第三章 撃たれる前に計算しよう! sin,cos,tan!(3)


 王命によってかんしたへいたいがアルマ市に入営したその日に、ソアラはとある有力者の家へとんだ。


「失礼します。ようやくお会い出来ましたね、ウィスカーこうしやく


 自らとびらを開け放って室内にみ、ソアラは目的の人物と対面した。


「おお、ひめ様、いきなりのご訪問とはおどろきましたな。どうされたかな」


 白いひげをたくわえたあごをこすりながら立ち上がるウィスカーこうしやく


 しかし、部屋にはもうひとり男がいた。しらえらそうなそうふくせた老人だ。顔に見覚えはあるが、どこで見たんだっけ。


「できるだけ早くお会いしたかったのです。──デュケナン大司教とごいつしよにおられるとは思っていませんでした。お時間がかかるお話でしょうか? 出直しましょうか? それとも、あと回しにしていただけますか?」


 そうだった大司教だ。


 しかし今日のソアラはなんかこわい。さすが王族。必要とあらばしが強かった。


 ゆったりと立ち上がった大司教は、そんなソアラ相手にもおだやかなほほみをたたえたまま、首を横にって答えた。


「いえいえ、私めなどが話せることなど、大したことはありませぬ。この有事でもっともたよりになりそうな旧知の仲といえば、ウィスカーこうしやくくらいしか心当たりがありませぬでな。年寄りはつい、古い友人をたのみにしてしまう。男同士で、いくさの様子などを聞かせてもらっていただけでございます。……ウィスカー候、私めはこれで失礼します」


「ああ、そうだな。またな」


 大司教が部屋から出て行ってから、こうしやくに改めて歩み寄るソアラ。老貴族がおうように応じた。


ひめ、どうぞおかけください」


「いいえけっこうですウィスカーこうしやく。お話があります。すでに伝令を何度も送っていますから、ご用件はわかっていると思いますが──戦の方法について、食いちがいがあるようです」


 単刀直入に。まるで最速でけんもうとするかのように、ソアラは一直線にんだ。しかし、ウィスカーこうしやくかのじよの視線からのがれるように目を横へ向けて、もごもごと話す。


「その件だろうと思っておりましたが……あー……ひめいくさとは生き物なのですな。現場でなにが起きるか、事前にはわかりませぬ。その場で臨機応変に対処するべきで──」


「地の利を生かす、というお話をしましたよね? ウィスカーこうしやく


 男の話をさえぎって、ソアラは強い視線を相手に当てながらただす。


「しましたが……」


 目を合わせようとせずに、すわんで言葉をにごすウィスカー。にごしたその続きは〝なつとくしたとは言ってない〟だろうか?


 ソアラはためんでいた意見を次々にぶつける。


しゆうしゆうも、敵に油断が無い時にするものではありません。とりでって時間をかせぐことを、いちばんの目標にしていただくようお願いしたはずです。なぜ、そうも打って出ることばかり考えられるのですか?」


「……とりでで戦っても、がらは挙げられない」


「敵将の首などではなく、戦った時間こそががらにつながると思っていただきたいのです」


「それはひめくつだ。戦場のくつは机の上ではわからんよ。……あなたには経験が無いからわからんのだ」


「ですが、その経験に従ったところで、実際に負け続けているではありませんか」


「だが戦い続けてもいる。弱兵は戦いで死ぬが、いま残っているのは激しい戦いを生き延びたせいえいだ」


「最初から数で負けている我々は、りすぐっている場合ではありません」


れつせいであるからこそ、せいえいである必要がある。さもないと移動も満足になりませぬ」


ろうじよう戦に必要なのは、少ないせいえいよりも多くの人手です。時をかせぐことがかんようであると、なぜわかっていただけないのですか。そんなにも、死に急ぎたいのですか?」


 そこでついに、ウィスカーこうしやくてて立ち上がった。


「敵をたずしてなにが戦士だ! 命をしむばかりでなにと戦っているというのだ!! はなばなしい戦いの中に散ってこそ、使命を果たしたと胸を張れる。そういうものだ!!


 我々には命がけでたたかいた男たちの、血とあせよごしてみがいた経験がある! それを、紙の上で指先をインクでよごす程度がせいぜいのいくさどうていの言うことに、右往左往させられてたまるか!!」


 部屋の調度品すらふるえるほどのだいおんじようだった。めちゃくちゃこわい。


 しかし、正面からそのせいを当てられたにもかかわらず、ソアラはまるでひるむことなく、こうしやくえていた。こっちもこわい。


「たしかに、決してはなばなしい戦いにはなりません。ですがそれをこらえて戦わねば、ファヴェールの未来が消えてしまうのです」


「その話がおかしいのだ。実際に戦いもせずに、見てきたようなことを言う。いくさを数字にえようなどと、鹿げた話をだれが信じられるか。数字? 計算? 兵数だのりようしよくだの──不利をくつがえしてえいを勝ち取った伝説は、いくつもある。


 じゆつなどに、戦った経験も直感も持たないぞうに、何ができる。いくさとは人がやるものだ。我々がやるものだ!」


「いままでどおりでは、兵数の足りぬわたしたちは、せきのような勝ちにすがることになります。……一度きりならそれでもいいです。ですが、この先何度でも勝ち続けることは、それではできません。この国を守る貴族として、より多く、より先までのことを考えてください」


りやくだつされる村を見捨てて時をかせぎ小勢をつぶしてはまわとりでもるのを、貴族の戦いだとは言えない……!」


 ソアラがそれを聞いて、理知的なその目にするどい光をともした。ぞくりと、背筋にふるえがくるたぐいの光だ。


「『貴族の戦いではない』と、ええ、たみはそう言うでしょう。白い目で見られ、かげぐちとびらの向こうかられ聞こえ、口にしない不満が視線のとげとなってはだし、心にんでふたをしたそれら悪意がたましいさいなんで、夜には毛皮に包まれても温められない底冷えするおくよみがえってさけび出したくなるでしょう。


 それでも──すべてにえて戦ってください」


 こくなその言いようは、本当にようしやの無い要求だった。


 ウィスカーこうしやくは顔に刻まれたあらゆるしわをゆがめてしばらくひめたいしていたが、ふいに、小さなちようしようらした。


「…………はっ、わかった」


 その言葉の意味がわからず、ソアラは首をかしげていた。


「? 何がですか?」


 問われたこうしやくが、両手を広げながらかたをすくめる。


「個人的なふくしゆうだろう。我々への」


 なにを言われているのかわからない。そんな顔をしたソアラだが、こうしやくは続ける。


「いままでのことを、やり返しているのだな。我々がかげぐちを言っていたから」


 それを聞いて、ソアラはため息をこぼし、目をつむった。


「……そうきましたか」


「長い間、我々があなたにはじをかかせたと思っているんだろう。いま言われたようなことをされていたと思ってるんだ。だがそれは、さかうらみというものですな。尊敬を集めたければ、それなりのいをするべきだ。


 こんなふうに仕返しをするなど──まったく、鹿げている!」


 ソアラがゆっくりと目を開いた。ウィスカーこうしやくを見つめる。


「…………」


「…………」


 ちんもくしたまま少しだけ見つめ合ってから、ひめは静かにうなずいた。


「そうまでおつしやるなら、個人的な理由を取り除いてあげます。……何度も負け続ける指揮官は、必要ありません。ウィスカーこうしやく、あなたはごいんきよなさってください」


「──は?」


「聞こえませんでしたか? き父と旧知のあいだがらであることで、敗北者のめいを着せずにいました。しかし、もうしやくを返上して一線から退くことを命じます」


「…………な──」


 しばらく目を見開いてふるえていたウィスカーこうしやくだが、やがて歯をいて机をり飛ばした。


「──ん、だと、この素人しろうとどもがぁっあああ!!」


 上に載っていた水差しやらなにやらがけたたましいさい音を立てる。


 そして、ソアラをかえって、言った。


「──じゆつなどでは勝てない。それで負ければ、王の座をうばわれるだけで済むとは思わないことだ。なぶりものにされて首をさらされる。天上の国王陛下に会うことなく、ごくへ落とされるだろうよ」


「……敗残の将は、世のすべてをのろうと聞きました。そのとおりのようですね。失礼します」


 耳を貸さずに、王女殿でんはさっさと退室してしまった。


「おい」


 あわててソアラを追いかけようとしたぼくに、ウィスカーこうしやくがそう声をかけてくる。


 無視して背中から切りかかってきたらいやだしかえるしかなかった。こうしやくはじっとぼくにらみつけて、ただしてくる。


「……あれはひめの暴走か? それとも、貴様も、私が悪いと思ってるのか」


 息をゆっくり吸う。舌をもつれさせないように、おうように答えた。


「もちろん、あんたが悪い」


「…………せろ」


「じゃあ、これで」


 喜んで退室した。きんちようから解放されて、ろうで待っていたソアラといつしよに歩きだす。


 数学的な視点から見て、こうしやくがいないほうが勝率は上がる。そう信じているなら、あそこでイエスと答えるしかなかった。


 しばらく足を進めてから、ソアラがつぶやいた。


「……ナオキさんは、わたしの味方をしてくださるのですね」


ぼくは単純に、自分の信条に従ってるだけだ」


「ナオキさん」


「なんですかソアラさん」


 思わず敬語である。先ほどのきんちよう感をまだ引きずっているソアラはちょっとあつ感マシマシなので。


「わたしが直接、軍を率いて戦います。ちよう兵とへいたいはわたしの配下です。直接指揮します。あなたは副将として、ようへい隊を率いてください」


ぼくが兵隊を!?」


「はい、お任せします」


 ちよう隊副長から、さらに大出世させられてしまった。








「あーあー、どうするかなぁ……」


 ぼくはアルマ市街を囲むへきとうの上にいた。


 十数人ほどの兵士といつしよに街を出て行くウィスカーこうしやくの姿を見下ろして、ひとりごとをつぶやく。


「将軍なんてぼくにできるもんなのか?」


 というか実際になにをすればいいのか、想像が難しい。


 なので、仕事のやりかたを教えてくれそうな人物を呼んでいた。


「よォウ、待たせたな。あんたが新しい大将かい?」


 どことなくうさんくさいふんの少し禿げた男が現れる。けんがいとうを身に着けた士官らしいかつこうをしている、三十後半くらいの人物だ。


 うちの──ファヴェール王国のやとったようへいたいちようである。たぶん。呼んだのは隊長さんのはず。


「成り行きで将軍になったんだ。初めまして。そっちは、ようへいたいちようちがいない?」


 うさんくさいんだが。


「もちろんそうだ。でなけりゃァこんなところまで男に会いに来るもんか。で、新しい大将が来てこうしやく殿どのいんきよさせられたってェのは、本当なのか」


「順番が逆だ。こうしやくいんきよしたから、代わりがぼくだ。ほら、こうしやくはいま出ていってる」


「……言うとおりみてェだな」


 とうきようへきひじをついて下をかくにんした男が、こちらに顔を向けて言う。


「なァ、戦争は終わっちまったのか?」


「まさか。まだ始まったばかりだ。明日からも戦ってもらわないと」


「ああそうかい。そりゃ良かった」


 安心した、みたいな言いかたをする。


 これはあれなのだろうか。ウィスカーさんの言ったとおり、命をかけて戦いまくるのが生きがいですし戦士、みたいな考えを持ってるんだろうか。


「やっぱりようへいはみんな戦いたいのか?」


「あン? なんでそんなことをく?」


 不思議そうに聞き返される。


「教えてあげよう。ぼくようへいくわしくない。それに戦争も初めてだ。注意しておかないといけないことはいまのうちにはっきり教えてくれないと、かんちがいしたまま命令するぞ」


 隊長は複雑そうな顔をした。


「ふン……? まっ、やとぬしだしな。わかったはっきり言っとく」


 意を決したふうにそうつぶやいてから、首を横にる。


おれたちは給料がしいだけだ。いくさが終わったら仕事が無くなる。は続いてほしいがけたい。だらだら続くのがいちばんいい」


 意外な意見だった。


「もっとこう、ばんぞくたましいあふれてるかと思ってたよ。日ごろ命がけじゃないとえが満たされないぜー、みたいなの」


「『小市民のみじめな生活を捨てて、いますぐようへいになろう! 自由な戦士として戦い、ぼうけんの見返りに大金を手にするのだ!』ってか? そういううたもんをするようへい隊もあるし、おれたちも若いのをさそう時は武勇伝のひとつふたつ聞かせるさ。


 でもな、血にえたようなのは最初のせんとうで死んじまう。生き残るのはひねくれたろうかずるかしころうだけさ」


「ふうん……ちなみに、あんたはどっちだ?」


「いまのは最前線のやつらの話だ。おれは落ちぶれても貴族だぜ? 両方に決まってるだろ」


 ようへい隊を率いるのは数百人もの兵隊を集める資本と地位を持ってる人間、つまり領地を持たなくてもしやくを持つ貴族ばかり。という話は聞いていたが、まるでそう見えなかったので忘れていた。


「なるほど。かしこいあんたにもうひとつ、正直な意見を聞きたい。指揮官がだれでもいいか? ぼくみたいなのでも」


「へたな戦いかたでなけりゃァ、だれだっていい。指揮官のやることなんて簡単さ。どこで戦うかと、めるか守るか。それだけ決めてくれりゃ、あとはおれたちがそうふうする。あんたはどしーっと構えてればいい」


「……それは遠回しに『余計なことすんなよ』ってことでいいかな」


「大将にそんな言いかたはしねェよ」


 両手を広げて笑う隊長だが、否定しない。つまり内容はそういうことで合ってるらしい。


 そんなようへいの話に、ぼくはだんだんと希望をいだしていた。


「じゃあ、あとは敵の戦いかたについても教えてもらおうか」


「なァ、話が長くなるなら、どっかあったけえところに行かないか? 外でったまましなくてもいいだろ。だいたい、なんでこんなところに呼び出したんだ」


「ふたりきりのほうが正直な話ぶつちやけトークがしやすいからさ。大勢の前で『ぼく素人しろうとなんですどうすればいいですか』なんて言ったら変なうわさが広まるし、そっちだって『戦いたくない』って直接的な言いかたはけただろ。それじゃ効率が悪い。ぼくは効率的なことが好きなんだ」


 その説明に、ようへいたいちようくちげて笑った。


「あんたなら生き残れるクチだ。兵隊になりたかったらおれのところに来いよ。かんげいするぜェ?」


「あー……両手でやりを持てる男を見たら、そう言ってかんゆうすればいいんだな?」


 ぼくだけにそんなさそい文句をしてるわけじゃあるまい。


 ようへいたいちようはにやりと笑った。


さ。楽な仕事だろ」


 戦場はようへいだらけってことは、若者をだましてその気にさせる悪党だらけってことらしい。困ったもんだ。


 ──ちょっと楽しくなってきた。








こうしやくを見送ってきたよ。やれやれ、これで本当にぼくらが直接戦わないとならないな」


「まったく、ゆゆしき事態です」


 市庁舎にもどったぼくに答えたのは、あおきようこうよろいを着てホイールロックガンを構えるソアラだった。乗馬用のすその長いがいとうなどを着て、武装かんりようしている。


「やる気まんまんかよ!」


 背中には長じゆうこしにはたんじゆうっていて、さらに机の上には馬のくらに装着するタイプがさらに2つほど置いてある。あと火薬つぼだんがんも。


「おいたま入れてないよなそのじゆう?」


けんは使えませんが、これならあつかえます。馬上やりより遠くからこうげきできますから、へいを率いても戦えます」


たまは?」


「できるならへいたいの全員に装備させたいくらいです。護身じゆうは高価で数が少なくて、全員分をそろえるのは無理でした」


「……ぜったいトリガー引かないでくれよ」


 きようしてしまった。だって目が本気なんだもの。


 まあ、ここまでじゆうで武装していれば近寄りたくはなくなるか。


じゆうもいいけど、ようへいたいちように話を聞いてきたから、具体的な行動について話をしないか?」


 そう言うと、ソアラはきょとんとした目でいた。


「ナオキさんは、いくさについてくわしいのですか?」


「ぜんぜん。だけどきみが指揮官やれって言ったんだろ。やりかたくらい調べてくるよ」


「それでは、できるのですか?」


「そこが問題だ。任命したのはきみだ。やれと言われればやるが、やることになる。──つまり、数学を使うしかない」


「……じゆうではなく数字で戦うのですか? ナオキさんのぶんのじゆうも用意しましたよ?」


 鉄と油のにおいがぷんぷんするじゆうを差し出される。


 だが、首を横にってそれを断っておく。


じゆうは置いといてくれ。戦ってる間はこしかざっておく。けど、まずはこっちだ」


 周辺の地図を取り出して机の上に広げる。


 すみをピンでしてめながら、じゆうをどかして紙と羽ペンと石筆と炭と、それに道具をいくつか用意する。


「さて、敵はぼくたちの最終防衛ライン手前まで軍を進めてきた。進軍を急いだせいで、支配地域は少しいびつだ。アルマ市街と海側にあるアルマようさいを囲んでどうめるにしろ、問題は補給だ。残してきたとりでのうち、どこかひとつが機能しなくなれば補給線がたれる。一方、こっちにはちくも海上補給路もまだ残ってる。このじようきようでやるべきことは?」


「方針は変わっていません。防衛あるのみです。敵の部隊を長く食い止めて、戦いに負担をかけます」


「いいとも。それがぼくたちの基本方針だ。そしてここからはの話をしよう。どうやって方針どおりの結果を取ってくるか、だ」


「どうするのですか?」


 じゆうから地図へと意識を移しつつあるソアラに、ぼくは答える。


「簡単さ。この街からしゆつげきして、敵をげきする。つまり、ぎやくしゆうに出るんだ」


「それは無理だという話で大将をすげえましたよね!?」


 ソアラがびっくりして声をあげた。


 どうも話を急ぎすぎたらしい。


「言いかたが悪かったな。しゆつげきするけど、戦いはしない」


「……どういうことですか? 最初から、ゆっくり説明してください」


「つまりだ。まず部隊を分ける。防衛部隊としゆつげき部隊だ。難しいこと考えずにとにかく防衛するだけなら、アルマようさいにいる評議会の貴族にもできる。だからアルマ市の防衛はかれらにたくす。


 しかし、きみとぼくは土地に慣れててくわしいちよう兵とへいを率いて、進軍する敵の本隊をかいして側面のとりでしんちゆうする」


 机の上にあった筆台を兵隊に見立てて、街の上に置く。そこからすすすと移動して横のとりでじんった。


「このまま敵がアルマ市をこうげきし始めたら、横腹をつくことができる。敵にとってそれはいやだ。だから、先にこちらをつぶしにかかる」


 火薬つぼを北上させてアルマへきこうせいに出る。そこへ筆台が側面をたたいた。火薬つぼは方向を変えて側面のとりでへ向かう。


「もし敵がぼくたちをこうげきするために移動したら、こちらもさらに移動する。できれば国境方面に向かうのがいいな。敵が追ってくるなら、防衛するべきアルマ市街からは後退する形になる。そうすれば、戦わずに移動するだけで敵軍が退いていくことになる」


 筆台が国境方面へ行くと、火薬つぼはそれを追ってどんどんアルマ市から遠ざかっていった。


「どうかな?」


 顔を上げてソアラを見ると、王女はぱちぱちと目をまばたかせて、小さなあごに指を当ててかんがんでいた。


「兵数におとるわたしたちが別働隊を作って、どうするのかと思いましたが……敵を引き回そうということですね。みようあんです」


「ふはは、敵はきみという国家最高権力者を追って、な時間を過ごすことになるぞ」


「……あの、それはもしわたしがつかまったらどうなりますか」


「敵の勝ちなのでつかまらないように」


 どころか最短で負けが確定する。あっさり言い切ったぼくに、ソアラが困った顔をした。


おつしやることがめちゃくちゃです」


「やめとくか?」


「いいえ。このじようきようでは最良の策です。もちろん、実行するのはかまいません。ですが……敵に追いつかれないようにするのは、ひと苦労ですね」


「そうでもないさ。こっちもあっちも徒歩のちよう隊に合わせて動いてる。ということは、基本的にへい以外は移動速度は同じだ。気をつけるのは道をちがえないことと、ていさつ隊の配置だけだよ」


「どのくらいで敵がこちらに来るかをあくするのは、経験の浅いわたしたちでは難しくありませんか?」


「それなんだけどさ、ようへいたいちように聞いたときも不思議なことを言っていた。いや、不思議なこと、かな。かんたんな問題を解いてくれないか。


 人の移動速度は歩きで1時間に4km。とりでまでは40km。さて、何時間かかる?」


 ごく簡単な問題だ。それこそ、現代日本なら小学生でもわかるだろう。


 しかし、


「速度、が、1時間に4km……? 速度……? 『メートル』とは長さの単位でしたよね?」


 ソアラは首をかしげる。思った通りだった。


「それだ。そういう反応で思い出した。数学史的には、新しいんだよな。


 やり始めたのが落下時間と速度について研究したガリレオ・ガリレイ。速度と加速度をつかむ物理学の道具として数学を積極的にんだのは、アイザック・ニュートン。幸運なことに、てきや周辺国に歴史に名を残す大天才はまだ生まれてないらしい。もし生まれてても、ニュートンってコミュ障で引きこもりだったから、まだ知られてないのかな。人類史上トップクラスの数学者のくせに『プリンキピア論文』を発表したのが理論を発見してから二〇年後の四〇代後半だ。頭おかしいと思う」


「あの?」


 きょとんとしたひめまなしに気づいて、話をもどす。


「あー、ごめん。とにかく、きみが言ったとおり向こうは経験から得た〝感覚〟でやるわけだ。軍の移動にはこれくらいの時間がかかる。これくらいはなれた場所に村がある。どこそこに向かうなら何日間かかる。しかし、ぼくらは〝計算〟で同じことをする。──する方法があるんだ」


 いつしかソアラは身を乗り出して食い入るようにぼくを見つめていた。


 顔が近い。


「このいくさは〝感覚〟で敵のこうせいに対処をするのではなく、〝計算〟で有利な未来を選び続ける。──そのような戦いかたをする、ということですね?」


「そうだ。とか将軍とか、いくさいた人間には直感で最善を選び取れるんだろう。でもな、逆に言えばなんだ。直感をもたらすものはなんだ? ──目にするもの、耳にするもの、つまり感覚的なげきであり〝いまそこにある世界〟だ。ぼくらはかれらよりひとつ先の〝いずれそうなる世界〟を計算する」


「理性的なにんしきで世界を見る……でしたね」


 ソアラがそうつぶやいた。どうやら、初めて会った時のことを思い出したらしい。


「そうだ。──数学は、時をえる。明日の敵がどこにいるのか、計算するんだ」


「……計算なら、わたしだって血船王にも負けませんっ」


 にぎりこぶしを作ってむソアラ。


「その意気だ。というわけで、はいこれ」


 ぼくは地図といつしよに持ってきた道具をソアラに差し出した。


「コンパスと、分度器……?」


 ちなみに磁石じゃなくて円をえがくためのコンパスだ。


「地図を使うならそれが定番だろ? ぼくがくは専門じゃないけどね。移動可能なはんを円で、移動するべき方角を分度器で測れる。


 そういう道具を使えば自分がどこにいるか、行ったことのない場所でも地図上であくできる。……まあ、これは地図がきちんとした縮尺でできていればの話だけど」


「ここは貿易港ですから、沿岸部だけなら貿易商たちが正確な海図を作成していたと思います」


「そいつはいいね。取り寄せよう。まずは地図の作成。そして計算の確立。定式化する数値を決める。敵がこちらへ進軍してくるまでに、できるかぎり精度を上げよう。移動しながらきよを測ってさらに細かくしていく。その作業が進めば進むほど楽になるはずだ。


 ──ぼくらは戦って勝つんじゃない。紙の上で、負けないところから始めるんだ」


「『勝つ者は勝ってから戦いを求め、負ける者は戦ってから勝ちを求める』ということですね?」


「なんだそれ?」


 ソアラが口にしたことわざっぽい言葉に首をかしげる。ひめじゆうを置いてペンを手に取り、ほほんだ。


へいほう書で読んだ一節です。──戦争は勝敗を分ける。そんな意味の言葉でした。武具を持つ前にペンを取る。それがわたしたちのやりかたでしたね。忘れかけていました」


「ひどいな。忘れないでくれよ」


「気をつけます。それでは、お手伝いしますから、まずは時間ときよと速度の求めかたから教えてください」


 すわって一礼したソアラ。ようやく、いつもの光景にもどった気分である。


 さて、必要になりそうなのはまず三角関数、sinサイン,cosコサイン,tanタンジエント。それに『速さ=きよ〓時間』の公式からか。


「『はじきの法則』か。……なつかしい」


 ふと、となりに置かれたホイールロックガンを見てしまう。ハジキ──うん、ダメだな。ウケそうにはない。口に出すのはやめておこう。


ハジキの法則……?」


ぼくは思いとどまったのにひめが!」


 ということで、ぼくらの戦争はやはり机の上から始まり──そして、あっという間に開戦した。

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