第八章 魔女たちの戦い③~時戻りのオルト
光輝く魔方陣の模様に包まれ、オルトは頭の中まで真っ白になった。どんどん血が抜き取られるように体が冷たくなって意識があやふやになり、そのまま消え入りそうになった時、突然強い日差しが射し、青臭い草の匂いを乗せた風が体を通りぬけて、自分の形をはっきり感じとった。
オルトはぱちりと目を開けた。飛び込んできた光は魔方陣の光ではなく、感じたとおりの真っ青な空からそそぐ日光で、オルトの体がうずくまっていた藪の草が風で揺れるたびにオルトの鼻をくすぐっていた。藪は岩山のてっぺんに近いところの斜面にあって、近くには頂上とは別に槍の先のようにそそりあがる大岩があって、眼下には無数の石とわずかな緑が敷かれた谷間が広がっていた。
近くにはロバもいた。たくさんの荷物を背負い、手綱を低木に結ばれて、のんきに木の芽を食んでいる。よく見れば、そのロバは、オルトが少女の頃に自分のもののように世話をして使っていたロスアクアス家のロバだ。あの荷物は、オルトがエルテペで調達してきたもの。
やはりここは!──オルトははっとして立ち上がった。この場所は村を出ようと決心して、一緒に旅の計画を練った共謀者との合流地点。今この時は、私がまだ少女だった頃。体はよろめくこともなく膝も痛まない。手の甲に染みも皺もなく、黒々とした髪が耳あて付のフェルト帽子から肩に落ちている。若返っているのだ。
この時、この場所に戻ってきたのは、さっきの魔方陣の仕業としか思えない。オルトは持っていたはずの魔石を探して手のひらやコートのポケットを探ったが出てこなかった。魔方陣の痕跡も見当たらないし、形も思い出せない。これでは魔法的に元に戻るのは無理なようだ。オルトはため息をつき、頭を抱えた。
この日、約束した人は来なかった。代わりに来たのは最も会いたくない奴だった。勝手に保護者を自称して、身の回りの世話を押し付けてくるやつ。顔も見たくないやつ。
オルトは反射的にロバの手綱を取ってこの場を離れようとしたが、ふと足を止めた。どうしてこんな思いを二度も味わなければならないのだろう。この若返りになんの意味があるのか。
オルトはもう一度ロバの手綱を木の枝に結んで、険しい斜面を登った。オルトのいる岩山を挟んで両側には同じような景色が広がっていて、この辺りで一番高いところに来たオルトからは、かなり遠くまで見渡すことができた。オルトはじっと身を伏せてはるか先の谷間の端に視線を据えた。村から来るものはこの方角から現れる。もし馬に乗ったあの男が見えたら、すぐさまこの場を離れよう。一度目と同じように。
天上にあった太陽が落ちてきた。それは、一度目と違うことだ。心臓が高鳴った。オルトは吹きすさぶ風で体を震わせながら遠くを見続けた。
やがて、オルトを冷やす風に笛の音が乗り、谷の端から黒っぽいマントのフードを被った影が横笛を吹きながら歩いてきた。裾に魔法の紋が刺繍してあるそのマントは、旅の約束をしたトスカのお気に入りで、旋律も彼女しか吹けない不思議なものだった。
オルトは、そのトスカが自分のいる斜面の下に来るまで叫びたいのを我慢した。
「ひどい! 歩いてくるなんてひどすぎるよ!」
「あははは。ごめんねー」
トスカは笛を腰に差して、時々手をつきながらえっちらおっちらと岩山を上ってきた。二歳年下だが背の高さはオルトと変わらない。しかし、手足は枯れ枝のように細く、石だらけの急斜面で転げたらぽっきり折れてしまいそうだ。トスカはオルトが差し出した手を掴んで、登山最後の数歩を上がりきった。息をはあはあ荒げながら座り込むと、フードが風に巻かれて、色白の顔と赤茶けたぼさぼさ髪が露わになった。
「途中まではさ、テラに乗ってたんだよ。でも、おしりを叩いてトカゲ谷の方に走らせちゃった」
テラとはロバの名前で、トカゲ谷はこことは反対の方角だ。
「それでね、谷で笛を吹きたいからって出てきたから、笛に風の紋を刻んでテラにくくりつけて。そしたらピーピーなるんだ。トスカにしてはよく考えたでしょ」
「うまくいくかしら。ところで、ピサロはどうしてた?」
「あいつは大ばあさまに呼び出されてた。そしたら、ガナンが何かするなら今のうちだって。思い切って堂々と門をくぐったらいいって。そして、連れて行ってほしいって」
トスカは懐から片手に余るくらいの丸くて白いものを出してみせた。オルトははるか先、またはついこの間、老女であったころに見たような気もするが、もうその記憶は霞のように不確かなものになっていた。
「これなに?」
「ガナンがポトッてくれた。種なんじゃない。住むところ見つけたら植えてみようよ」
「そうね。じゃあ、新しい家を見つけに行こうか」
「おお!」
オルトは自分のロバの手綱を取って目指す旅路へと下り始めた。トスカはさっそく足を滑らせて尻もちをついた。
トスカは村からあまり離れたことがないので、山歩きには慣れていない。もう体力も残っていないだろうが、ここまで来た以上歩いてもらうしかない。
「もう少ししたら古い祠があるから、暗くなる前にそこに着こう。だからがんばって」
「うん」
トスカはよろめきながらもロバの背に手を添えながら進み始めた。
オルトが逃げ出したくなるほど嫌っていたピサロだが、一つだけ感謝していることがある。
魔法を学ばせてくれたことだ。オルトに簡単な魔法が使えれば、命令するピサロにも便利だし、ピサロの跡取りになるトスカの学友としての役目もあったのだろうが、魔法はオルトの生きる力になり、自信も深めてくれた。
そして、オルトはピサロの使いでエルテペの魔導団に出入りすることがあった。一般開架していない蔵書室に通されることもあって、管理人がピサロのメモを見ながら資料を探している間、オルトも本棚の周りをうろうろできた。
ある時、隅の棚でオルエンデスの昔の地理に関する書物を見つけた。古い魔紋の文字で書かれていたが、オルトでも読める文字もあり、地図や絵も多いのも手伝って中身をある程度理解できた。そこには、今は忘れられた古道のことが書いてあった。いつか村から離れたいと願っていたオルトは、その道の地図をしっかり記憶に刻んだ。念のためエルテペやソロ村で古い道のことを尋ねてみたが、この道のことは誰も知らなかった。
給金の蓄えが少しできた時、オルトはこの道を使おうと決心した。道の先にあるクフィテナンは豊かな国とのうわさだ。魔法があれば生きていける。そうして、一度目はなんとかやっていけた。ずいぶん苦労をしたが。
二度目の今度は、トスカも一緒だ。トスカは頼りないところもあるが、魔法に関しては、ピサロが遠戚から連れてくるだけのことはあって、オルトよりうんと筋がよかった。
そのトスカは、後ろからよろよろ歩いてくる。
「オルト、食べ物ある?」
「エルテペでパンとスープを買ってきた。トスカ、温めてよ」
「やったー」トスカは弱々しい笑顔を見せた。「ほーんと楽しみー」
その顔を見てオルトも笑った。一人じゃないのがなにより嬉しい。
夕日が遠くの峰に隠れそうになると、オルトは魔石燈のランタンを出した。
どんどん暗くなっていく中、険しい坂道が緩やかになると、その先に石をドーム状に積んだ祠が見えた。小さな小屋くらいあって、二人と一匹が入るには十分な大きさだ。
安堵した二人が速足で祠に近づいていくと、道の先から祠より大きな千疋皮がごろごろと転がってきた。慌てて道から外れると、千疋皮はそのまま坂道を転がり落ちるのではなく、二人の方へ向かってきた。オルトが走って祠に逃げこもうとすると、千疋皮も祠のほうへ曲がってくる。
トスカが叫んだ。「だめだよ。祠が潰されちゃう!」
とっさにオルトが向きを変えると、千疋皮はオルトの後について紙一重で祠を避けた。オルトと千疋皮は祠の周りをぐるぐると走り回った。
走りながらオルトは過去を振り返った。記憶をどう掘り返しても、一度目はこんなのものに会ってない。
トスカが横笛を出して言った。
「オルト。たしか、千疋皮は因縁のあるところと暗いところに出やすいって習ったよね」
そうか、時間だ。一人の時はまだ明るいときにこの祠を通り過ぎたのだった。おそらくこの千疋皮は夜になると祠周りをうろつくのだ。
「ちょっとの間、オルトは追いかけてもらってて」
「ええ! なんでよ!」
トスカが祠によじのぼり笛を口に当てて唱えた。
「せんびきがわ! せんびきがわ! お前の笛は壊れているぞ。この葦の葉の音をきくがいい!」
笛は、ガナンから教わったとトスカは言っていた。日頃から、ガナンが鳴らしているんだとか。昔は魔法の音楽で、病気を治したり、魔物を追い払ったりしたとも話してくれるそうだが、オルトにはちっとも聞こえてこなかった。
そのガナン譲りの不思議な音色があたりに響きわたると、千疋皮に巻かれていた毛皮や骨がどんどん落ちていった。千疋皮はオルトを追いかけ回しながら、だんだん小さくなっていく。
千疋皮の球がオルトの背より低くなった時、オルトは反撃に出た。足元の大きな石を持って千疋皮へ叩きつけた。潰れた千疋皮はバラバラになり、残骸は冷たい風に巻かれて散り散りになった。
オルトは息を荒げながらも風に向かって叫んだ。
「勝ったー!」
「あははー。オルトすごーい!」
トスカが手を叩いて笑った。
凄いのはトスカだよ──と、オルトは言いかけたが、息が切れて言葉が出なかった。軽やかに祠から降りてきたトスカと比べて、両膝を付いている自分がみじめに思えた。
「私にもその笛があれば、もっと早くやっつけられたんだけどね」
「やっつけたんじゃなくて、ちょっと呪いを弱めただけだよ」涼しい顔でトスカが言った。「元の呪いを消してないから、時間がたてばまたできてくるかもね」
今までとは反対にトスカがロバを引っ張って祠に入り、オルトがよろめきながら後に続いた。
祠の入り口を荷物でふさぐと、寒くても居心地はずいぶんとましになった。奥の壁に小さな石の扉がついていて、腰を落として扉の隙間を覗くと、カラフルな布にくるまれた丸い塊が入っていた。二人はなんとなくその塊に手を合わせてから食事の準備を始めた。
翌日、吹雪が収まるのを待ってから二人は祠を出発した。そこからの道はほとんど雪原だった。二人はロープで体を結び、またいつ崩れるか分からない雪崩の跡を恐る恐る横切り、細い尾根を慎重に進んでいった。さらに道は切り立った崖に張り付く蔦のように狭く心もとないものになってしまい、トスカは遂に泣き出してしまった。
「大丈夫。体を休められるところも覚えているから。私についてきて」
ロバは置いていかなければならなかった。荷物は二人で分けて背負い、オルトはトスカを励ましながら、ゆっくり下って行った。
やがて、眼下に自分たちの住んでいた谷そっくりの草原が現れた。オルトたちは古道の難所を越えたのだと知り、抱き合って喜んだ。
雪山を降りれば、近くに小さな村があることをオルトは知っていたが、村人に会えば怪しまれることは間違いない。目立つことは避けたかったので、もっと先にある大きな町を目指すことにした。
まずは、雪山とは比べものにならない温もりの草原の茂みで一日休み、もう一度気持ちを奮い立たせると、周囲に気を配りながら谷を渡り、大きな森に入り込んだ。オルトの記憶では、この森を抜けたところにリカンカというエルテペくらいの大きな町があるはずだった。
オルエンデス山脈のクフィテナン側は、オルトたちの所よりも温暖だった。森に生えている草木もオルトたちの森よりも大きく鬱蒼としていた。その中を、食べられそうな実や小動物を採りつつ、時々トスカの魔法で精霊に方角を尋ねながら進む道行はとても疲れたが、気分はなんだか軽くて楽しいとさえ思った。
森に入って何日目かの日が暮れた。村を出てから何日たつのかは、もう分からなくなっていた。大きな木の根元でオルトが寝ていると、見張りをしていたトスカからそっと起こされた。
「近くで声がする。『助けて。助けてくれって』って」
トスカは、オルトがまだ目をこすっているうちに、ランタンの魔石の明かりを大きくして闇夜の森を歩き出した。慌ててオルトは後を追った。トスカの耳の良さをオルトは理解していた(あの千疋皮だって、予めトスカには転がってくる音が聞こえていたから冷静でいられたのだ)。しかし、オルトには二人が枝をかき分け、枯葉を踏みしめる音以外なにも聞こえなかったので、本当に声が聞こえたのか、いぶかしみながらついていった。それに、声のそばに野盗なんかがいて、そいつらに見つかれば……腰の山刀をひらめかせることになるかもしれない。
「ねえ、トスカ。トスカってば……」
「急ごう。声、きこえなくなっちゃった」
トスカはオルトの声には耳も貸さないので、オルトは黙って歩くことにした。こうなったら野盗の心臓の音までトスカに聞き分けてもらうしかない。
近くというには長く歩き、オルトにも小さなせせらぎの音が聞こえてきたとき、急に前のトスカが止まって、ランタンを高く掲げた。
照らされた地面に細い道が横切っていて、道端の藪から血管の浮き出た細い腕がにゅっと出ていた。
とっさにオルトはかがんで周囲の気配をうかがったが、トスカは躊躇することなく道に出て、腕を掴んでカブを引き抜くように引っ張った。
「ああ、いてててて……」
かすれた悲鳴があがり、枯葉だらけのフードを被ってうつぶせになった男が引きずり出された。
「おじさん大丈夫かい。オルト、この人魔法の匂いがする。魔導士だよ」
「じゃあ離れなきゃ。危ないからこっちに来て」
「そっか。わかった」
「あ、待って。待ってくれおじょうさん……」
男が顔をあげて、木の陰に隠れた二人に手を振った。土がこびりついた顔には同じく土まみれの長い白髭が生えていて、よく見れば皺の深いずいぶんな年寄だとわかった。
「いかにもわしは魔導士だが、怪しいものじゃない。うっかり沢で滑って腰と足をしこたま打ってしまったんじゃ。なんとかここまで這い上ってきたが、もう力が入らん。この先にわしの家があるから、なんとか連れて行ってもらえないじゃろうか」
「魔導士なら、魔法で帰ればいいじゃない」と、オルトは返事した。
「それは無理だ。毒虫避けの術と痛み止めの術を使ったが、これが限界じゃ。ツァーンも呼べん。頼む。引きずってもいいから、わしを家まで……お礼はするから……」
「ツァーンって誰よ」
またオルトは訊ねたが、返事はなかった。老人は気を失っていた。
オルトとトスカは木の陰から出て、ランタンを掲げて老人を観察した。ひょろりと痩せていて、質素なチュニックとズボンという身なりはずぶぬれで草や土がこびりつき、長靴をはいた足は腫れている。オルトが触ってみたところ、両足とも骨が折れているようだ。
「オルトどうしよう。これじゃあ傷治しの曲でもすぐには治らないよ」
「……家にツァーンって人が待っているのかもしれないけど、この人と一緒なら中に入れてもらえるかもね」
二人は落ちていた枝を添え木として足に結び付け、両脇から肩を貸すように老人を支えて持ち上げた。老人は、痩せていてもオルト達より高い身長なのでそれなりに重く、本人が言った通り下半身を引きずってしまうことになるが、他に運び方を思いつかない。
トスカが片手でランタンを掲げ、オルトは山刀の柄に片手を当ててまわりを警戒しながら、二人は息を合わせて老人が気を失う前に指差した方へ歩き始めた。
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