episode6-4 少女の背後/紅の眼

 それは過去の記憶、“滝上隆一”というキャンバスについた初めての色。



 初めての目にしたのは病院のハチミツ色の天井だった。

「やあ、起きたかい?」

「う、あ?」

 柔和な笑顔を浮かべた高年の医者が、落ち着いた様子で包帯巻きの少年に話しかけた。

 少年は上手く発声することが出来なかった。それは事故のショックによるものと医者は言っていた。その後、少年が混乱しないように、日常会話を交えながら、段々と当時の状況を説明するという日が何度も続いた。



 それから数日後、父と名乗る男が突然現れ、飛び掛かってきた。

 少年はあまりの速度に反応することが出来ず、抵抗する暇もなく、その父なる人物に抱きしめられるがままになった。

「すまない……すまない……」

「んー、苦し……」

 頻りに謝る大男に対してどういう反応をするべきか分からず、男が冷静さを取り戻すまで少年はぼーっと天井を見上げていた。少年の肩は熱く濡れていた。

「隆一! 記憶が失われたとしても、お前は私の」

 父と名乗る男は、口下手で頭に浮かぶ言葉を少年に次々とぶつける。しかし、その思いは虚しく少年をすり抜けていった。

 初めて見た“父”の顔は涙に濡れ、崩れていた。



 それから、さらに月日が経った。

 父と面会して以降は、毎日のように足繁く父か母が少年の病室にやって来た。だが、この日はいつもと違って、“母”が“妹”という存在を連れて来ていた。

「ほら、椿姫。お兄ちゃんよっ」

「あ、あの……その」

「?」

 妹は母の後ろに隠れたまま、少し頭を出して少年の方を見て、口をもごもごさせている。

 少年は不思議に思った。妹は控えめだが自分に対しては物怖じをしないと聞いていたからだった。今は包帯も外されており、普段と違うのは病衣を着ているくらいしかない。少年は少女の言葉を待つ。

「あ、あの! ご、ごめんなさい!」

 妹が母の背中から飛び出て、床に頭が付きそうなほどに腰を曲げて謝罪する。

 少年の事故の原因に、少女も一端を担っていたからである。

「?」

 しかし、当の少年は謝罪している意味が解らず、首を傾げるだけだった。少女は両親に事実を伝えはしたが、両親はそれを少年に話していなかったためである。

 結局、その後も少年と妹の会話は途切れ途切れで、三分と保つことは一度もなかった。



「隆一、それは私がやろう。お前はまだ病み上がりなのだから」

「隆一、何かして欲しいことはないかしら?」

「お兄ちゃん、あたし……」

 少年の家族はいつ何時でも、少年に優しく接し、彼の身を案じていた。しかしそれは、少年が腫れ物のように扱われていると感じても仕方のないものでもあった。

 少年の居場所は常にあるようで、何処にもない日々はつい最近まで続いた。



 そして時は戻る。

 少年は青年へと、過去は現在へ進む。

「父さんや母さん、そして椿姫はいつだって優しかった。でも、その優しさは、昔の俺に向けられてるものであって、今の俺じゃない。記憶を無くしてからの俺には、自分の居場所なんて何処にもないって、そんな風に思ってました。それで、最近までは新しい自分を探すために、恋したり、まあ喧嘩みたいなこともやって今までの自分を否定するような真似をしてました。これが新しい自分なんだっていうことを、それを認めて欲しい一心で」

 青年は陽光の眩しさに目を細めつつも、薄っすらと開けた目で空の向こう側を見る。

 その目には、今まで命を奪ってきたモノ達と守ってきたモノ達の姿が映っていた。そして、彼らが言っていた言葉が青年の頭の中で響く。

「でもまあ、色んな事を経験して、俺の知らない自分も含めて俺なんだって思うようになったんです。ああ、いや格好つけました……本当のところ、昔の自分と今の俺が一緒なんて実感はないです。ここに来たのだって、何となくそうしないといけないっていう気持ちからです。……答えが見つからなくても、立ち止まっているわけにはいかないから」

「…………」

 風や蝉の鳴き声は変わらず聞こえているが、隆一の言葉は明瞭に聞こえる。

 風切は隆一の言葉が終わるまで何も言わずに聞いていた。

 そして、

「そっか、取り敢えず進む、か。時間がたくさんあって、無鉄砲で、向こう見ずな、若者らしい答えね……良いんじゃない? 悩め若人よ……って! 誰がババアだおらぁ!」

「自分で言ってるじゃないですか! それで人にキレないでくださいよ!」

「……その顔! 忘れるんじゃないわよ」

「え?」

 風切が隆一の顔を指差す。

 その顔は困惑混じりの笑顔であった。

「何時だって、どんな時だって、胸張って笑顔を作りなさい。笑う門には福来るってね。人間、笑っていれば案外元気が出てくるもんよ。笑わないやつはいつか折れる。……最悪が訪れた時にぽっきりとね。だから、アンタは笑顔でいなさい。アンタの湿気た面なんて、誰も見たくないはずだからさ、アタシもその一人」

「ありがとうございます……風、師匠。その言葉肝にぃ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 突如として、隆一が頭を押さえ、絶叫を上げながら地面をのたうち回る。

 隆一の目に映ったのはこの場の風景ではなかった。道場の塀ではなく何処かのオフィス、そして何よりも、そこにいた人物とその人物が置かれている状況が、彼の心臓を跳ね上げさせる。



「……椿姫!?」

 視界の主はオフィスの隅で、じっと何もせずに椿姫を見つめている。だが、今最も注目するべきなのは視界に映る椿姫のことだ。椿姫は今、危険な状態に陥っているという気持ちを感じる。

『……っ!』

 そして事実、椿姫は大勢の武器を所持した人間に囲まれ、それを向けられている。だが、椿姫は毅然とした態度を崩していなかった。彼女は決して諦めていない。この場を脱する術を必死に考えている。

 怒りの感情が直に伝わり、青年の頭を、そして心を痛めつけ、蝕む。



「行かなくちゃ……」

「病院!? 病院呼ばなくちゃ! えーっと一一〇番だっけ! それとも、一一九番!? ああもう! 普段なら絶対間違わないのに!」

 突然苦しみだした青年の姿を見て、風切は狼狽え、手元の携帯と格闘を始める。

「ああ……! 待ってくだ、さい! すいません、俺、帰ります……。今日は、ありが、とうございましだぁ……!」

「あっ、ちょっ! 待っ! ああ、行っちゃった。……大丈夫かしら」

 隆一はふらふらとしながらも、足早に道場を後にした。

 いつ倒れてもおかしくない状態だと、容易に判断できる。だが、残された風切は隆一の剣幕に気圧されてしまい、彼を制止しきれず、ただその背中を見つめ、不安を募らせることしか出来なかった。



 時を遡り、昼前。光金製薬本社ビルにて。

 椿姫は光金製薬のホールで開催されている、式典に招かれていた。彼女は周囲を怪しまれない程度に見渡し、作戦の障害になるものがないか探る。幸い、これといって怪しいものは見当たらなかった。

「……以上はなし、か」

 一瞬、礼服を身に着けた年配の男女と椿姫の視線が交わる。その男女は光金製薬の役員であった。しかし、問題はない。APCOに協力する、現在の主流となっている派閥と対立する役員たちだからだ。

『滝上、どうかしら異常はない?』

「ん」

 APCO第二班の班長である花咲の声が、耳元のインカムを通して聞こえてきた。

 椿姫は一度咳込んだ。これは“はい”という意味である。

『そう、なら問題ないわ。じゃあ、最後に今回の作戦について改めて確認しておくわよ。貴女は協力者と力を合わせて、新研究棟に潜入。“ブルーアイ”を製造しているという確かな証拠を掴むこと。……これが今回の作戦内容よ、いいかしら』

「ん」

『危険に陥る可能性があるから、こちらから連絡を取ることはないけど、緊急事態にはそちらから必ず連絡をすること。緊急事態の場合にはすぐに突入するから、安心して。それじゃあ、通信を終了するわ。研究棟に入る前に連絡すること、忘れないで』

 花咲との通信が終了する。

 それとともに、会場の照明が落とされた。スポットライトが当たる壇上には、先日同様、高級そうなスーツを身に着けた社長と、若い司会が立っている。

「それではこれより、創業二一周年記念式典・第二部を始めたいと思います。先ずは、社長の金光忠重より開催の挨拶とさせていただきます」

「んっ! 本日はお日柄も良く……」

 顎に分厚い肉が乗った男が、誇らしげな顔をして喋りはじめる。

 椿姫は興味なさげに視線を周囲に移す。頭の中では、この後の食事会での自身の行動を念入りにイメージしていた。

 全く、早いとこ終わらないかな――――少女は心の中でため息を付いた。



 しばらくして、金光の長い話が終わり、辺りからは招待客たちの会話が聞こえ始めた。

 恭しい態度をしたウェイターが、椿姫の目の前に次々と食事が載ったを並べていく。

「あんまり、無駄にしたくないんだけどなあ……」

 椿姫は目の前に並べられた料理たちに後ろ髪を引かれながらも、誰にも気取られないように、細心の注意を払いつつその場を後にした。

 行く途中、会社の関係者や滝上家と接点を持ちたい者から話し掛けられたが、トイレに行くということを遠回しに言うと、特に疑問を持つことなくすんなりと通してもらった。

「……っ」

 ホールを出ると、暗めの照明に目が慣れてしまったせいか、ビルに差し込む陽光によって、椿姫は目を細める。だが、足を止めている時間の余裕はない。片手で目元に陰を作りながら先に進む。

 監視カメラや警報機についても、今回は内部の協力によって切ってあるため、椿姫は堂々と歩いていく。怪しまれないにはこれが最善と言えるだろう。

 そして、数分と経たずに研究棟に向かうための渡り廊下の前についた。しかし、簡単には進ませてもらえない。目の前にはカードキーで開くタイプのロックが掛かった扉が行く手を阻んでいる。

「到着しました。今から内部に侵入します」

『了解したわ。健闘を祈ります』

 椿姫はインカムに小声で伝えると、おもむろにブーツからカードを取り出し、扉に取り付けられたスキャナーにかざす。これも、光金製薬の協力者によって得られたものである。何から何まで至れり尽くせりなことに、椿姫は若干の不安を覚えつつ、頬を二度軽く叩いてから扉を潜った。

「……」

 渡り廊下やその先に人の姿はない。いや、息遣いや足音なども全く感じられない。

 情報によると、記念式典に合わせて他の社員も社員旅行へ出掛けているのだという。

 これは好都合ね――――椿姫は足音を立てないようにしつつ、素早く廊下を進んでいく。

 不気味なまでに白で統一された廊下を抜けると、これまた白で統一された研究棟の前に辿り着いた。同時に、先程と同型の扉が椿姫の前で鎮座している。それも、当然のようにロックが掛かっていたが、先程使用したカードをかざすと簡単に開いた。

「よし……」

 少女は胸の内に不安を抱えたまま研究棟の中に足を踏み入れた。

 向かうは青い着物を着た女に声を掛けられた時の扉、恐らくはその先に探し物がある。

 扉の先は協力者の役員も知らず、建物の見取り図にも載っていない、未知の場所なのだ。

 無人の白い檻の中で、毅然とした態度を装いながら歩いていく。消し切れない足音が、廊下中に反響する。何処までも響くその音は、他に何モノかが入れば容易く少女の存在を気取ってしまうだろう。それは、少女にとっても同じことだが。

 件の扉の前には、すぐに辿り着いた。今回は周囲に警戒の目を向ける。

「ふう……」

 椿姫は懐からピッキングツールを出す。若干、泥棒のような行為をすることに対して罪悪感を覚えて、手の動きが鈍くなるが、迷っている暇などない。今は地獄の訓練で身に着けた開錠術を見せる時なのだ。意を決して、椿姫が目の前のマスターキーを差し込む。しばしの間、金属同士が擦れ合う小さな音が響く。

 そして、

「開いた……!」

 ガチャリという音がすると扉が開いた。それとともに、扉から漏れ出る冷たい空気に含まれる、嗅ぎなれない臭いが椿姫の鼻孔をくすぐる。まるで、腐った肉の臭いと砂糖の甘ったるい香りが混ざったような臭いだった。少女に備わった本能が、長時間吸ってはならないものだと伝えてくる。ハンカチを口元に当てながら一歩踏み込む。

 中には薄暗い緑色の照明に照らされる、長い階段があった。遥か下へと続くそれは、光を通さぬ深い闇に包まれており、その全貌を窺い知ることは出来ない。また、暗い室内を包みこむ空調の音は、亡者の呻き声のように低く野太い、趣味の悪いお化け屋敷のように感じた。

 暗すぎ……絶対不便でしょ。事故が起きても労災とか下りなかったりするのかな、如何にも悪の企業って感じだから。まあ、私が気にすることじゃないか――――

「ふう」

 ライトで足元を照らしつつ、一歩一歩、慎重に階段を下っていく。怪しげな臭いは進むごとに強くなっていき、無意識の内に椿姫のハンカチを押さえる手に力がこもる。椿姫の足音は壁に反響し、まるで椿姫以外の人間も往来しているようだった。しかし、他の人間の姿、気配は感じられない。

 ひんやりとした風が少女の頬を撫でる。ただの風に過ぎないというのに、ふやけた死人の手に触れられているような、不気味で、この世のモノとは思えない、奇妙な感触が体中を這う。その感覚は底に近づいていく毎に強まっていく。

「……なっが」

 暗い闇の中を掻き分け始めてから数分。

 底に辿り着いた椿姫は、一旦、膝に手を当てて息を整える。その間もライトを向けて辺りを確認することを忘れない。こうしている間にも、異形の存在やそれに与する者が忍び寄っているかもしれないからだ。

「あれは?」

 椿姫の視界に、さらに奥深くへと繋がる通路が目に入る。光が当たった壁から、その長さは一〇〇メートル程度だろうと分かる。不自然なまでに清潔が保たれており、ゴキブリやネズミといったものは這いずっていない。人が定期的にメンテナンスを加えているということは確かなのだろう。

 吐きそう――――

 他に道らしきものは見当たらないため、椿姫はその通路に入る。

 光が当たっていた場所にはすぐに辿り着いた。そして、右側にさらに通路があることが分かった。怪しげな臭いは強まっており、目的の場所、そうでなくとも、何らかのモノに近づいている。

「……!」

 進んでいくと、薄っすら光が見えてくる。

 椿姫は慌ててライトを消し、光に向かって歩いていく。

 その背後で輝く紅き瞳に気づくこともなく、ただ真っ直ぐと。

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