第271話 今年から、俺は変わる
今年のクリスマス・イヴ、俺はあいつに電話した話したよな。結局あいつからコール・バックはなかった。
俺は同時に真夜中、Bが寝静まってから、とうとう意を決して空で覚えている番号を押した。別に日本の携帯に番号は登録されたままのはずだった。
俺が暗記してる電話番号というのはそう多くはない。
夜中の12時前だった。あいつはこの時間なら、ギリギリ帰宅してるかもしれない。本当は1時まで待ったほうが確実だったが。クリスマス・イヴのような日に電話する無礼に、俺は大いにためらいながら、もし万が一まずいなら、留守電か電源自体を切ってるはずだ、と考えた。
俺は何度も「お前さあ、俺、時々こんなふうに突然電話するけど、もし迷惑なら、やり過ごして出ないでくれ」そう言っていた。
それくらい真夜中が多かった。でもあいつは昔から、3時にかけても、4時にかけても、明け方、真夜中なのに、顔色一つ変えないような平坦な声で電話を取った。「寝てたか」と聞いても、それには答えない。
まるで電話がなることを事前に知っているようなあいつに、俺はいつも一方的に話しかけた。ある時、転職したとあいつは言ったが、真夜中に、ジャブジャブと音が聞こえ、聞いてみたら、明日の分の洗濯だ、と答えた。マザーテレサは着てる服の他に着替えがそれしかないから、シスターたちと同じような理由で、そんなふうに洗濯していたんだろうと思うが、清貧とは何かというのを地で行くような話だ。私物というものがほぼないという状態は、本当にすごいと思うが、Bも出会った頃、そうだった。Bの私物というのは、スーツとネクタイ、カバンにイヤホン。アイロンと、アイロン台と、コンピューター。ジャムとシャンプー、石鹸にカミソリ。歯ブラシ歯磨き粉。冷蔵庫の中の卵とバター、ほうれん草にスライスチーズだけだった。綺麗さっぱり私物がそれだけで、俺は、Bが引っ越したばかりだと勘違いしていたが、もう半年以上、そこに住んでいたらしかった。
俺も、奴らから、そういう生き方を学ぶべきが、俺の場合は、「美しい」とか「美」とか呼ばれるもの、そういう「虚」のものに、まるであの老人のようで苦々しいが、そういう世界に魅了されたままで、まだそこの段階に住んでいた。俺自体、価値観のようなものが、ちょっとあの老人に似ているところが問題だった。美しいものの前に、生きている存在をないがしろにしてはいけない。俺が超えないといけない部分というのは、結局のところ、自分がこだわる美学のようなものは、結局、人を幸せにしないという部分なのかもしれなかった。モノを優先させることで、人を不幸せにするのなら、そんなもの、消え失せるほうがいい。俺が人間関係についても、めちゃめちゃに選り好みが激しいのも、爺さんを思い浮かばせた。見た目だけで中身を見られることなく、人からむやみに好かれることの弊害なのかもしれない。俺は、この爺さんのようにだけはなりたくない、と強く思った。
この屋敷に住んでよくわかった。この屋敷は住むものが幸せになるのを阻害している。人が一度来たら、なぜか二度と来たがらない。それは、あの老人のその、人を寄せ付けないような趣味がこの屋敷にも同じように染み付いていて、生きた存在である人々を否定するからではないか。暗い気持ちになり、気詰まりだ。美術館なら、多くこういう美術館はある。見るべきものがたくさんある。でもここに住むのは正直、本当にキツい。俺もBも、この爺さんが死んだら、俺たちも爺さんの屋敷を買った人に高く売っぱらってしまおう、ということで意見が一致しつつあった。それくらい、正直、絶望的に、基本的なメンテナンス、修繕に金がかかりすぎて、無理の状態だった。ごく普通の住める家にするためには、最低でも1500万円くらいはかかるに違いなかった。
俺は呼び出し音を数えながら、あいつが出るのを期待せずに待った。縁があれば出るし、なければ出ない。
電話は結局、ボイスメールに転送された。俺は俺のコードネームがわりの名を口にした。あいつなら俺だとすぐわかる。あいつでなくとも、俺の古い友人ならすぐわかるだろう。何より、俺は名乗らないこともあったが、それでも大抵の人は俺とすぐ気づいた。
「久しぶり。誰だと思う?」と笑うと、こんなこと言う奴は一人しかいないから、と皆から言われた。
俺は虚しく、モノローグの近況報告を吹き込んだ。クリスマス・イヴに景気の悪い報告で悪い、と言った。真面目に痛いのと、Bが大変だとは言わなかったが、案外思った結果を得られないまま人生終わるかもしれない、残念だ、と言った。
そういえば、あいつはBに会ったことがないな。それは偶然に近かった。店をやっていたあいつの母には、Bを何度か紹介したはずだから。
俺は景気悪い報告を延々と続け、留守電は切れた。もう一度掛け直して、同じ非礼を詫びて切る。
あいつは電話をかけ直すと言うことをするのかどうか、必要ならするし、不要ならしない。それで俺もこの件に関して、先が読めるはずだ。
折り返しの電話はなかった。あいつは必要ならかけてくるし、必要でないならかけてこない。まだ俺は頑張れるということなのか。俺はそう思った。
〜〜〜
俺は一月、こっちに帰ってきたから、週に2回、2時間ずつ語学クラスに出ることにした。よくここまで引っ張ったよ。こんなに長く住んで、パン買う程度にしか現地語が喋れないというのは。ある時、言われて気づいた。「あなた、この国の言葉を話さないのは、そういうポリシーなんでしょ?」
ああ、そうかと自分で納得した。そうだ、気に入らないから英語を突き通してる。この国の言葉を使うと同じ土俵に上がらなきゃならないから。たったそれだけの学校って足りない気がしたが、ゼロよりはましだ。行ける時は、週に4回でも、5回でも行くしかないが、とりあえず。
まあ、でも長い無駄な時間だったよな。俺は向こうが何を言っているのかはわかるから、こっちの返事が全て英語だと、話せる人とは自然と英語の会話になるが、現地語しか話せない人が結構、多い。まともな知識人なら必ず英語が通じるせいもあって、俺の現地語能力はゼロに近いままだった。本当に周囲の人が呆れるくらい、それは変わらなくて、ここにきて嫌々に思い腰を上げたのも、ほぼ、この国の言葉で即座に論破しない限り、この爺さんは俺を舐めていつまでも犬と同じ地位でいることを余儀なくされるから、というような、ネガティブな理由だった。
俺が、相手の言ってることをほぼ理解しているというのは、相手が英語がわからない場合、俺の返事が相手に全く通じないから、そこが問題だった。俺は現地語が理解できない方が幸せだよなあ、と常々思っていた。それは、この国の人間がとんでもなくスノッブで、自分勝手で、自分のことしか考えてないのが、あからさますぎるから。これが個人主義というやつなんだが、個人主義でまとまった国として存在できることの方が本当に不可思議だ。ほぼほとんどの人が「自分さえ良ければそれでいい」ということだから。
まあでも、あんまりそういうこと書いてもプラスをもたらさない。じゃ日本に帰ればいいじゃないかという話になるだけだ。日本は逆に言いたいことを全く言えないような国だから、どっちがマシなのかという話になる。
全く自分のことしか考えないような人ばっかりの国に住むのか、言いたいことが言えない、自由のない厳しい集団主義で高圧力の集団に所属するか。
何事もネガティブな側面ばかり見ると、それはそれで公平ではない。
この国だってまあ、自由で人目をあまり気にしないでいいのは、良い点だった。俺は日本から出て、その点は本当に助かったと感じていたから。スノッブというのも、自分のことは自分でできます、みたいな自立した精神性があるということで、人の世話になどならない、なりたくないというような、甘えた感じの少ない社会ということになる。美意識やこだわりも良い商品、デザイン、芸術を生み出すのに有効だろう。
まあ、一長一短なわけで、もしも俺が、この国のそういう長所をもっと知るためにこの国の言葉が必要と心から思っていたら、違っただろうな。
そう考えて俺は、とりあえずこの国の知識人が書く本を日本語と原書で読んでいくことに決めた。それって何のために?と思うかもしれないが、俺が語学の勉強をしたいという動機は、単に爺さんと喋りたいわけじゃないから。
知的に意味があると思えないと勉強できない俺は、興味がないことはできない。だから、とりあえずこの国の知識人の本を原書で読めるようやってみるという目標があれば、勉強する気も起きるというもの。
ただ問題は、読むならもう、普通に読めてしまうということだった。俺は、発音や文法が全くダメだということにすでに気づいていた。実は現地語の新聞は見ただけで、何が書いてあるのかくらいはざっくりわかってしまう。結局のところ、そういうオーラルなレッスンとなると、先生がいるんだよなあ。
美人な女子大生の先生とかだったら、すぐに上達しそうなものだが、なかなか積極的にそんな浮ついたアノンスを出す気にもなれない。俺自身、逆の立場で下心に敏感なせいで、むしろ自分からそういうの、できないな。
でも、ラッキーなことに、語学学校は格安で、家の近所で、先生も多く、しかも懇切丁寧だった。この国に来た当初から知っていたら、まるっきり違っただろうに本当に無為な時間を過ごした。
俺はこう言ってはなんだが、退屈すぎる絵画教室はほぼ諦め、語学学校、ヨガ、アトリエというサイクルの生活を送ることにした。
ヨガは……まあ実は、無茶苦茶に先生のことが気に入っていたからなんだが、この件はもう書かないことにする。多分。
仕事だよなあ、仕事をどうしよう。Bに、家を使ってカフェとかダメか?と聞いたら、ダメだと言われた。サロンやアトリエも今のところダメだろう。
この家を買った意味がまるっきり無い、と俺は言いたかったが、困ったな。俺が、カフェで働くとかダメか?と聞いたら、Bが「お前には無理だし、もっとちゃんとした仕事にしろよ、前みたいに先生やれよ」
B、職業で差別するよなあ。俺、カフェでどうやって中を回しているのか知りたかったんだが、Bの気持ちもわからなくもない。フリーターみたいにカフェで働かれてもなあ。
先生の募集は、あるにはあったが、遠かった。俺は遠いのは避けたい。命に関わる。この国の深夜の電車なんて、死んだ気で乗ってないとダメだから。むしろ深夜は遅くなるならタクシーじゃないと危ない。だが、タクシーに乗ればその日の働きからマイナスになるだろう。
他の人からも、雇われることを考えるな、自分で何かやる方が早いぞ、と言われたが、俺は逡巡していた。自分で何か始めるほどは気力がまだ戻ってない。何より、この爺さんの目につかないところでやることじゃないとダメだから。
俺はインターネットを使って仕事をしていたが、雀の涙ほどにもならなかった。一時、これ、もしかしていけるかな、と感じたこともあったが、とんでもない。日本の経済は本当に低迷していて、どんどんクライアントの経済感覚も地を這うように下がっていった。
うーん、困った。兄貴は株でまた損をしていると言ってるし、俺はあまりギャンブル的なことには興味がない。
とりあえず、コンペに応募していくしかないから、地道に書類を作って出して、既に一つは落選が決まった。そんなことは意に介せずに、どんどん出さないとダメだが、6月と10月に大きな締め切りがあり、俺はまた、寝ないで作業する日々をしばらく続けていた。
そんな時だ。この硬直した状態に小さな変化を投げかける出来事があったのは。ひとえに俺が、連日、明け方まで起きていたせいだった。
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