第295話 今からでも、できること?


 とにかく、もう間に合わないのなら、間に合うことをやるしかない。来世に向けてでも。今の今世に意味あることと、来世まで意味あることでは多少、方向が違ってくるが、来世を視野に入れないと、今の俺としてはつまらない。俺にとって、今世での成功なんていうのは、だからどうした、という価値しかないのだから。来世にもうちょっと、現実的な人類への貢献をやってみて、その中で何かはっきりすることが絶対にあるはずだ。


 俺が全てのことを怖がった理由、それは延命の為の自動装置が勝手に働いたからなんだが、それを切って何かをするには、もしかしたら、簡単に死んで、あまり意味のないことになるかもしれないし、モノに対する執着を今回の爺さんの事件で、多少切ることができたにせよ、「自分をできるだけ長く生かしておきたい」、「物理的に痛いとか、不快さを感じたくない」、というような段階をどうやって超えたらいいのかは、分からなかった。


 誰かが言ったが「全ては愛が解決するのでは」。


 ああ、思い出した。Bか。


 Bが言うには、俺が今の俺である原因は、俺が誰も信用せず、誰も愛してないからだと言った。B、鋭いな。確かにその課題が残っていた。俺は、愛について、本当に臆病だった。


 相手がいることは、俺はひとまず棚上げにした。俺は実は今でさえも、驚くほど人に親切で優しいとよく言われる。その俺が、誰も愛してない、誰も信じていないというのはすごく矛盾するわけなんだが、俺は、人によって、愛する、愛さないというふうに隔てることについても、愛というのはそういう性質のものではないだろう、と考えていた。


 だからBのいう愛が、隣人愛というような、漠然としたものでないのかもしれないとは考えていた。俺は、博愛的な感覚については、それほど怖がっていなかった。俺が閉じようとするのはもっと別の、男女の愛のようなものだ。


 違うな。


 俺は見ないようにしてる。男女の愛とかは、存在自体、ややこしいから脇にどけているのだ。


 もしかすると、セックスの奥深さは、その鍵なのかもしれないが、俺は見ないようにして、その機会をごく限定仕様と区切ってしか理解してこなかった。


 俺が否定していること、それは何か。もしもそれを逆に否定から肯定に変えてみると、何か別の結果が見えるのか。


 そうなると、誰彼構わず、とにかく寝てみれば何かがわかるということになるよなあ。俺には生理的に無理だ。ここに鍵がある。なぜ、生理的に無理と感じるのか。限定するものができてきたら、それを裏返して、限定を外して考えねばならない。


 俺にはできないが、何かセックスについてのことに鍵があり、それは今の俺と真逆の考えを試せばまた何かがきっと見える。


 うーん、そこまでわかっても、試す勇気は今の所ないな。欲望の否定でなく、肯定で見えることがなんなのか。


じゃ、一対一でなく、乱交的な背徳か。うーん。


 試してみて、やらなきゃよかったなあ、と後悔したくない。俺は後悔の多い人間だが、馬鹿げた実験って、やらなきゃよかったと思うことが多いというのを今回、嫌という程学んだから。


 だから、閑話休題させてもらう。


〜〜〜〜



 まともな書籍は、インターネットの冷凍ピザのような情報とは違っていて、俺は本屋に行って、しまったと感じていた。俺の努力ってなんだったんだろう。悟りを得るためにあらゆることを許すべく、我慢してみたが、無意味?マジでバカじゃねーのか。


 俺は今年はもう違う年にする、と思い腰を上げ、大嫌いなこの国の言語を学ぶことにした。なぜ嫌いかって、それは生理的なもので、大学の時に第2外国語で取っていたが、1分も聞いていると寝てしまうことでそれが証明されていた。なんだか引っかかってこない、鼻持ちならない言語。この国の人間というのは、本当にスノッブで俺には鼻持ちならなくて我慢できないと感じることが多かったが、その通りの言語だった。これ、Bには内緒な。


 かといってどの国がベストなのかということになると、そんな理想郷はどこにもないことを知っていた。俺は結構いろんな国を見てきたが、ここなら、と思える国などなかった。まだ、今いるこの国は、そういう意味ではマシだ。病院に入院して、死ぬ確率はとりあえず、まあ、実感として、半分半分くらい。70〜80パーセントくらいで殺されそうな野戦病院並みの発展途上国の医療施設に比べたら、長期バカンスでカルテの引き継ぎミスがありそうな程度のこの国はまだマシな方だろう。


 とにかく、この国の語学をやらないと話にならないから仕方ない。俺がこれまで逃げ惑うようにこの国の言葉を喋らなかったのはひとえに「嫌いだ」という生理的な感覚だったが、もはや仕方ない。スノッブな人間も大嫌いだが、自分がスノッブに振る舞うことで、戦うしかなさそうだ。この国の人間は教養のあるふりをしたがる。そういう意味で気の利いたこと一つ言えない奴は犬と同じということ。俺はこの国のそういう考え方が大嫌いだが仕方ない。そういうことはしたくないが「即座で言葉で叩きのめすような返答」をするしかないんだろう。


 これは日本では本当にありえないような事態だ。全てを丸く収めるために、言葉を飲み込み微笑むのとはまるきり逆だから。どうもあの爺さんが俺を不気味だと感じているのは、俺が酷い仕打ちを受けても、にっこりしているからじゃないかと感じ始めていた。そりゃあ、よく考えたら不気味だろうが、俺一応、言葉、わからないはずだから。まあそれでも不気味なのは、爺さんの口調が本当に金切り声のヒスッた声で、そういう声をかけられた相手が不快な反応をするのに慣れているからだろう。俺は知ってる。この爺さん、自分が攻撃される前に先に怒って、先制攻撃しているのだろう、と。そのいつものやり方が、笑顔で返されると不気味で気持ち悪いんだろう。本当に戦うことしか能がない爺さんだ。俺は、よし、もう縁を切ろうと思い始めていた。土地や家も正直どうでもいい。どうせ俺の場合、そんなに大事なものはないわけで、こういう時、結婚してない、パートナーいない、彼女いないと自由でいいよな。



 たった2年でここまでの気持ちにさせるとは、本当にこの爺さん、世界中で誰からも愛されないというのは、側にいて、身が切られるみたいに理解して、こういう老後は本当に悲しい、と、俺自身、本当にこの先の身の振り方を真剣に考え始めた。こういう老後だけはさすがに嫌だ。


 これが反面教師というものか、と俺は思ったが、母さんが「人の役に立つことをやろうというような人生でないと、そんなふうに本当に最後、誰からも見向きもされないような寂しい人生の終わりになるのよ」と言った。


 母さんの言うことは当たってる気がした。


 最初、でも、人は見かけに寄らないから、案外と有り余ったお金を孤児院に寄付しているとか、慰問してるとか、発展途上国に井戸掘ってるとか、何かあるんじゃないかな、と思っていた俺は、まあ、この爺さんの場合、そういうのなさそうだな、と思った。


 お金と裁判のことしか考えてないのが伝わってくる。それとアンティークと古い絵画や芸術と。


 何だろうな、同じような老人でも、別にここまで酷くないんじゃないのか。何が違うといえば、やはり、結婚して、家庭を持って、子供を持って、としていない点なのか。


 このムッシューに機嫌よく挨拶するのは、医者と、弁護士と、公証人と、レストランやお店の人だけだった。


 俺は、絶対にこのムッシューと同じような道を行ってはいけない、と見ていて思った。このムッシューだって、子供の頃は天使のような可愛らしさで、周りの人から好かれていたはずだ。その証拠に、自分より上の世代の祖父母からは近所の人たちからでさえも、溺愛されるみたいに可愛がられ、別にごく普通の関係だったと聞いていた。


 だから、この老人の祖父母の世代から、この老人を知る人は、そこまで悪く言わない。天使のような可愛い息子さんということで、普通に許されてきたに違いなかった。俺は、本当に自分も気をつけないと、同じ轍を踏む、と、怖くて仕方なかった。人に理由もなく好かれてしまう弊害。自分の容姿のせいで、何をしていても、いつも注目されているような状態。いつも人目につく、鬱陶しい自由のなさから逃れようと、起こってきたことに違いなかった。この老人が人を寄せ付けない理由も、そういうことじゃないか。俺は写真を見た時に、ここまで可愛いと変なおじさんに通りすがりにでも触られるよなあ、とぶるっと身震いした。電車とか、バスとか、本当に場所を選ばない。考えただけで気持ち悪いが、この世の中には変な大人が結構いる。


 そういう意味で、この老人と自分は、そっくりな状況に置かれてたということになる。俺は高校生の時、「ドリアン・グレイの肖像」を読んだが、なんだか微妙な気持ちになった。男にとって美しさというのは、あまりプラスに働かない。普通でいい、普通で。外側と中身と、そのギャップについていちいち問題が俎上に上ることになり、見掛け倒しと言われたり、案外と〜だ、と批評されるネタになってしまう。


 俺は早くからこのムッシューと俺との共通点に気づいていて、だからずっと我慢していた。まあ、気持ちわからなくはない、と。このムッシューはゲイなわけだから、余計に、他の人の口の端にのぼることを思うと、閉じても仕方ない。


 毎週毎週の食事と美術館巡り、もう俺は行かねーわ、と言いたかったが、それもできなかった。日本から帰ってきてすぐの時は、疲れてるとかなんとか言って、俺はパスした。


 爺さんは「来たら良かったのに、楽しかったのに」とわざわざ心にもないことをにこやかに俺に言ってきた。本当にそう思って言ってるのか、それが違うというのは、俺を使用人のように声を荒げて気分によって怒鳴りつけるところからも明らかだった。たぶん本当は嬉しくて仕方ない感じ。でもそれを隠して言ってるのがわかると、俺は、ゲイというのが本当に気の毒に思えて仕方なかった。むしろストレートに「お前がいなくてラッキー、デートみたい」と本心で言ってきたら、その方がマシなんじゃねーかと心の中で思った。時にね、むしろ正直な方が可愛いことがある。


 俺はどうしてもこの爺さんが好きになれないのは、やはりスノッブすぎるからと言わざるを得なかった。


 俺がいなくて喜ぶとわかっていると、嫌でもついて行って邪魔したくなる。俺だけだと仏頂面の爺さんが、Bが来ると、やっと人間が到着した、とばかりにニコニコ喋り出す屈辱を俺は忘れないが、これは多分に、Bに言わせると「お前な、爺さんが気に入らないことを選んで常に喋るだろ」ということらしかった。どうもこの爺さんと俺は本当に相性が最悪らしく、つい爺さんが最も触れられたくないことを言ってしまうらしかった。俺にとって、この気位の高すぎる爺さんは、もうちょっと棺桶に入る前に世間を知るべきだと思っていたが、どうもそんなこと、聞く耳持たない爺さんには全く無駄らしかった。俺が「はっきり本当のこと」を言うことはそれでもごくたまにで、毎回じゃなかった。この執念深い爺さんは、その「ごくたまに」が気に入らないらしい。


 俺がそんな地位に甘んじて、できるだけ口答えしなかったのは、この爺さん長くない、と直感していたせいもあったが、それにしても耐え難かった。いくらすぐ死ぬ老人だからと言って、何をしても良い、何を言っても良いというわけないのだが、俺は「こんなことじゃ天国は遠いが、気の毒だ」と思いながら、そのことを指摘したら、また心臓麻痺になりそうなぐらいの勢いで激怒するだろうし、だいたいにおいて、ほぼ放っておいたに近かった。それでもなおかつ、俺のことが気に入らないと言うのだから、まあ、見渡しても、爺さんの周りに人っ子一人いない理由がわかるというものだ。俺たちがいること自体、奇跡に近い。


 これ以上もうどうすることもできないくらい俺はよくしているつもりだった。


 もし俺が、ここまで爺さんの内面を理解していると知ったら、この爺さん、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしいだろうと思う。たぶん外れてるということはないと思う。これだけじっと観察していて、もしも、俺がわかってないのだとしたら、俺も本当に分析が甘い。


 爺さんは過去をノスタルジックに胸に秘めているから、自分が売った家なのに、まだ売ってない店子を住まわせてるだけみたいに、俺たちが蔦を切ったり、庭を触ることに口出ししてくる。


 自分が売った家をまだ自分の所有物だと思っているこの状態、頭大丈夫か、爺さん。


 この老人をここまで甘やかしたのは両親と周りの人だろうが、死んでも治らないと俺は、歯を食いしばって我慢し続けた。この老人の美学はわからないでもなかったが、結局、美しいものを優先させ、生きている人間を虫けらのように扱うあたり、もうとっとと三途の川を渡ってね、と俺に思わせた。近所の人からは「あんな老人が隣に住んでいて何ともないですか?ウチは、絶対に没交渉、これからも、これまでも。あの人がいるのなら、お宅ともお付き合いする気はゼロなので、あの人が来る会は、ウチは誘わないで」何人からもそう言われたが、その度、俺は苦笑いするしかなかった。同じ空間で同じ空気吸うのも嫌、というやつだ。


 老人はBには絶対に声を荒げない。Bはな、実は怒ると怖い。俺だけにしといて正解だ。Bを怒らさせたら、それこそ死んだ蛇が口を開けないみたいに、毒が送り込まれてる状態でも、牙は抜けないぞ。


 老人はBのルックスと物腰がドンピシャに好みなんだろうと見て思っていた。俺にとってBは普通だが、他の人にとったら、Bは美形ということらしい。俺は自分を基準に考えるから、Bは普通だろうと思っていたが、俺たちが並んで歩いている時の、老人の得意そうな顔と言ったら。


 俺は、無料でこんな役をやってやっている状態に、Bがそうしろというから従っていたが、このとんでもなく甘やかされている老人について、早くちゃんと距離を置きたくて、俺は出て行くことを考え始めていた。でも、家をどうする?俺が単にBに、頭金返せよな、と言って出て行けば済む話かもしれないが、貯金ゼロのBは家のローンで一杯一杯。親や親戚から借りるわけにもいかないし、何より俺は、住むところをなくすから、今の状態だと我慢してここに住み続けるしか方策が残っていなかった。俺はBや母さんにパラサイトの状態になってて、この国では仕事が見つけられないから、また起業しなきゃならないが、俺はそのネタを見つけられずにいた。いろんなことに失敗してくると、やってもうまくいかないことは、やる前にすぐわかる。俺も、本当に焼きが回った状態で、これならうまく行くということを探し出すことができずに、こづかい稼ぎのようなバイトに終始して、健康も害しているし、どうすることもできずに今になっていた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る