第107話 飲酒歴が問題なのか


 先生は言った。あなたの飲酒歴は驚くほど少ないし、短い。


 でも、過去、急性アルコール中毒で病院に運ばれているなら、その時の炎症の名残がここにあるとも考えられる。


 実は膵臓の炎症と飲酒は密接な関係があるが、量に寄らない。人に寄っては、そんな少ない量でも、影響があるのか、というようなこともありえる。


 先生は慎重だった。



 とにかく胃薬を出します、痛いんでしょ?と先生は唐突に言った。


 え、先生、これって胃なんですか?


 話を聞いていると、ものすごいストレス下にあり、胃炎で胃が痛んでる可能性もあります、と先生はサラサラとボールペンで、診断書を書いた。それを薬局に持っていけば、薬と引き換えてくれる。



 先生、俺、薬嫌いなんですが、絶対飲まないとダメなもんですか?


 飲んでください、と先生は言い切った。


 でも飲んだら、止めたらダメなんですよね?


 先生は、一度服用したら、2週間必ず飲んでください、と言った。


 その下の整腸剤は、これはどっちでも大雑把で適当でいいですよ、と言った。


 俺は、ずっと最初から、この先生は信用できる、と直感していた。先生といると、世界が……なんというか、淡い黄色の光が先生の周りにあり、そこからなんとも言えない、静かな落ち着いた波長が出てきて、こちらに届いている。こんな人は珍しい。滅多に出会わないし、何より俺は、この先生は素晴らしい、と驚いた。


 一緒にいて、話しているだけで、すごい癒されてくる。なぜだ?


 俺は自分の精神状態が、いつになく安定してくるのを最初から感じ取っていた。ささくれだっていた神経が、急に大人しい子犬のように、丸まって眠り始めている。誰といたってこんなに安らいだことなどない。


 不思議だ。


 先生は機械的に俺の状態を書き込み、問診する。そこには感情的なものは一切ない。同情など一切ないし、憐憫の情も何もない。


 だから純粋に、俺は波長だけを感じていた。この波長は特殊だ。こんなもの、意識したことはほぼない。こんな波長で生きてる人に出会えばすぐにわかるが、出会うことはない。俺は、自分が修行していた時代を思い出した。なんちゃって修行。


 滝にも打たれてないし、瞑想も3分だけ。


 その代わりに俺は、できるだけ食べない生活をずっと続け、さすがにそれは体に悪いらしいと食べるようになった。過去、純粋に俺は、食べないで生きることを目標としていた。


 インドなんかだと、食べないで生きている行者はいる。俺はインドには行ったこともないし、行こうと思ったこともないが。


 食べないで生きられるなら、それに越したことはない。俺は、かつて俺の精神がものすごく安定していた時期を思い出していた。この先生といると、俺は当時の俺に戻る。母さんや兄貴とは、話しても言語が違うみたいになり、うまくコミュニケーションできなくなった時期。


 あまりに波長が違うと、言葉も通じなくなる。同じ言語を使っているはずなのに、同じじゃなくなる。会話が全く噛み合わないことになる。


 他の人が世俗すぎて、俺は住んでる場所が文字通り違いすぎて、深い海の外と海面で、コミュニケーションをとっているような錯覚に陥った時期があった。海の底からだと、全ては静かで、世界全部を把握している気持ちになる。


 人間というのは住んでいる世界が本当に重要で、精神的に住んでいる場所があまりにかけ離れていると、同じ言語で話しているはずが、全く言葉が通じなくなる。


 俺は先生の顔を見ていて、この人はすごい、と感嘆していた。こんな世俗的な街で、こんな人に出会うのか?


 普通じゃない雰囲気に、俺は、こういう人の言うことを信じないで、誰を信じるんだ?と自分でおかしくなってきた。


 この先生、金はなさそうだが、まるで修行してきたお坊さんみたいだ。


 俺が帰り際に挨拶をし、トイレの場所を聞くと、先生はドアを開けてくれた。まるでなんと言うか、こんな場所で済まない、と先生が思っているのが伝わってきた。


 こんな煌びやかで華やかな大都市で、この先生は、地味に医者をし、清貧に生活し、患者を救ってるのか。


 俺は、キャビネがあまりに簡素であること、俺の直前に予約していた、ものすごく品のいい日本人の老婆と待合に入るエレベーターで、一言二言会話をし、時代がどこに吹っ飛んだ?と言うような上品さで話す老婆に、驚いた。歌うように老婆は、あなたは日本人なの?と聞かれ、戸惑った。


 え、そうですが、なぜですか?


 あなた、日本人に見えないわね……なぜかしらね? 話し方も日本人と違う気がするし。


 まるでオペラみたいに優雅な口調だ。いや、マダム、あなたが上品なんですよ。俺は、ツルツル磨かれたような美しい声に、この人が住んでる世界と、俺が住んでる世界、全く違う、と感じていた。


 俺は頭を掻いて「よく言われます、俺があまりにも日本人離れした「変」ヘンなやつだからじゃないですかね?」と答えた。


 俺たちの会話がそこで途切れたのは、先生が気を遣って、俺たちが診察室に入る前に、出てこられたからだ。あくまで低姿勢の先生だった。

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