第305話 一億円
一億。一億円を母さんに叩きつけたら、俺は自由になれる。
そう思った時だった。俺は、物理的な何かを感じて立ち止まった。頭がくらくらする。頭を押さえた。
一億円。……お金、お金さえあれば。
ものすごく綺麗な女性が見えた。儚い美しい女性でひどく傷ついているのに、やつれてはいない。人形のように綺麗なのに、絶望している。
お金さえあれば、自由になれるのに……
明るい太陽の下で。俺はブルブルとリュックを持ったまま、立ち止まって何か、ものすごく具体的な感覚に、震えておかしくなった。
怖い。
その女性は、本当に絶望の淵にいたが、俺だ。俺だった。彼女、俺だ。
俺はびっくりした。ものすごくリアルすぎて、俺は震えた。
お金さえあったら。
学校に行かねば、と俺はなんとか前に進んだ。あまりにもリアルすぎて、ここがどこかわからなくなる。あれは俺だ。俺。
そして俺はJさんを思い出す。そんなの、前から思い出してたじゃないか。
Jさんは船に乗り、俺を売りに行く。単なる仲介の人だ。
俺はそのこと、ずっと前に思い出してたはずだろ。知ってたはずだ。
なのに、もっとはっきり思い出して、俺は明るい太陽の下、震えた。
怖い。お金さえあったら。
俺は、一億返したら、母さんに叩きつけたら、これで俺は自由だと具体的に思った時に、まったく同じ過去生での体験を強力に引き寄せたらしかった。
お金のために売られた俺は、お金さえあれば自由になれると……
美しい俺はイヤイヤに客を取らされている。
そして俺は、はっきり覚えているが、俺の人生は本当にそういう女性の経験が多い。
俺は、それにしても、ここまでリアルだと我慢できない、となんとか前に進んで教室に入った。他の人に挨拶すると、現実が強くなる。明るく挨拶すると皆が笑う。
俺は鉛筆を持つ手がブルブル震えると思った。すでに金曜からその兆候はあった。急に泣き出しそうになったり……
そうか、今日、今日は。
ここから二ヶ月は同じような日が続く、俺が最も弱くなる時期だ。死ぬのはこういう時期だが、あと4年あることを知ってる。
俺はこの女性が、恋人を待って、一億あれば身請けが可能だと、自由になれると切実に自由を望んで……
俺はたくさんの記憶があるが、この時じゃないかもしれない。館に火を放ち、結局逃げられず、炎の中で死んだこともある。
俺は身震いした。単なる映像を見るのと、ここまで迫ってこられるのとでは、俺自身が持たない。
助けたくとも、俺にできることは……
俺は考えた。俺が今、今すぐ金を稼ぐしかない。そういうことなのかもしれない。
俺は、本当に美しい女性が、体が汚れても、心が全く汚れていないことに、本当に驚いていた。俺にはわかる。この人は穢れがない。
そしてこの人は俺だ。
なんというか突き詰められたような、なんとも言えない苦しさが喉元にこみ上げる。俺が集中していないのを見て、すぐに先生が俺を当ててくる。
ここの先生はすごい。俺が他のことを一瞬でも考えると、すぐ俺に当てやがる。
そのおかげでなんとか、授業はきっちり参加した俺は、帰り、まだブルブル震えながら歩いた。
俺は家に帰って、とにかく仕事は一段落していたから、しばらく書いてなかったアテナイを書き始めた。俺にとっては遊びだが、何かを忘れないという意味で、俺は書き付けるのを日課にしていた。でないと膨大な記憶があっという間に薄れる。俺は、自分が書いたことの意味が、後で読み返してわからないことが多かった。オートライティングで書くことを始めたのは随分前だ。
当時書き付けていた言語は日本語ではなかった。俺の知らない言語だが、外国人に見せると、読める人が現れた。
俺は左から右に書いていたのか右から左に書いていたのか知らないが、とにかく単語の意味をその外国人は読み上げた。
記憶が定かじゃないが、神?悪魔?
いろいろ言っていたが、俺は書き付けることをせずにいたので、すっかり忘れていた。何か短い物語か、聖書のようなものなのか。
俺がそれを辞めたのは、書いても俺には何のことかわからないから。膨大な、よくわからない文字の羅列を毎日書いても仕方ないだろ。しばらくした頃、俺はそれを止めた。
その代わりに日本語で記録し始めた。
アテナイはその流れを組む。俺は深く考えてはないが、とにかく、止まることなくブラインドタッチは続く。何時間も。朝まで。夜も朝も。ピアノを弾くみたいに。まるで無意識だ。
一体何のため?
別に何のためでもないが、俺にとって呼吸と同じ行為だった。だから莫大な文章が至る所に残っている。読み返すこともほぼないような記録だ。
俺は家に帰って、ここ数日のことをタイプしていたのは、ここ数日、仕事でそれどころじゃなかったからだ。
そして、夜になって、Bが帰ってきて、俺は慌ててご飯を出す。俺ね、何だろね、器用なの?ご飯準備、朝のお弁当の時にしちゃってるから。俺どうせあんまり食わないから、Bの分だけとか楽勝。
そして、ふと立ち止まった。皿を持ったまま。
一億円。一億円さえあればいい。
俺は、俺が稼いでやる、と強く念じた。そうしたら助かるんだろ?俺が助けてやる。
その時に俺は弾かれたように思い出した。
この女性、俺じゃない。俺の過去生じゃない。
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