20②-⑩:世界は広い

 北の離れは厳重な煉瓦製で、鉄製の窓と扉がついた、厳めしい雰囲気の建物だった。元々物置として造られたのだが、城を増改築していく中で敷地の北に追いやられ、日当たりが悪く湿気が多くなったために、今では使われていない。


 その一室に、簡素なベッドと机だけが置かれ、リアンの部屋とされていた。



「……どうしよう」

 北の離れに入れられてから、2ヶ月程が経った頃。

 リアンは一人、不安げにお腹をさすっていた。そんな時に部屋がノックされる。リアンは慌ててベッドに戻ると、薄い布団にくるまった。


「王妃様、お食事をお持ちしました」

 部屋にやってきたのは、幽閉されてから付けられた侍女だった。侍女とはいっても、彼女は食事や着替えを持ってくると、すぐに部屋を出て行ってしまい、リアンに関わろうともしなかった。


「それでは」

 侍女は食事を机に置くと、いつも通り、さっさと部屋を出て行ってしまう。

 彼女の気配が遠のいたのを何度も確かめると、リアンは体を起こした。

 そのお腹は丸く膨らみ始め、目立ってきていた。


「どうすれば…」

 リアンは妊娠していた。テスファンに無理やり抱かれた時の子供だった。

 しかし、テスファンは、きっと自分の子供だとは信用しないだろう。だから、妊娠がばれれば、この子はただでは済まない可能性がある。だから、何としても隠しとおさなければならないが、ばれるのはもう時間の問題だ。


「神様…助けて。僕はどうなっても良いから、この子だけは…」

 リアンは手を組んで、どこの誰とも分からない神に祈る。リアンは産まれてよりこの方、神など信じたことが無かった。むしろ、邪神の娘として毛嫌いされていたから、その元凶たる神と言う存在を憎んでいたぐらいだ。

 しかし、頼る者が誰もいないこの状況では、リアンは、最後の砦とも言うべきその存在にすがるしかなかった。


「……」

 しかし、何も状況が変わる訳などない。寒々しい隙間風の音が、ただただ空間に響くだけ。

 リアンは組んだ手を離すと、あきらめたかのようにため息をついた。そして辛い目をして、お腹をさすり始めた。その時、


「ははうえー!!」

「…?!」

 外で声がした。それと共に、何やら外が騒がしくなる。


「シリル…?!」

 久方ぶりに聞くその声に、リアンは立ち上がると、開く訳もない窓につい手を掛けようとした。しかし、その時「下がっててー!」と叫ぶ声がし、リアンはシリルのやろうとしていることに気づく。窓から慌てて飛びのくと、リアンは氷の結界を張った。


―どおおおん!!


「…っ!」

 窓のある側の壁が、爆音と共に破壊された。土煙の中、誰かが駆け寄ってくる足音がする。


「母上!」

「シリル!」

 そこには、見ない間に、母の背を越えた息子の姿があった。


「会いたかった!母上!」

 シリルはリアンに抱きつこうとした。しかし、そこではっと、リアンの膨らんだお腹に気づく。


「…身ごもっていらしたのですか。そうとも知らず父上あのおとこは…。お体は大事ないのですか?石の床は冷えるのに、毛布すら与えてくれないとは」

 シリルはリアンのいた部屋を見わたし、許せないという口調で言う。


「大丈夫だよ。体だけは丈夫だから」

「良かった。だけど、すぐにここから出て行きましょう。こんなところ、もういたくはない。あの男の顔を見るのも嫌だ。あの男、クロエに誑かされているとも知らず、毎日クロエの部屋に入り浸っているんです。それに、クロエも城の主にでもなったかのように、毎日侍女たちを引き連れて、城内外を歩いているんです」


 シリルはリアンの手を取ると、壊れた壁へと向かって歩き始めた。そこから下を見ると、兵士たちがこちらを見上げて口々に叫んでいる。どうやらシリルを追ってきた兵士たちのようだった。


「さあ、行きましょう、母上」

「…やめよ、こんなこと…」

「…え?」

 シリルは再び部屋の中へと戻ろうとする母親を、怪訝そうに見た。

 そんなシリルを前に、リアンは不安そうに俯いた。


「ここを出て行っても、どうするの…?僕たちには頼れる人なんていないんだよ。シリルも知ってるでしょ?僕は化け物だから、実家なんてものはないし、頼れる知り合いなんていない…。頼れる人は、テスファン以外に誰もいなかったんだよ。出て行っても、生きていけないよ…」

 そんな弱気な母親に、シリルは毅然と目を向けた。


「母上。数日前までは、僕もそう思っていました。…だけど、気がついたのです。今の今まで、逃げ出したいと思いながらも、そうしなかったのは自身の弱さ。そして、ここ以外に生きる場所はないのだと、視野を狭めていた自身の意固地さが原因だったのです。……頼れる者も拠り所もなくても、そんなものこれから自分達で作ればいいのです。世界は広いのです。父上以外にも、僕たちを受け入れてくれる人や場所はきっと存在します!」

「……シリル…」


 少し前まで、甘えん坊で泣き虫だったはずの息子を、リアンは驚きながらただただ見ていた。


「それに、もしそんな人や場所がなくても、ただ生きるだけなら、どこでも生きていけます!生きる事を深く考えないでください!それに、誰も母上の事を受け入れなくても、ずっと僕が傍にいます!だから!」

「…シリル」

 リアンは、まだ最後の拠り所―息子が残っていたことへの気づきと嬉しさ、そして息子の成長への感動が混ざった涙を、一粒こぼした。


「さあ、母上!」

 シリルはリアンに手を差し出す。リアンは涙をぬぐうと、こくりと力強く頷き、その手をとった。そして、シリルは重力魔法の魔法陣を展開させると、穴の開いた壁から空へと舞いあがる。



「お待ちをー!殿下――!!」

 下界を見ると、兵士たちがシリルに手を伸ばして叫んでいた。それに、シリルはアッカンベーをすると、スピードを加速させた。




「…これで、ばいばいだね…」

 シリルに掴まりながら、リアンは黙って下界を見下ろしていた。


 王宮、リアナの街、リトミナの景色。すべてが小さく遠ざかっていく。


 それらは皆、リアンがテスファンと共に創り上げてきたものだった。愛する者と、敵と戦い、励まし合いながら、創り上げてきたもの。戦いの日々の中で育んだ愛の結晶―子供とも言えるべきもの。


 今や愛した人はおろか、愛の結晶たるそのすべてを捨てて、こうして去るしかない。



「…母上」

 自身の背に抱きつき、小さく泣き始めた母親にシリルは声をかけようとして、やめた。母の胸中は聞かずとも、よく分かった。だからシリルは、しばらく泣かせてあげようと、前を見た。



 やがてリトミナの街の景色も、山地を抜けると見えなくなる。そして、前方に見え始めたのは、魔晶石の鉱山。

 シリルが次にやろうとしていることに気づき、リアンはシリルの顔をはっと見る。


「クルトさんも助けて、3人…いや4人で暮らしましょう。家族4人で」

「……」

 シリルは、涙を頬に付けたままの母を見て、安心させるように微笑んだ。

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