最期の瞬間まで───
〈────「〉────」
気配が───変わった。
由莉の3度目の変化にいち早く気づいたのは音湖だった。さっきまでの由莉とは違う、真に暖かい由莉を感じた音湖は自然とその表情を緩めた。
(なるほど……そう来るかにゃ。……由莉ちゃん、やってやるにゃ。今の由莉ちゃんなら絶対に助けてあげられるにゃ。復讐の感情に溢れた天音ちゃんを、)
程なくして、マスターと阿久津も気づくと安心した表情になった。
あの───優しい由莉だと。
───────────────────
「……天音ちゃん」
「どうし、」
「私はあなたの事が大好きだよ」
「っ!?」
戦っている最中に急に動きを止めたかと思えば急にそんなことを言い出す由莉に天音は張っていた気が散ってしまった。
「強がっているけど、本当はすごく優しくて……」
「……だまれ」
「仲間思いで…………」
「だまれ……っ」
「寂しがり屋で…………」
「だまれって……言ってるだろうが!!」
怒りを隠しきれない天音は一気に由莉に詰め寄るとナイフを由莉の顔ど真ん中に向けて突き出そうとする。
……だが、由莉は一歩も動こうとしなかった。
突き出されたナイフはまっすぐ、ただまっすぐ───由莉の顔を刺そうとする。
…………それでも避けない。
「私は……そんな天音ちゃんを…………信じてるから」
ヒュンっ、と刃が空を切る音と共に───真っ赤な液体が溢れてきた。由莉の顔がみるみる間に血まみれになっていく。
「─────っ、なんで……ボクは…………」
「やっぱり……あなたは優しいね、天音ちゃん」
突き出されたナイフは由莉の顔面の中央───を大きく外れ由莉の左頬を掠めるに終わった。
天音は……刺す瞬間……『なぜか』手元が狂ったのだ。
何かが自分の行動を否定するかの如く…………。
その行動によって天音の体は言うことをほんの数秒効かなくなってしまう。そこで……由莉は最後の行動に打って出る。
「天音ちゃん、私と勝負しよ?」
「………は?」
「ルールは簡単。降参するか、気絶するか……死ぬまでお互いに全力で戦う。天音ちゃんが勝てば私は潔く引き下がる。けど、もし私が勝てば……その時はマスターの話を聞いてあげて?」
迷いのない……その瞳は殺意に塗れた天音の意志すら揺るがした。
天音の目的に抵触せず、自分の目的を潜らせた巧妙な……それでいて、由莉は天音を殺さないと明言する条件を突きつけられた天音は目を閉じると、ゆっくり頷いた……いや、頷かされた。
「じゃあ……やろっか」
ありがとう、そう言う代わりににっこりと笑った由莉の表情は────この場には合わないくらいきらきらしていて……寧ろ不気味だった。
だが、天音のする事はさして変わらない。
目の前にいる敵を……全員殺す、それだけだ。
なのに……なぜ由莉の勝負に乗ったのか自分でも分からない。けど、自分の中の何かが勝負から逃げることを避けさせた。
───………わけわかんねぇよ。
だが、由莉はそれを折り込みで勝負を申し立てたのだ。
えりかと天音に共通する所───いや、えりかの性格は天音の性格に含まれていると仮定を得た由莉は、その負ける事が大っ嫌いな性格を利用したのだった。
そうして2人は再びナイフを構え合う。
腰を少し落として構える天音に対し、由莉は……何をするわけでもなく、ただその場に突っ立っていた。
その態度に天音は怒りをぶちまける。言っておきながら舐めた真似をされるのは我慢ならない。
「てめぇ……っ、ふざけんなよ!!」
死にたいのなら殺してやる、と天音は一気に由莉に詰め寄ると脇腹から心臓を通って肩に突き抜けるコースを描くようにしてナイフを振り上げた。
────分かるよ、天音ちゃん。あなたの殺気が、あなたの動きが………。
当たったように見えたその攻撃は天音の攻撃範囲のわずか1ミリもない間だけ離れ、自分のジャージが切り裂かれただけとなった。
確実に当たったと思っていた天音は手応えのなさに目を見開く。
「……っ、何をした!!」
「避けただけだよ?」
天音の激昴にもサラッと蹴飛ばすように答える由莉にますます怒りを感じた天音は猛烈なラッシュを繰り出す。
ローキック、急所への刺突、拳でのストレート、回し蹴り───全部の攻撃を由莉は完璧に避けて見せた。
─────目を閉じたまま。
「っ、ありえねぇだろ……っ!」
「…………普通なら出来ないよ、こんな事。でも…………」
天音の困惑とも取れるその言葉に由莉は遂に瞳に光を灯した。
極限集中状態───《ゾーン》への扉を……由莉は……いや、由莉『たち』は自分たちの意志でこじ開けたのだ。
大事なものを守る、そのために。
この力に頼るのはよくないのは分かっている。だが、使えるものは何でも使うと由莉は決めていた。それが……覚悟となり、由莉を形作る。
「天音ちゃんを……私は助けたいからどんな事だってするよ」
─────────────────
その様子を見ていた音湖は最早笑うしかなかった。自分の出来る技術を……ゾーン状態にいるものの、完全に弟子に真似された事を───。
(……ほんと、由莉ちゃんらしいにゃ。それだけの力を……たった1人の友達を助けるためだけに身につけるなんてにゃ…………やっぱり、うちの弟子には勿体なさすぎるくらいだにゃ)
どこまでも伸びる弟子の姿は───音湖の目には太陽のように写っていた。実際……そうかもしれない。
音湖にとっても、由莉は太陽みたいな存在なんだから──────。
(由莉ちゃん、信じてるにゃ。その光で天音ちゃんの闇さえも取っ払えることをにゃ!)
そして、阿久津もマスターも同じ気持ちでいた。
(由莉さんなら……天音さんの心を変えられると信じています。……助けてあげてください)
(由莉……頼む。救ってやってくれ……その子を)
────────────────
想いの力、それは由莉に確かに伝わっていた。
音湖の想い、阿久津の想い、マスターの想い
何故だろうか、自然と笑みが零れた。
「ふふっ」
「よそ見……してんじゃねぇよ!!」
凶刃が由莉の脇腹のすぐ側まで肉薄するも斬ったのはジャージの布だけ。皮膚には掠りすらしない。
攻めても攻めても一切当たらなくなった由莉に天音は不気味さすら感じ始めていた。
勝負と言っておきながら、自分で一切攻撃しない事も含めて、だ。
「何でだよ……っ、なんで!!!」
天音には……分からないのだ。現状でさえ何も分からない。
対する由莉は……分かっているのだ。今の状況を全て分かっている。
それが心の焦りと心の安らぎを与え、大きな差へと至る。
「はぁぁぁあ!!」
遂に我慢の限界を超えた天音が暴発するように飛びかかった。
───それを由莉はずっと待っていた。
(ここだ!!)
由莉は狙うように天音のナイフ目掛けて自分のナイフを投擲する。
今まで一切動かなかった由莉の突然の攻勢にほんの少し驚きながら天音は激しい回転を伴ったナイフを辛うじて弾き飛ばし、遥か後方へと飛んでいった。
───天音ならそうすると信じていた。
そして、ナイフの動きに目がいってしまった天音は由莉の動きから一瞬目をそらしてしまった。
攻撃を全てよけられたことによる焦り、防戦から急転した攻勢による隙、由莉の行動の全ては───今、この瞬間にある!
突き出された右手に握られたナイフのグリップを天音の手ごと捕まえる。
そのまま天音の内側に潜り込むと、空いた左手で何度も頭を殴られるのをお構い無しに、腕を脱臼させるギリギリまで関節を曲げた。
「がぁっ!?」
(……天音ちゃん、ごめん)
呻き声を洩らしたのとほぼ同時に、由莉は手の力が緩んだ天音からナイフを強引に奪うと、マスター達のいる場所に投げ飛ばした。
実に単純ながら、1番効果のある一手───その為だけに、由莉は自分の持てる力全てを天音の焦りと隙を作るためだけに費やしたのだ。
(これで……。っ!?)
「ぐぅぅうっ!」
ナイフがない? 武器がない? それなら……
自分を武器にしろ
そう言わんばかりの天音は文字通り食い下がるように、由莉の首元に噛み付く。犬歯が由莉の柔らかい皮膚を易易と貫き、肉を抉る。
想像を絶する痛みが由莉の身体中の神経を一気に狂ったように叫ばせる。次第に首元と歯の間から血が溢れ出てきた。肩に出来た傷より、頬の傷より、ずっと多くの血液が由莉の肩を真っ赤にする。
咄嗟に左手の拳を握りしめたが……由莉はそれを振るうことはなかった。拳を緩め、手のひらを開き、唇を血が流れるくらい強く噛み、痛みを堪えながら、噛み付いている天音の頭を震えた左手で撫でてあげた。
優しく……とてもやさしく────。
「あま、ね……ちゃん。そのままでいいから……きいて」
痛みで気が狂いそうだ。頭もくらくらする。
それでも……そんな事が気にならないくらい由莉は天音を助けたかった。
「私、ね……天音ちゃんが……記憶を無くしていた半年の間、ずっと一緒にいたんだよ。
……本当に、優しくて……いい子なんだよ」
「…………」
なぜ……痛がらない? 苦しまない? 平然といようとし続ける由莉に天音は更に強く噛んで……首の肉を噛みちぎってやろうと思った。
だが……由莉の言葉をきいてそれが出来なくなった。やろうと…………思えなかった。
「凄いんだよ? 本当に強くて……最初の頃なんて一切手が届かなかった。拳銃を撃つのもすごく上手でね、私なんて叶いそうになかった。遠距離射撃の時だって、何回も何回も挫けずに練習して上手くなっていって……師匠として本当に、本当に嬉しかった」
だんだん…………寒くなってきた。
「料理も本当に美味しくてね、阿久津さんと作るようになってからどんどん料理の味が美味しくなっていくんだよ。不思議だよね……でも、それは……記憶をなくしていた天音ちゃんがずっと頑張ってくれていたからなんだって私にはなんとなく分かっていたよ?」
「…………」
「……すごく幸せだったよ。私は……天音ちゃんが隣にいてくれるだけでも……いいって思った。天音ちゃんを失うくらいなら…………世界を敵に回したほうがいい」
言葉に篭った暖かい感情。知らない事を言われている……そのはずなのに、心が……どうにかなってしまいそうだった。
「天音ちゃん……大切な人達がいるんだよね? 焦っていたから……辛い生活をしているって……心配で仕方がない、違うかな……違ったらもっと強く噛んで……いいよ」
噛めるわけがない
(あれ? 今、……)
天音の噛む力が徐々に弱くなる。
由莉の出血量はますます増える。
だんたん体が……寒くて手足の感覚が無くなってきた。声も震えてきた。
「その子達も……皆んな私が助ける……から。全員……」
「…………っ」
何か……大切なものを忘れてる? 天音の心にそんな考えが浮かんできた。段々と声が細く……弱くなっていく由莉を見て…………じぶんの気持ちが分からなくなっていた。
「私……天音ちゃんのことがもっと知りたい。天音ちゃんが心配している子達の事も知りたいな……。きっと……可愛いいんだろうなぁ……」
自分に出来る精一杯の声で話していても……もう、天音にギリギリ届けるのが精一杯だった。
意識が……少し朦朧としてきた。
ポタリ……ポタリ…………
由莉の首のすぐ近くに透明な雫が1粒、また1粒と……天音の瞳から流れていた。
何故かは分からない……だが……止まらないのだ。由莉の想いが……自分の中に自然と流れてくる。暖かく……優しく……そして、力強く。
天音は……噛むのをやめた。口が真っ赤に染まる天音は気づけば、支えを失って倒れようとする由莉を抱きかかえていた。
「なんで…………っ」
そんな理由なんて今はどうでもいい。今……一番、天音が聞きたいのは…………
「なんでっ、そこまでする!!! それに、お前……ボクに噛まれるのだって防ごうと思えば出来たんじゃないのか!?」
天音だって今の由莉が……瀕死寸前なのは目に見えている。噛んでからだって、顔を殴るなりしてこうなる事を防げたはずだと。
こうなるまでして、自分に話しかけてきた理由が……分からなかった。
「なんでだよ…………っ、なんで……っ!!そこまで………っ」
「だいすき、だか………ら。あまね……ちゃんが…………いま、も……えり、か……ちゃんだった……ときも…………」
「っ!!??」
「それ、に………こう、すれば………きいて、もらえ………る、かな………って。あなた……は、やさし……い、から…………」
倒れようとした自分を庇ってくれたことが何よりの証拠だよと、由莉は力のない腕で天音の頬を撫でた。
僅かに残された由莉の手の温もりが……天音を包んだ。
なんだか………覚えている気がした。
天音の記憶の中に……ある───僅かに残されたノイズのかかった記憶、再生すら出来ない記憶、思い出せない記憶、顔すら分からない記憶、
だが…………この温もりだけは覚えていた。
忘れちゃいけない……忘れたくないと誓った……なのにどこで……誰と……誓ったか覚えていない……っ!
あの子の……名前は………なんだった?
「だれ……だ……っ、いったい、誰と……っ」
「ぁ……ま、ね…………ちゃ…………────」
由莉の腕は……天音の頬を離れ、地面に力なく横たえた。潤んだ瞳もゆっくりと閉じていった。
その最期の瞬間まで───天音から目を離すことはなかった。
「……おい、返事をしろよ……おい! まだ……何も…………聞いてないぞ……っ」
天音は由莉を揺さぶるも……由莉が目覚めることはなかった。
1粒の涙を……床に遺して。
───────────────────
次話を今日中に出せるように頑張ります
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