第164話 ビデオと記録のアートと真実と。


 友人は超有名女優の付き人のバイトをしていたが、彼もかなりのイケメンで、やはり顔というのはとても重要らしかった。俺は彼ほどはイケメンじゃない。彼はさすがに、そこにいると女優の新しい恋人か?と思うようないでたちで、俺が知ってる中でも、1、2を争うイケメン、良いところの坊ちゃんだった。彼はアーティストでなく、映画監督を目指してこの大都市に来ていた。俺と彼が出会ったのは、路上で、彼は地べたに座り、写真を売っていた。俺が、一枚買って、サインを裏にもらってすぐ、警察がやって来て、違法だから撤去しろ、と言った。


 俺は、こんな綺麗な顔した男が、乞食同様に地べたに座ってることについて、おかしいと直感して、話しかけた。写真作品は良いものだったが、もともと映画監督を志していたとは。たくさんそうやって写真を売ってるやつはいるが、俺は後にも先にも、購入したのは、この時だけだ。俺の直感はすごい。


 俺、その時ちゃんと、彼の電話番号をゲットしていたらしい。そこから付き合いが始まった。彼のすぐ側の狭いアパートのトイレに電気はなく、代わりにろうそくが置いてあった。最上階の彼の部屋は、俺の部屋から徒歩で25分くらいの場所だった。


 俺は彼の部屋にふらっとよく行った。いつ行っても誰かが一緒にいた。留守だったことは2度ほどしかない。俺はそんなふうに、約束せずに出かけるのが好きだ。彼は格安で俺が依頼した記録映像を撮ってくれたが、ひとえに金に困っていたせいだろう。映画関連のコネで、を見つけると、途端に会いにくくなった。彼はほぼ、寝泊りもそっちになったようだった。


 彼は清潔感があり、真っ白な顔をしていて、美少年が青年に一歩踏み出したみたいな雰囲気の男だった。綺麗な色の抜けたような細いまっすぐな金髪。人間の男というよりも、気弱な、優しいと呼ぶには少し気怠げな気弱で気まぐれな天使のような風貌をしていた。俺は人の風貌について説明するのは珍しいが、それくらい彼は、美しかったということだ。さすが映画業界。実は彼は、自分の映画の主演もやっていた。まあ、金の節約にそれは常道で、俺ももうちょっと金があれば、誰か役者を雇いたい、と思うことが多かったが、仕方なく自分が出る。彼も一緒だろう。ただ、俺はそこまでは美しくない。アジア系の限界だな。彼の場合は、本当に絵になる男で、テレビの画面に映っても、スタッフには決して見えない、美しい中性的な俳優にしか見えない。かといって、ゲイにも到底見えなかった。なぜかわからないが、本当に自然体だったのだ。


 俺がもらった彼の過去作品の映画では、アメリカの地方のエアポートを借りて、撮影をしていた。そんなことができるのは、隠していても坊ちゃんに違いない。多分自分の実家で撮影していたが、フロリダの豪邸か?というような実家だ。飛行機は自家用機だろうか?数年し、電話番号が変わってしまったのか、すっかり彼に連絡がつかなくなってから、カンヌのレッドカーペットで、彼がカメラに映ってないか、ニュースを見たら、なんとなく目で探す俺がいた。まあ、俺のことを忘れた、というのはないだろうが、彼は自分から絶対に連絡してくるようなタイプじゃない。いつも映画関係のスタッフに取り囲まれていたが、映画監督にありがちな独善的な雰囲気は一切なく、まあ、映画の作り方にも寄るんだろうが、本当にやりやすい男だった。


 名前をググると、彼はその国民的女優の後ろ盾で、写真の展覧会していたが、その後、どうなっただろう。この大都市はたくさんチャンスが転がっていたが、その先を俺は知らない。映画をやってて、そこそこいいとこまでいってるやつは、小島にもいたが、なんせこの世界は金だ。


 俺のDVDの作品のいくつかは、彼の撮影だった。残念なことに、3本撮ったが、その後は、忙しくなりすぎて無理だと、アシスタントがわりの友人を送ってきた。それがあんまりイマイチで、俺は結局、途中で首をすげ替え、別の友人に続きの撮影を頼んだ。ああ、まさかの最悪の事態だった。舐められるというのは怖いな。本当に、全て、金の世界。俺の支払う金額が安すぎて、ということなんだろう、ま、仕方ない。3本取れただけでも、ラッキーだったと思うしかないのかもしれない。今はこの世界も価格破壊が進んだが、当時は本当に映像制作できるやつを見つけること自体が難しかった。


 今やDVD撮影も編集も簡単になってきて、ちょっとしたことなら俺自身がやる。画質は i-phoneで十分と考えるようになったのは、重いカメラを持ち運ぶほどに、ビデオの世界はもう、そういう、なんだろな、固い世界じゃなくなった。


 言わば誰でもがアートできる時代になり、写真もビデオも、そこに芸術性、特別な何かを求めること自体に無理がある時代になった。俺は、このジャンルはもう大衆化しすぎて無理だな、とかなり早くに結論づけている。俺が映像を残すのは、芸術としてでなく、単なる記録だった。


 俺はコンピューター、実はこう言ってはなんだが、常に使ってるくせに全く得意ではなかった。道具として使うだけで、それ以上でもそれ以下でもない。一昔前はアートになり得たことも、大衆化は一瞬に進んでゆく。子供が自分の趣味のHPを自分で作る時代なのだ。


 どんどん裾野が広がり、自分のやっていたことが技術の進歩で誰でも簡単に綺麗にできるようになると、話が変わってくる。写真もビデオも全てそうだった。


 たとえ俺が時代を先取りしても、長い目で見たら、ほぼ意味がない。もうこのジャンルはダメだな。


 そんな中で、どうやって生き残っていけばいいか。時代にひっかき傷をつけるには?


 俺が生きた証などではなく、俺は時代の潮流の先に新たな芸術ジャンルの開拓者として住んでいたかった。そういう大それた夢は、俺が海外に出て、ある程度実績を出すまでは、皆から本当に嗤われ、そんな夢物語、と相手にされなかった。


 やっとここまできたが、それでもなおかつ、全く実績は足りなかった。実績が足りないというか、俺自身、Bといて幸せすぎて、なんというか普通の生活を謳歌しすぎたか。しあわせというか、いやそれは照れくさいから言いにくい。よくわからないが、ごく普通の日常生活で満足できるようになったのかもしれない。これで俺が、普通のサラリーマンとか、パン屋でも先生でも、なんでもいいが、ちゃんと働いていて収入あったら、何もいうことないんだが、そうは問屋がおろさなかった。


 今ここにきて、もしかして死ぬなら、どの順番で何をやりたいですか?優先順位をつけてみてくださいと、うさぎちゃんに言われると、俺がやりたいことは本業に関わることだけだ。別に俺がやってるのはビデオや写真だけじゃない。俺の問題は未だに自分にぴったりの表現メディアを見つけられてないことなのかもしれない。俺は平面の世界には興味ないし、才能もない。かといって、彫刻や立体、空間が得意かといえば、そうでないのだ。なんだろな、この中途半端感。音楽でもないし、やはり俺が住んでる世界というのは、すごいニッチな世界な気がした。ニッチでも専門性があればいいが、を作らねばならないため、俺は長い間、低迷のままだった。四の五の言わず、黙々と作ればいいんだが、兄貴が「お前、まさか思いつきで制作してるのか?」と言われる通り、俺の閃きというのは、本当に白昼夢なものばかりだった。このいい加減さは、本当に潰しがきかない。しかも今や、どんなジャンルでも既に存在する。


 俺は長い間、小学生から詩や日記を書いていたし、海外に出る前後はずっと記録文を残しているが、それでも、そんなものはゴミに近かった。俺の制作とは、ほぼゴミの生産だと兄貴になじられたことがあるが、真実に近い。SNSがなかった頃、写真やビデオ、個人の日記に価値があったかもしれないが、今や、どこにでも溢れていた。人一人の記録など、ネットを掘ればどっからでも出てきてしまって珍しくなど全くなくなった。


 テクノロジーが発達して、古い記録を一瞬にふるいにかけて、分析してなんらかの結論がすっと出せる、シュミレーション・マシンみたいなものがアプリになれば別かもしれないが、今のとこ、読むだけ、見るだけでも、書いたもの、撮影したものと同じだけの時間がかかる。そんな生情報、どうすることもできねえ。俺は、1日に8時間以上はきっちりPCに向かう日々をずっと昔から、文字で生活を記録するためだけに送ってきたが、正直、生きて何かを経験するより、PCに向かってる時間の方が長くなる。記録するアートから何か、誰かが教訓を得るには、生の情報を自動で処理できる時代にならないと無理だ。


 俺はピックアップされた出来事から学ぶのでなく、丸ごと他人の人生を追体験して学ぶには、と考えて記録してきたが、俺の人生から、他人が何を学ぶ?


 俺はその理由で、365度、自分の全てを記録し続けるというプロジェクトはあっさりドロップした。自分でもう一度見直すことさえもできない。誰もそんなに暇じゃねえ。そういうふうに、カメラとマイクで俺の人生のすべて記録して、その後どうする?撮った記録を見直す時間もないぞ。


 これねえ、今、書いている現在、2018年だが、恐ろしいことに、勝手に戯れに撮った写真やビデオを自動でムービーなんかにする機能が i-phoneに搭載されてるわけ。そうなると、やってもいいかもしれねえよな。AIが適当に編集してくれるってこと。でも、俺やらねえよ。もうすでにきっと誰かがやってるだろうから。俺、自分の人生から何か教訓が引き出せるんじゃないか、と、後世の人が分析して何か意味あるもの見出してくれるんじゃないかと思ってたけど、ゴミだね。本当に最近そう思えてきた。なぜだと思う?


 イマドキの小学生と話すとわかるけど、PCと同じように、最近の子どもは搭載されてるCPU、基本能力が違う。昔の人の経験なんてものを分析せずとも、自然にDNA的に、解決されちゃってる。まあいわば、「100匹目の猿」的に、経験してないことも、経験したことと既に同じになってる。よくわからないが、バタフライ効果的に、俺が右眉を釣り上げると、地球の裏側の魚がエサ食うんだよな。意味不明だけど。


 そんなふうに全ては繋がってると思わざるを得ない。そうなると、ほぼ、細かな詳細の無名の個人記録なんて、検討・分析する意味なんてゼロになってしまう。新しい世代の子どもたちは、すでにDNAレベルで俺たちなんか軽く超えて生まれてきてる。そのことを実感するのは、喋ってみると飲み込みが早いことに驚く。文字のチャットでもそうだ。子どもたちの方がずっと頭がいい。まるで、電話やテレビが開発された頃、すげーと思って見てたとしたら、生まれた時からテレビがあったら、ごく普通の日常なわけで、携帯もコンピューターも、生まれた時から普通に使ってれば、もうそれは本当にごく普通のツール。「栓抜き」や「はさみ」となんら変わりない。


 まあ、そんなわけで、俺が過去にやり続けたことなんかが、ほぼ無意味なことの羅列になってるわけで、何が真実かなんて、記録や文字、映像からはどうとでも、引き出せる。俺は長い間、ずーっと人生のテーマとして、主観、客観、真実、真理について考察してきたけれど、人生から何を見出すか、それって、正直、何でも見出せる。どんなこともありがたがるような結果に引き寄せて解釈することもできるし、逆も然り。


 俺は、悟りを開くに至ったような聖人たちが、立つ地平はどこだ、と常に追って生きていたつもりだったが、のかもしれない。


 俺が理解したところによると、のだ。その事実は、全てをひっくり返すことになるため、俺は口にするのを憚る。


 もうそうなってくると、自分が誰であるかも、よくわからない世界になってくる。俺は俺であるが、同時に貴方でもある可能性が高い。そうなってくると、設定自体がもうすべて古い。俺は俺であると同時に、パラレルすべての魂と横つながりで、しかも、目の前の対象とも、実は連動している存在で独立などしていない。


 繋がりを切って考えるということができないのなら、完全に俺は、すべてに繋がってる俺であり、俺の思い通りにならない意思決定をする、よくわからない他人とも運命共同体的に、どうすることもできない繋がりで連動中だ。


 黙るしかなくなるな。視点をひどく遠くから見ると、そこを這ってるナメクジと俺は、繋がってるわけだから。


 もう成功とか、生活とか、金とか、正直どうでもいいんじゃねえか。実のとこ、パラレルの世界まで見ようとすると、本当にややこしくなり、自分がどこにいるのか、うっかりしたら本当にわからなくなる危険性が高い。俺は俺なんだが、同時に俺じゃないわけで、俺が何か言う時、たまにそれは俺じゃないわけ、すでにそうなのだから、これ、進むとマズい。


 これはいわゆる統合失調と呼ばれる症状にカテゴライズされることになるから、医者には真面目に話すと変な薬を投薬されるぞ。


 まあ、そんなわけで、下手に意識の拡張などを試みるのは危険なわけだが、俺はそれでも、真実を分析したいから、「ここまで何もしない」生活に甘んじているのかもしれない。「何もしなかったらどうなるか」だんだんわかってきた。床を掘るしかなくなる。俺は黙々と、まあいわば、地面を掘ってるわけだな。用事もないのに。



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