第四話 紅雲大火山-2

 目算で高度百メートルほどまで上昇したところで、俺とマリアは同時に違和感に気づいた。


「なんか……流されてない?」


 俺たちが目指す紅雲大火山はルミエールの北方、血溜まりの樹海を飛び越えたその先にある。ところが、俺達の気球はルミエールの壁を越えたあたりから、真北から吹きつける北極風にあおられ、どんどん南に流されている。


 思えば当然である。この世界では風向きが変わらない。常に北から南に吹き下ろす北極風で方角を判断しているくらいだ。そして、気球という乗り物には操舵そうだすべが存在しない。完全に風任せの乗り物なのだ。


「おいカンナ、どうするんだよ!? このままだと永遠に南へ流されるぞ!」


 まだ真下はルミエールの中央区付近だ。今なら領土内に着陸できる。


「早く降りましょうカンナさん!」


「大丈夫だよ二人とも」


 カンナは余裕の笑みを浮かべ、何やらバーナーの底部からぶら下げられたテニスボール大の赤い玉を握ると、力を込めた。


「【ルーム】展開!」


 そのとき、景色が一瞬ぶわりと歪んだ。温かいオレンジ色をした、半透明の柔らかい"膜"のようなものがカンナの握る玉から広がって瞬く間に膨れ上がり、気球丸ごとすっぽり覆ってしまったのだ。


 途端に、まるで暖炉の焚かれた部屋の中に瞬間移動したみたいに、外気の冷たさや風が消滅し、心地よい暖かさが辺りに充満した。


 これは……【ルーム】。外気を遮断し、無風の快適空間を作る煉術だ。【ルーム】が組み込まれた煉器は、野営に重宝するためウォーカーも愛用する。値が張るから俺は持っていないが、白皇のものを使わせてもらったことがある。雨風寒さを凌げる上に無菌空間のため、簡易的な手術室としても使える優れものだ。


 だが、一般的な【ルーム】が半径二メートルほどの半球空間に対して、この【ルーム】はその十倍は下らない。より膨大な煉素のチャージを必要とする特別製だろう。


 気球は途端に南下の勢いを緩めた。なるほど、【ルーム】の中なら北極風の影響を受けない。あとは僅かな推進力で、どこへでも好きな方角へ飛べる。


 カンナが何やら上部の機器をいじると、バスケットが少し揺れたのち、気球はついに北上を始めた。


「動いた! すげえ!」テトがはしゃぐ。「推進力はなんだ」という俺の問いに、カンナは「【ウィンド】」と答えた。風を生み出す煉術だ。


 巨大な風を生み出す工業用から、優しい風を生み出すわたあめ機用まで様々に出力を調整された煉器が活用されている、生活にも馴染み深い煉術である。


「球皮のあちこちに噴気口があって、進みたい方角に合わせてここから風を出す向きと強さを調節するの」


「すげえな……。煉器っつってもここまで来ると、科学との見分けがつかん。だいたいなんだよ煉器って。俺にはさっぱりだ。地球人には想像もつかない理論があるんだろうな」


「ユーシス君が前に『命令式を組み込む』って言ってたよ。私たちで言うところの、パソコンのコードみたいな感じかな」


 なるほど、と妙に納得した。ナチュラルにとっては、地球のパソコンやスマホの方がよっぽど意味の分からない存在に違いない。


「テト。お前はどんな風に煉術を覚えた? 俺、今煉術の修行しててさ」


「へ? シオンって地球人だろ?」


「そうなんだけど、わけあって煉術が使えるんだよ」


 どんなわけだよ、とテトは狐に化かされたような顔になった。


「んー、そーだなー。おれは生まれたときから使えたから、分かんねーな。意識したことない。なんで手や足を動かせてるのか説明できないのとおんなじ」


 向かい合わせた親指と人差指の間を、青い電流がバチッと走る。敵の動きを止め、自分の肉体を活性化させる電撃――あんな力が俺にも使えれば、と思ったのだが、師匠には全く向かなそうだ。


 四人でしゃがみ込み、膝を突き合わせて談笑する間にも、気球は順調に北上を続けた。普通、気球には高度計、風速計、球皮内温度計などの必須計器が搭載されているが、さすがにそんな精密機器はこの世界にない。


 よって、どのように気球を操るのかと言えば、カンナ曰く「自分の感覚を信じる」のだそうだ。目や肌で地上との距離感を測りながら、バーナーの威力と風の推進力を調節する。


 やがて、気球は大地の裂け目に差し掛かった。大陸をぶった斬ったようなねずみ返しの崖。その下に広がる、血の海のような樹海。天空から見下ろすと一層圧巻だ。あの辺りに俺は落とされて、あの辺りで死にかけて、あの辺りで――眼下の樹海をなぞっていくと、辛いばかりではなかった記憶が蘇る。俺を助けに来てくれた友と、必死に生き延びた数日間の記憶。


「あっ、見えたよ!」


 カンナの声に、俺達は一斉に北を見やった。


 そこに広がっていたのは――真っ赤な雲と、それに山頂を突っ込んだ、信じられないほど巨大な褐色の霊峰れいほう


 気がつけば血溜まりの樹海を飛び越え、俺達は今まさに、大地の裂け目の対岸へ渡ろうかというところだった。眼前に広がる、燃えるような真紅の雲海。そこへ突っ込むと、視界が赤一色に染まった。まるで赤い霧の中。カンナはバーナーを緩め、高度を下げる。


 たった二時間あまりの空の旅。俺達は、紅雲大火山の麓に着陸した。

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