第47話 刹那(3)

「真尋さんを見ていても同じです。 あの人のピアノが好きだから。 この音のためにおれは何でもしたいって。 おれは音楽が大好きで。 オーボエが大好きで。 これでお金稼いで暮らして行くのが夢でした。 だけど、そんなことできる人なんか、ほんの一握りなんだって。 自分はそれではないって。 わかったからやめたんです。だけど、『持ってる人』は頑張らなきゃダメじゃないですか。 そのために力になりたいって思うのって間違ってるんですか?」


真剣なまなざしで八神はそう言った。


「うん・・まちがってへんで。」


志藤は優しい目でそう言った。



「おれも世界を股に掛けるピアニストになりたかったから。 超一流のオケと競演して。 もう世界中からオファーがきて。 ずうっとそう思ってやってきた。 だけど。 自分はそこにいる人間やないっておれもわかってしまったから。 ほんまに真尋見てるとな。 あ、おれ辞めてよかったって思えるもん、」


彼の言葉が


心地よく心に広がる。


「おまえがオケにいた時から一生懸命で。 まあ、正直巧いとは言えへんかったけど。 ほんまに素直にそのキモチが伝わってくるかなって。 なかなかそういう人間っておらへんやん。 めっちゃかわいがられてスクスクとそのまんま育ったって感じで。 そういうとこがな、おれはいいかなって思って。」


「志藤さん、」


胸が熱くなった。



その時、八神の携帯が鳴る。



「あ・・ウン。 うん。 ・・うん、わかった。 今行くから。」


短い会話を交わし、


「すみません。 おれ、帰ります。 ごちそうさまでした。」


八神は一方的にそう言って席を立ってしまった。


「おごるなんてひとことも言うてへんで~。」


南が小さな声で彼の背中に声をかけたが、全くそんなことは聞こえていないようだった。


志藤はふっと笑ってしまった。




「なんか・・思うように、指が動かなくって・・。 ここの、細かいパッセージのトコ、」


麻由子はベソをかいていた。


「大丈夫。 ゆっくりやってごらん。 落ち着いて。」


八神は彼女の背中に手をやった。


スタジオは9時までと言われているが、麻由子はいつも深夜になってもそこを離れることができない。


いくら練習しても


不安が拭い去れないようだった。


そんな彼女を優しく言い聞かせて家まで送るのが毎日の仕事のようになってしまっていた。



父親は証券会社に勤務でロスに単身赴任中で、母親は輸入雑貨の会社を経営していて家にはほとんど戻らない。


ひとりぼっちの彼女の生活の面倒を全て見ていると言ってもいいくらい


八神は献身的に彼女に尽くした。



真尋の仕事について忙しく外回りをして、夜は麻由子につきっきりの生活が続く。


家に帰るのはいつも深夜1時を回っていた。



さすがに


疲れたなあ・・。



家に戻ると何もする気になれずぼんやりしてしまう。


お風呂に入り、缶ビールを1本飲む。


ちょっとゾクっと寒気がした。


もう8月なのに。



8月。



カレンダーを見やった。


コンクールはもうすぐだった。


あのコンクールは日本でもかなりのランクの演奏家たちが参加する。


一度


演奏家として挫折しかけた彼女には


本当は荷が重かったかもしれない。


だけど


あの子が立ち直るには


このハードルが必要なんだ。


そう信じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る