第154話 大切なもの(1)

真尋は


2月に行われるウイーンでの大きな公演を控えて、大詰めだった。


八神もそれについて2週間ほど一緒に行くのだが・・。



「あっ! またっ!!」


いつものことなのだが、


テンパってくると彼の『奇行』が激しくなる。



練習スタジオに行くと、平気でピアノの下にもぐって床に直接、寝込んだりしている。


「真尋さんってば!」


八神は彼を揺り動かした。


「あ・・?」


「今、何月だと思ってんですか! 1月ですよ、1月!! こんなに寒いのにも~~。 風邪ひいたらどうすんですか・・」


大きな彼の体をピアノの下から引っ張り出した。


「あ? 寝てた? おれ・・」


「よだれまでたらして・・。」



コンチェルトの曲は


ラフマニノフ第3番


かなりの難曲で。



決してスキルが世界レベルとは言えない彼にとって


それはそれは大変なことであった。



「はああ・・」



真尋は仰向けに寝ながらタバコに火をつけた。


「あ、寝たまんま・・」


八神はそれを止めようとしたが、タバコを加えたままジーっと遠い目で天井を見る真尋を見ていると



彼の感じている重圧だとか


そういうことが


痛いほど伝わって。


結局、何も言えない。



来週は志藤と斯波が仕上がり具合を見に来ると言っている。


しかし


今の真尋のデキがそこまでいっていないことは


八神が一番わかっていた。



「・・ベーコンエッグサンド、作ってきました。 今日は朝から何も食べてないでしょう、」


そっと持ってきた紙袋を差し出す。


「ベーコンエッグサンド・・」


真尋はムクっと起き上がった。



そして


いつものように、野獣のようにバクバクと食べ始めた。



まだ


これだけの食欲があればだいじょぶだよな・・。



八神は少しホッとした。




「ね~、けっこう上手くできたでしょー? 麻婆豆腐、」


美咲は食卓で微笑んだ。


八神は心ここにあらずと言う感じで茶碗と箸を持ったまま、固まっていた。


「も~。 聞いてるの?」


美咲がそれを察して言うと、


「え・・?」


顔を上げた。


「なんか考え事してる・・」


「いや・・」


言葉は否定しても


ずっと真尋のことが気になって気になって仕方がなかった。



そこに携帯が鳴る。


「は、はい・・」


真尋だと言うことがわかって少し慌てて出た。


「え? ああ、まだスタジオですか。 わかりました、行きますから。 だから、ホント無理をしないで下さい・・また腱鞘炎になったら大変ですし、」


会話を少しして電話を切り、出かける仕度をし始めた。


「どこ、行くの?」


美咲は食事中にも関わらず、出かけようとする八神に声をかけた。


「真尋さん、まだメシ食ってないっていうから。 もう9時だし。 ずっとピアノ弾いてたみたい。 ちょっと行ってくる、」


「え? 今から?」


「ウン。 あの人、ほんっと入り込むと止まらないから・・。」


八神は上着を着て、そそくさと出て行ってしまった。


「もう・・」


美咲は一人残されて、不満そうにため息をついた。



「ほんと、無理をしないで今日は家に帰ってください。もう2日も帰ってないでしょう? 風呂にも入ってないし・・」


八神は途中で真尋のためにピザを買ってスタジオに届けた。


「ん~~。 めんどくさい・・」


それをパクつきながら、無精ヒゲを生やした真尋はぼーっとした目で言った。


「絵梨沙さんも心配してるでしょう。 焦ってもどうしようもないですから、」


八神は子供に言い聞かせるように優しく言った。



真尋はピザを猛然と食べていたかと思うと、


いきなりピキっと


なにかが入り込んだようになり・・


目を見開いてすごい勢いでピアノの前に座った。

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