第159話 ムッシューの失踪 



 たまたま出会った近所のマダムは、道を挟んで、真向かいだ。長く住んで、見かけたのは初めて。挨拶して、事情を話す。


眉をひそめ、本当に?と言った。おばあちゃんの年齢。65歳くらいだろうか。


 マダムは「わたしたち、あそこのムッシューとは没交渉なのよ」と何度も繰り返して言った。


 変人だから付き合ってない、という意味だろう。そしてこれからも付き合うつもりはないという固い意志表示。



 「でも私ね、昨日、お掃除の人が入って行くのを見たのよ!」


マダムはちょっと興奮して、そう言った。


 「警察に言ったほうがいいかしら?」


 俺たちはひそひそと、お手伝いさん、俺も見たんですが、いつもと違う人だったみたいで、声をかけそびれた、と言った。俺もマダムも、事件かもしれないと思い、何だか興奮していた。


 密かにこの町だって例外でなく事件がある。俺がいつも使っていた血液検査のラボの斜め前のベンチで凄惨な銃の修羅場があったくらいだった。浮気した妻と間男。激昂した夫が猟銃を持ち出し、そこで射殺し、自分も自害。こんなに平和な村でも、そんなことが起こるのだ。俺は血だらけの現場を見たわけじゃないが、そこのベンチに綺麗に飾られた花を見て、前の眼鏡屋に何があったか尋ね、事件の顛末を知った。銃が危ないのは、キチガイに刃物となった時だ。


 俺たちはヒソヒソと立ち話を続けた。俺はこういうのは得意だ。なんせJさんと同じ、これは情報収集で、聞き込み。俺、子供の頃からなりたい職業は探偵だったんだが、実際の探偵業というのは3Kでラブホの張り込みだからな。密かにJさんは、俺もバイトしてたんだよ〜とバラし、もちろん副業禁止だが、みんなやってるからさあ、と言った。俺とJさんで探偵会社でも立てる?という話になったこともあったが、Jさんはもう体力的には無理という感じだった。徹夜で寒い車の中で夜明かしなんて、若くないとできない。俺は知らなかったが、野営はうっかりしたら死ぬぞ、気をつけろ、とJさんは言った。そんなに簡単に人が死ぬって、ホームレスを俺は本当に尊敬する。寒い中、外で寝るというのは本当にキツイ。俺のように軟弱だと、うっかりしたことで本当に死にかねない。俺の仲良かったやつの兄貴は車の中の仮眠で明け方亡くなっている。まだ若くとも、何があるかわからない。


 マダムが見かけたお手伝いさん、いつもと同じ人かどうかはわからなかった。俺が見かけたのも、あれは…数日前か。庭で何か作業していたが、メガネをかけていて、いつもの人ではないと思い、俺は声をかけそびれた。そのあたりから、俺はなんとなくおかしいと思い始めていたが、黒人のお手伝いさんなんて、正直、皆似たような顔をしているのだ。去年のバカンスで見た、同じ人だったかなんて覚えてない。


 いつもと違う人なんて、そんなふうに一年に一度も見かけないが、たまにはある。バカンス時期は、確かにそっくりな人で、別人が来ていた時期もあったが、同じ敷地にいて注意を払ってる俺でさえ、こうなのだから、外の人がわかるはずない。


 俺は、狼少年みたいに、また吠えて、何もなかったら困ると思い、マダムに言った。


 じゃ、少なくとも、月曜日まで待って、それから、お手伝いさんをなんとか捕まえて、事情を聞いて見ます。


 どうしても誰も出入りしてないなら、おかしいから……


 俺は、誰かが出入りしている形跡があると知っていたから、1週間は黙って見ていた。まあ、入院して手術とかしててもおかしくない。少なくともお手伝いさんは来ている気がした。俺が注意深くしていても、さっと窓を開け、帰ってしまうとか、窓を閉めて帰ってしまうとか、こんなに注意しているのに、出会わない。


 それも気持ち悪い。ダミーのように、別人?俺が見かけたお手伝いさんは、俺の知らない人で、俺は、知らない人だから、と声をかけなかったのが先週のこと。うーん、俺がのんびり放置しすぎたか。もし死んでたら、腐敗してくるぞ。



 その直前のムッシューの手紙が「洗濯物干すなら、塀を立てるぞ」というものであったというのは皮肉だった。


 ムッシューが消えた前日に書かれてるからな。まるでアリバイ工作のようだ。手紙はポストだから、俺は首をすくめ、あまり庭に出ないようにしてたくらいだ。出会ったら謝らねばならない。いちいち何かあるたびに、俺は花を持って謝りに行ったり、これから気をつけますんで、と使用人のように亀の首をすくめていた。俺ねえ、本当に丸くなったわ。特にこんな高齢の爺さんに逆らいたくないし、何より俺は、この国の人の「自分勝手さ」に辟易しながらも、俺は日本人だから、そこまで「傍若無人」になれないと、結構合わせていた。そのせいで、比較的ムッシューはまともな人が多かったが、マダムなんて、更年期が上がってしまったせいでおかしくなったのか、ヒステリックな人が多く、俺は微妙な立場だった。サディスティックな女というのは、美しい奴隷を必要とするからな。俺も大概だと思うが、俺の狂気は競争のためには発揮されない。俺は何にでも「はい」と答えることで、適当にあしらうことにしていた。そして、「俺、言葉喋れないんで」とニッコリわかりません、と言うことで、全てのめんどくさい問題をクリアしていた。Bもそうだが、見た目がそこそこ良く、良いものを着て、紳士で礼儀正しく、ニッコリしていれば、相手が女だと、どうとでもなる。俺はこんな性格のせいで、時々、出会う移動中の無防備な警官の腰にぶら下がってる銃を奪って天に向けて空砲したくなるんだが、やったら最後、俺も肉の塊で終わりになるから、そんな馬鹿なことはやらない。


 まあ、そんな感じで、俺はニコニコと、ご苦労様と言わんばかりに、警備に当たる兵士をいつも見ていたわけだが、緊張せずにはいられなかった。俺が夢想してることを万が一知られたら。俺、殺気ないんだなと、こうやって安心する。外にまでそんなもの、出てたら、もう末期。俺はまだまだ耐えられる。


 高校の先輩がこっちに仕事の出張でついこの間来たが、駅をカモフラな軍服で歩いてるやつら見て「あいつら、安全装置外してる」と言ってた。この話はしたかもしれないが、この先輩がアメリカにいた時に、俺は泊めてもらったことがある。先輩が「ナイフならどうとでもなるが、相手の武器が銃なら逆らうな」と教えてくれた。あの先輩なら、確かに詳しそうだ。俺は案外、専門家なんだよ、と先輩は言ったが、それなら射撃場に連れて行ってくれ、と振ればよかったかもしれない。先輩は遅れて来たくせに、俺がブックしたレストランのデザートを蹴って、オフィスに行くと言い、俺までデザートをドロップせねばならなかった。先輩、この国は、そういうペースで進んでいませんよ、と俺は言ったが、オフィスで待っているのは、日本人だから仕方ない。一応、リーズナブルとはいえ、その時点でランキング1、2位と上位にあったレストランを予約したというのに、俺は少々そのワーカホリックさにうんざりした。


 まあ、俺はそんな具合に、この鬱陶しい国に、なんとなく順応していて、それは俺が日本にはもう帰れないことを同時に意味してた。この国で何とかならないと、実は俺に帰る場所はもうない。


 ムッシューの洗濯物クレームの手紙を、念のためにJさんに読んでもらったら、そこまできつい口調でなくて、まあ穏やかにお願いを言っている。と。俺ねえ、干したくて干したんじゃないの。


 俺にして見たら、いくら手紙の口調が穏やかでも直訳すると全く同じなんだが。「何度も言っただろ、わかってないのか?言うこと聞かないなら、塀を建てさせてもらう、干すな」


 俺の直訳は正しいと思うよ、Jさん……。結局、同じ意味だよ。


 それにしても、言い訳する隙も与えない手紙攻撃。


 俺は、どうしても干さねばならなかったんだよ……うさぎちゃんの夢、見たせいでな。


 ため息をついた。俺、疲れ切ってる。一生に一回も洗うことがないような、でかいマットレスカバー。ああもうね、恥ずかしくて死にそうなのに加え、ムッシューに干すなと言われたら、俺にどうしろ、と。厚さ1センチ近くあるマットレスカバーをどう乾燥させろ、と。洗濯機に入っただけで奇跡だったのに。


 俺は心の中で、コブラのようにシャーと威嚇の音を出した。夢ぐらい自由に見させろや。


 それでも、ムッシューがいなくなったら、庭の木を切るの、自分たちでやらないといけなくなる。梯子さえ危なくて使えないのに、命綱かけてぶら下がり、2階建ての家より高い木を剪定などできないぞ。


だいたいあんな馬鹿でかい木、日本の庭には植えねーぞ。見たことないぞ、樹齢300年か?神社じゃあるまいし。


それこそ手入れしきれねーよ。


 俺はムッシューが生きてるうちに、切れる高さまで切っておいてもらわないと、後々本当に困る、と頭を抱えた。


 木を切るだけで、4〜5万円だぞ。たったの一日で。


 Jさんと一緒に、どうしても邪魔なムクゲの枝を切ったが、チェーンソーで切った。


 俺さ、さすがにチェーンソーとか普段使わねーんだ。


 一応失敗したら死ぬだろ?切った木がこっちに倒れてきても死ぬし。


 間違った方向に倒して、電線切ったり、塀、壊したりしたくないし。


 俺は、この屋敷に果てしなく金がいることについて、絶望しつつあった。怖いくらいの金食い虫。


 なんでも新しくしないと、すぐ古びてくる気がする。


 こんなのどこかおかしい。モノが汚くなるのが、傷むのが早すぎる。


 おそらく前面いっぱいに、オールで西向きの窓のせいだ。


 全て日焼けして、すぐボロボロになるぞ。


 俺は念のために梱包を解きたくない、と考えていた。あっという間に引っ越すことになるかもしれねーし。


 その思いと裏腹に、Bはどんどんダンボールの梱包を解けと俺をせっついた。


 要らないものは捨てろ、とまた言い出すぞ。


 俺はもう心の底からうんざりして、この屋敷から逃れられないし、売れない、離れたいが離れることもできない、と、どうしたらいいのかわからなくなって、せっかく、ここを使って何かしたいという計画も、このままではダメになって終わる、と頭を抱えた。窓際がすぐ埃だらけになり、俺は、この家、隙間が多すぎて外と変わんねーんじゃねーか、と建てた大工を恨んだ。素人じゃあるまいし、窓と壁の隙間に新聞紙で挟んでごまかしてるんじゃねーか。


 とにかく、ムッシューがいなくなって困るのは俺たちだった。この家の訳がわからない部分を知る人がいなくなる。まさか壁に死体は埋まってないだろうが、何が出てくるかわからないのだ。俺は何度も、まさか、コンクリ壊したら、壁から死体とか出ませんよね?とムッシューに聞き、ムッシューは出ないとは答えたが、それこそ、これ、ここに何が入ってる?と訳のわからない子象の棺のようなコンクリの馬鹿でかいものが地下室にあったりと、正直、訳がわからなかった。


 今のところ、本棚を動かしたら、コロリとユーロ導入前の小さなコインが壁とパイプの隙間から転がり出てきただけだったが、隠し扉など、ここに金貨忘れてないかなあ、爺さん、というような微妙な扉がいっぱい壁に仕組んであったのだ。



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