に懐柔かいじゅうされて裏切るのがオチです」

 赤月が不快感を隠さずに言った。損得だけで動く霧崎のような人間が心底嫌いなのだろう。


 その後、ぼくたち三人は帝ビルの最上階である四十五階へ向けて歩を進めた。事前に得た霧崎情報では、夢葉は最上階のどこかの部屋に幽閉されているということだった。

 四十四階は展望室と展望レストランがあり、先ほどの三星たちとの争いでところどころ床が崩れていたものの、開戦前の原型をとどめていた。窓の外には分厚い雲が空を覆っており、重低音をとどろかせてところどころ光っていた。これは一雨くるかもしれない。

 最上階への階段へいたる道に何人か学生兵が潜んでいたが、ぼくが手を下すまでもなく、麗那先輩と赤月が一蹴した。決して彼女たちより早く動けなかったわけではない。

「ところで」

 階段を前にして数瞬ほど何かを考えた後、赤月は言った。

「提案なのですが、犬井隊長が死に、会長……大和さんと秋月さんの行方がわからない今、このまま私たち三人で上へと進んでいったところで本来の目標である夢葉さん救出と白虎学園の無力化、すなわち帝陽輝討伐を両方遂げるのは、難しいと思うのです」

「ふんふん。それで?」

 麗那先輩が挑発的な笑みを浮かべて赤月の顔を覗きこんだ。次に何を言いだすかわかっていて、わざと訊ねているようにぼくには見えた。

「夢葉さんの捜索を優先しましょう。我々赤鳳隊が今後革命を継続していけるか否かは、彼女にかかっています。ここで彼女を失うことは」

「なに腑抜けたこと言ってるのかなあ。このは」

 赤月の言葉を遮って、麗那先輩が言った。

「こんな、RPGで言えば魔王城の一番奥まで来ておいてそれはないでしょー。ルリルリ。空気読もうよ。ここでラスボスに挑戦しないで帰るなんて、盛りあげるってことを知らないのかなあ? ねえ。考え直そ? ねえ。ねえねえねえ」

 眼を見開き、威圧するような半笑いで、麗那先輩は赤月に詰め寄った。

「任務は遊びじゃないんですよ。紅さん」

 赤月は毅然きぜんとそう言ったが、すぐに物怖じしたのか、わずかに顔を退けた。無理もない。先ほどの麗那先輩の超人っぷりを見せつけられておいて平然といられるのは同格以上の猛者か、命知らずの愚か者だけだ。ぼくだったらあまりの恐怖につい彼女の要求を飲んでしまうだろう。

「我々の目標は戦を終わらせることです。敵を殺すことではありません」

「戦を終わらせる、だって」

 麗那先輩はますます威圧的に赤月に顔を近づける。鼻と鼻が触れそうになり、赤月はじりじりと後退していく。

「そんなこと本気でできると思ってんの? 話しあいで解決するような相手なら最初から戦争なんてやらないでしょ。人間はどこまでも強欲で、枝を張りあいながら、今まで戦を繰り返しして生きてきたんだよ。ここで仮に帝のお坊ちゃんを倒したところで、火種はそこら中にあるよ」

「だったら、あなたは何のために戦ってるんですか」

 赤月のその問いに、麗那先輩はただ笑ってるだけで、何も答えなかった。その態度からはまるで話しあおうという意思が感じられなかった。価値観のまったく異なる人間相手に議論すること自体がそもそも無駄で、必要もないと考えているのかもしれない。

「いいえ。愚問でしたね。あなたは血に飢えた獣です。この戦を終わらせる気なんて最初からなかった。はじめから、赤鳳隊に入るべき人間ではなかった」

「おい。よせよ、赤月。麗那先輩も」

 高まる緊張に耐えかねてとうとうぼくは仲裁に入った。こんな敵地のどまん中で、一体彼女たちは何をやっているのだろう。

 ぼくを無視して赤月はそのまま続けた。

「隊長は私です。私の指示に従えないのなら、ここで別れましょう。私たちは夢葉さんを捜します。ひとりで魔王に挑戦してください」

 虚勢を張るように若干声を荒げて、はっきりと赤月はそう言った。赤月の意志が固いとわかったのか、麗那先輩の顔から威圧的な薄ら笑いは消え、ねたように口を尖らせた。

「つまんないやつぅー。縁人くん、こんな空気読めない娘はほっといて、私たちだけで行こうよ」

 ぽん、と、ぼくの方の上に乗せられる麗那先輩の手。大きさでいえば男であるぼくよりも小さいはずなのに、彼女のあふれんばかりの力強さ、生命力がひしひしと伝わってくる。

「縁人さん。ここで私たちがたおれればすべてが終わります。犬井隊長は無駄死にですよ」

「だったら何よ。縁人くんは縁人くんでしょ」

 麗那先輩は、余計な口出しをするなと言わんばかりに赤月をにらみつけた。

 ぼくはぼく、か。

 そう。ぼくの支配者はぼくで、他の何者でもなくて、恩人であろうが惚れた女性だろうが、何人もぼくの意思を決定することはできない。

 ぼくは今しがた、乾さんの亡骸なきがらに「戦を終わらせる」と誓ったばかりではないのか。

 母や友人たちを奪ったこの戦を憎んでいたんじゃなかったのか。

 流されてはならない。

 たとえ相手がぼくの惚れた女性、麗那先輩であったとしても。

 つばを飲みこみ、緊張しながらも、ぼくは麗那先輩の眼を見て、言葉を紡ぐ。

「麗那先輩。すいません。ぼくは夢葉を捜しに」


 ばしーん。


 口上の途中だったが、ぼくの頬に、麗那先輩の反対側の手が、豪快にたたきつけられた。

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