閉鎖的五分間
目の前のけたたましい室外機が、今はとてもたくましい。
その音と、陰に隠れるようにして、鼻と口を手で押さえ込む。すぐに、通り過ぎるリュックの影が見えた。
暫く経って路地を出れば、脚はがむしゃらにマンションへと走りだす。
早く。
エントランスに着けば、脚は早歩きに切りかわる。誰にも話しかけられたくなかった。
エレベーターの扉が見え始めた。
近づいている筈なのに、どんどんぼやけて見えなくなる。一杯に溜まった涙が両目から溢れ、あと三歩でボタンに触れるという時、丁度扉が開いた。
ぐちゃぐちゃな顔を曝したくなくて、下を向いたまま乗り込む。扉のすぐ傍、ボタンの前を陣取った。鼻を啜り、「6」と「閉」のボタンを押す。
垂れる髪の間から見た、自分の体はボロボロだった。スーツは泥だらけ、ストッキングは破け、ヒールで駆けた足が痛い。
早く。
早く帰って、お風呂に入りたい。
気難しい部長に怒鳴られ、通勤定期を落とし、帰宅ラッシュの駅で派手に転んだ。挙句の果てには、変な男にまで追いかけ回される。
震える喉から、ふう、と息を吐けば、落ちる涙の雫が量を増す。
部屋に着く前にへたりそうになる脚を支えたのは、背後に感じた気配だった。
ゴホッ。 フゥー。
咳払いの後、「心底疲れた」とでもいうように吐き出される溜息。中年男性のそれだと、一瞬で分かった。
どうしてだろう、とても慰められる。
口に入る鼻水を必死に啜り、顔を這う涙を拭う。もうちょっとだ、我慢しよう。
そう決心し、余計な回想を止めたのが四階に到達した頃。今日五度目の災難は、そのすぐ後にやってきた。
ガタッ、ガタンッ! ブッ。
「!」
「おいおい、なんだぁ?」
唐突に揺れを感じ、照明が消えた。
ゴンッ―――
何か音が聞こえた。真っ暗で何も見えない。
ケータイのライトを、と考え鞄を漁るが、運悪くバッテリーが切れていた。怒鳴られた後の昼休み、部長の愚痴を長々と掲示板に書き込んだ事は反省する。
どうすればいいの。
そう嘆く時、天を仰ぐのは正解なのかもしれない。
「12」まで並ぶ二列の数字の頂点が、ぼーっと光っている。蓄光塗料が塗られているのだろうか、受話器マークのボタンが見えた。
そうだった、押さない事には始まらない。
「はい。○×セキュリティー、コールセンターです。どうされましたか?」
「え、えっとぉ。エレベーターが止まったようで、電気も消えてしまって真っ暗なんです! 緊急事態です!」
そこまでパニックになっていたつもりはなかったが、出た声は思いの外大きい。自分のものなのに、耳に入るたび切羽詰まって、粗末な状況説明しかできなかった。
「すぐに係りの者を向かわせます。中には何名いらっしゃいますか?」
「あっと、二名だと思うんですけど、」
「ひっ、ひっ、」
後ろの男性に確認を取ろうとした時、息を短く吸う、しゃっくりのような音が聞こえた。
「ぉぎゃあ、ぉぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ―――」
大きな泣き声が響く。
赤ちゃんがいたのか、私の声で起きてしまったのかもしれない。感じた雰囲気から、男性が抱えているようではなかった。だとすれば必ずもう一人、
ゴンッ―――
突然、エレベーターが緩く揺れだす。泣き声も止み、訪れた沈黙の中、緊張感はあっという間に小さな空間を埋め尽くす。
「はいはいはい、大丈夫」
しかし、張り詰めた空気は、穏やかな声によってすぐに散った。
「この子ったら、すみません」
赤ちゃんを抱え、あやすように体を揺らす女性が浮かんだ。良かった、やっぱり母親がいたんだ。
私は、スピーカーがあるらしき場所に向かって話しかけた。聞き取りやすいようなるべくはっきり、赤ちゃんを刺激しないよう最低限の声量で。
「あ、もしもし」
「はい、聞こえております」
「四人です。男性一人、女性二人、赤ちゃんが一人。だと、思います」
ゴンッ―――
「はい、ありがとうございます。では、―――?」
バタバタ、ギュッ。
オペレーターが何を言ったか聞いていられなかった。誰かが、転がるように近づいて脚にぶつかり、私のスカートを強く引っ張ったのだ。
「わっ!」
思わず出た大きな声に、口を手で覆う。幸い、赤ちゃんが愚図る様子はなかったが、未だにグイグイと引っ張れる裾に、別の恐怖が湧き上がった。
「どうされましたかっ」
オペレーターの上擦った声に、「助けて」と言ってしまいそうになった時、腰の辺りでか細い呟きが聞こえた。
「こわ、い」
「え、」
「大丈夫ですかっ。どうされました?」
「あ、すみません。大丈夫、でした」
振り返り、暗闇にゆっくりと手を伸ばす。
「?」
一番に触れたのは、無機物である何かだった。手を這わせると、徐々に形が明らかになる。上へとくれば、震える肩に行き着いた。
「ぼく、大丈夫?」
声で男の子だと分かった。恐怖からだろうか、衣服はしっとりとした感触がある。私は、肩よりも更に上の方へ手を伸ばした。
そっと触れた髪は、肩と同じく湿っていた。腰の高さにあるそれからは、汗の臭いがふわりと立ち込める。
「大丈夫だよ」
何か。今分かることで、何か話し掛けないといけない。そう思わせる程の震えが伝わる。
「リュック、重くない? 降ろしてもいいんだよ」
軽く触れる手の下で、頭が左右に動く。
体が一部覆われているということは、この暗闇では心強いのだろう。
「そう。大丈夫だからね」
たったそれだけのやり取りだったが、心なしか震えが治まったような気がした。スカートから手が離れ、静かに出された溜息が聞こえる。
頼られたからだろうか、私の中にあった不安の渦も、回転を弱めたようだった。最後にポンポンと軽く触れ、頭から手を離すと、壁際へと寄り添う気配がした。私の方が大人なんだ、しっかりしないと。
小さく息を吸い、まだ安定しない声で背後に呼び掛ける。
「私と、男性が一人。赤ちゃんを抱えた女性が一人、小学生の男の子が一人。の、五人で間違いないですか? 他に、誰かいませんか?」
男の子のように、恐怖で声が出せない人がいるかもしれない。
私はなるべく優しく問いかけ、暫く沈黙の中で返事を待った。何も見えない状況だと、音を頼るしかない。声が出せないのなら、物音でもいいから何か合図が欲しかった。そんな私の気持ちを察したかのように、他の乗客とオペレーターも沈黙を守る。
どれくらいそうしていただろうか。
時間の感覚が掴めないと、どうしても長く感じてしまう。もう充分だろう、と三回思ったところで、私はスピーカーに話し掛けた。
「すみません、全部で五人でした。小さな男の子も一人、乗ってました」
「分かりました、ありがとうございます。では、怪我をされている方はいませんか?」
後半の問いかけは、乗客全員に向けたものだった。
沈黙。
揺れはあったが大きくはなかった。今までのことも含めて、乗客にそんな様子はなかった。
「大丈夫、みたいです」
「ありがとうございます。では、止まった時の状況を聞かせていただけますか?」
「確か、ガタッという音が聞こえて―――」
一つ一つ繰り出される質問と、オペレーターの単調な声で、心は着実に落ち着いていった。
「そうですか、ありがとうございます。完全に故障してしまったわけではなく、少しエラーが起こっているようです。申し訳ありません。
緊急の連絡を頂いてから三分経ち、二十時三十三分になりましたが、皆さま変わりないでしょうか。気分を悪くされた方など、いらっしゃいませんか」
まだ、三分。これまでが三分なら、体感あと何時間で出られるのだろう。
でも、どれくらい経ち、今何時であるか分かったのは、精神的に有難かった。
「…大丈夫みたいです」
「そうですか、分かりました。もう十分程で係りの者が到着する予定です。状況を申し伝えるため一旦お声掛けを止めますが、繋がったままの状態です。何かありましたらすぐにお呼び出しください」
「はい、分かりました」
微かに聞こえていた砂嵐の音が、スピーカーから途絶えた。集中するものがなくなり、暗闇に放り出された気分だった。
いくら頭を巡らせても、この状況は忘れられない。
「…」
何か話し掛けようかとも思ったが、空気は重い。
中年(多分)男性、赤ちゃんと母親である女性、小学生の男の子。面子からすれば家族だが、案じ合う様子はなかった。偶々集まっただけの、赤の他人。
きっと、人生最大の不運日だった私が巻き込んでしまったのだ。心底申し訳ない。
「ふぅ、」
吐き出した私の息と、漂う汗の臭いが闇に広がる。本当に、誰も話さない。
男の子はもう大丈夫なのだろうか。せめて、ケータイがあれば。
お互いの顔だけでも見えれば、また違ったかもしれない。光源があるだけで気持ちも和らぐだろうし、男の子にはゲームでもさせてあげられる。
このエレベーターの照明にも言えるけど、ケータイにも、非常時用に電源が付く機能とか、ないのだろうか。
ゴンッ―――
今時皆持っているのだから、そんな機能を求めている人は他にも―――。
ゴホッ。 フゥー。
そこまで考えて、自分が全然落ち着けていなかった事に気付いた。
「どなたか、ケータイ、お持ちじゃないですか?」
皆に、特に咳払いが聞こえた方に、呼び掛ける。
「私のはバッテリーが切れてしまって。少しでも光源があれば、気分も軽くなると思うんですが。どなたか照らしてもらえませんか?」
「持ってないなぁ、」
返ってきた声は期待した相手のものだったが、返ってきた答えは期待したものではなかった。
「そうですか。…え、持ってない?」
バッテリーがないのではなく、ケータイ自体持っていない?
「ここ来る途中で、落としたらしい」
「そうですか、」
やはり、悪い事は重なるのだろうか。
「じゃあ、」
と、続きを言いかけた時、違和感を覚えた。“帰る途中”でなく、“ここ来る途中”、か。
この時間帯と雰囲気から、仕事帰りのサラリーマンかと思っていたが、住人ではなかったのだろうか。
「…じゃあ、女性の方は、どうですか?」
「…? 赤ちゃんを抱いてるお母さん? あの、少し照らして下さるだけで良いんです。ケータイ、お持ちじゃないですか」
「今、眠ってる」
ネムッテル?
一瞬、言っている事が理解できなかった。分かったのは、返ってくるのが相変わらず男性の声だけだという事だ。
「お、男の子は?」
「も、眠ってる」
「…眠ってるって、なんですか、」
そういえば、静かすぎる。
息遣いだって、とても五人分あるとは思えない。
「怖がってたから、眠らせた」
私と男性のもの以外、命が感じられないほどの、静かさだ。
「なにそれ。二人に、なにしたの」
「あまり喋り掛けるな、抑えるのに必死なんだ」
「なに、を」
「君のためでもあるんだぞ」
この人は何だ? 何を言っている?
ゴンッ―――
そして、さっきから聞こえるこの音。この音は一体なんだろう。不具合からくる、外で鳴っている音だと思ったが、違う。
鈍く響くこれは、外ではなく、中で、“何かがぶつかる音”のようだった。
「もしもし、こちらコールセンターです」
突然、頭上から聞こえた声に、強くなった警戒心が過剰反応する。
「ご気分を悪くされた方は、変わらずいませんでしょうか。…聞こえますか?」
「あ、はい、大丈夫、」
「分かりました、ありがとうございます。照明の方が復旧可能になりましたので、点灯を行います。眩しく感じるかと思いますが、よろしいでしょうか」
「…はい」
明るくなった先に、何が見えるのだろう。怖い。目をギュッと瞑れば、オペレーターが再度喋った。
「では、点灯します」
ブブッ―――
チカチカ、という音の後、瞼越しにも明るさが伝わった。ゆっくりと目を開ければ、垂れる髪と、ボロボロな体が映る。
まだ明るさに慣れないせいで、輪郭がぼやけ、はっきりとは見えない。
「ひっ、ひっ、」
ゆっくり顔を持ち上げれば、並ぶボタンと、単調な声が流れるスピーカーが見えた。
「カメラが無いのでこちらから確認できないのですが、問題ないでしょうか」
「はい、ちゃんと、点いてます」
「ぉぎゃあ、ぉぎゃあ、ぎゃあ―――」
「!」
私が答えた途端、泣き声が再び響いた。無事だったのか、という思いから勢い良く振り返る。
顔に強くあたる光の中、ぼんやりと、一つの黒い塊が見えた。
「ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ―――…」
徐々に明確になる視界の先。私の対角にいたのは、こちらを向いて座り込む、恰幅の良い大柄な男。
「先程から更に二分経ちました、」
背後から声が掛かかると、赤ちゃんの泣き声はもう止んでいた。
「現在二十時三十五分です―――」
はっきりと見えた、男の靴、服、顔が、私の中の警報を唸らせる。
「どうして…」
男はだらりと両腕を下げ、赤ちゃんを抱いている様子はない。いるとすれば、不自然に空いた男の背後、丁度角になっている所だ。
「あかちゃんは、?」
山ほどある疑問よりも、聞こえなくなった泣き声を優先させた時、目が合った。見開かれ、丸々とした目が私を見る。
「ぉぎゃあ!」
「!」
驚いて後退った拍子に、肘をエレベーターの壁にぶつけてしまった。
ゴンッ―――
「係員から連絡がありまして、あと五分ほどで到着できるようです。もう暫く―――」
そうか。
乗り込む前、確かにボタンを押すよりも先にエレベーターの扉は開いた。乗り込む時、ずっと下を向いていたけど、私は誰とも擦れ違っていない。
つまり、エレベーターが開いた時、誰か乗っていたのに、誰も降りていない。
それに、私より前に乗り込んだ人も、あとに乗り込んだ人もいなかった。
「―――?」
そうだ。そもそもこのエレベーターに五人いたら、肩はきっと、触れ合うじゃないか。
「―――?!」
オペレーターの声も、もう何も聞き取れないほど、耳の中で心臓が喚く。
座り込む男が、ふと意識を失ったかのように白目をむいた。ふら、と後ろに頭が倒れ、後頭部を壁に打ち付ける。
ゴンッ―――
丸々としていた目が嘘のように、あの虚ろな目へと変わる。
ゆっくりと立ち上がり、私を見下ろした。背に、黒いビジネスリュックを背負っている。「ニタァ」と、音が付くほどの口元から、唾液が糸を引いて床に落ちた。
「佐々木ぃ」
煩い鼓動の嵐の中、男の声だけが、切り取られたようにクリアに届く。
「掲示板、見たぞお?」
たすけて。あと五分も待てない。
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