第36話 彼女の物語 その3
それから数か月の時が経ちました。
牢獄に入れられた少年は座り込んで悪魔として処刑される時を静かに待っていましたが、誰かが近づいてくる足音を聞いて顔を上げました。
「ようやく処分が決まったのか。たかが僕一人の刑罰を決めるにしては時間かけすぎじゃあないのか」
「それどころではなかったわ」
立っていたのは少女でした。
「やあ。驚いたなあ。……騙されて怒っているのかと思った」
「怒ってなんかいないわ。だって、あなたは私のことをかばってくれたじゃない。あそこで考えなしに私が行動したばかりにみんなから非難されたときに、自分から悪役を買って出て一人で泥をかぶってくれたんでしょう。でも教えてほしいことがあるの。あれから色んなことが起こったわ」
少女は少年に語りました。
少年と少女が起こした騒ぎのあとで、人々の心に変化があったのです。それまで盲目的に大臣や国の言うことに従ってきた群衆の中に遺伝子判定システムの在り方について見直しを要求する者が現れました。若者の中には自分の判定された才能とは全く違う分野の生き方をすることを望む者もあらわれました。
そしてあれだけ遺伝子判定システムを推し進めていた大臣は自分の遺伝子を判定されることを執拗に拒否し、最後には辞任を表明したのでした。
「一体どうしてこうなったのか、私にはわからないの。あなたなら何か知っているんじゃあないの。……ううん。それよりも本当は、あなたは私を騙してなんかいなかったんじゃあないの?」
少年は少し困ったような顔をして言いました。
「僕としては君がこのことを知るべきなのかどうかわからない。知らないほうが幸せならそのほうがいいことだってある。だから最低限のことだけ教えるよ。あとは君次第だ」
少年の言いぶりに引っかかるものを感じながらも少女は頷きました。
「前に話した通り、僕の父親を含めた十二人の男女がこの地にきて原始的なこの国を発展させたんだ。でも僕の父親の仲間に一人だけ裏切り者がいた。彼も僕の父と同じ遺伝子工学の専門家だった。彼はこの国の人間たちを支配し、自分だけが権力を持つことを望んだんだ。そこでこの国の人間たちを扇動した」
「扇動した?」
「この国の人間たちは外から現れて自分たちよりも高度な技術と文明を持つ僕の父親たちを心のどこかで恐れていた。そこにつけ込んだんだ。『自分だけは君たちの味方だ』『あいつらは君たちを奴隷のように扱うつもりだ』『そうなりたくないなら殺せ』とね」
「もしかして、その裏切り者というのは……」
「ああ。あの大臣だよ」
「それじゃあ、あの時あなたが叫んだのは?」
「あの『ジューダス』というのはもと居た国の古い宗教の言葉で『裏切り者』の意味だよ。十年以上たっていたから念のため確認したかったんだ。祖国の言葉でなじって反応するのか、をね。そうすることで親の敵に一矢報いてやりたかったんだ。正直君が味方になってくれるかどうかわからなかったから、何も言わなかったけれど。……そのために君を結果的に利用してしまったのは申し訳ないと思っている」
「別にいいわ、そんなこと。……つまりあなたは大臣が遺伝子判定システムを悪用していたことを、そして自分には使わなかったことを知っていたということなのね」
「ああ。僕の知る限り、彼にあったのは理化学的な分析の才能であって政治家の才能じゃなかったからね」
「あなたのおかげで大臣に従順だった役人たちも支持していた領主たちもみんな大臣の言うことを疑い、遺伝子判定システムも見直すようになったわ。私もあの人と結婚しなくて済むようになったもの。……でもあなたは罪人扱いのままだわ。どうしてこんなことになってしまったのかしら」
「そのことだけれど。僕の言葉は不思議といつも人の神経を逆なでするらしい。僕は何か言うたびにいつも周りの人間が不機嫌になることがよくあった。……もっとも何も言わなければ言わないで、ぼんくら呼ばわりされるけどね」
「そんな言い方しないで。確かに私だって最初会った時はあなたのことを好きになれなかった。でも話していくうちにあなたのおかげで自分の生き方も見えてきたし、あなたが本当はいい人だってわかるようになった」
少女の悲しげな顔を見て少年はただ慰めるように無言で鉄格子の隙間から頭を撫でました。
「周りに自分と同じ考えの人だけがいれば確かに心地よく思えるけれど、それでは人間として進歩することはないもの。人間はきっと自分と違っている人と見つけて、互いの考えをぶつけ合ってはじめて本当の友達になれるんだわ」
「僕が君の友達、か。その言葉だけでもう十分だ」
少女は懐から鍵を取り出しました。
「待っていて。ここから出してあげる」
「大丈夫かい? 君が罪に問われないと良いんだけど」
「今はみんなそれどころではないと思うわ」
少女は牢屋の鍵を開けると少年と一緒に暗い廊下を歩きだします。
「こっちよ。……ここからもう少し歩いて階段を下りたところに裏口があるの。あなたはこれからどうするの?」
「しばらくはこの国の外に出て身を隠すよ」
「いつか、……いつか私たちがこの国を変えて今よりも暮らしやすい世界になったらまた戻ってきてくれる?」
「そうだね。その時はそうするのも悪くないかな」
やがて廊下の奥に月明かりが差し込んでいるのがみえました。
少女はこの少年に何か言わなくてはいけない気がして必死に言葉を探しました。
「ねえ。……『52ヘルツの鯨』という話を知っている?」
「52ヘルツのクジラ?」
「うん。遠い昔にあったお話。人間も声で話すように鯨も鳴き声で意思の疎通をするの。ヘルツというのは昔の異国の言葉で音の振動回数を示す単位なんだって。普通の鯨は20ヘルツから30ヘルツくらいの声で鳴くんだけど、その鯨は52ヘルツという普通よりも高い声を出していた。ある国の海軍がたまたまそれを観測して調査したのだけれど、その52ヘルツの鯨は他の鯨とコミュニケーションを取っている形跡が全くなかった。他の鯨は彼の声を聴いても仲間だと思わなかったみたいなの。だから彼はずっとずっと一人で鳴き続けているの」
「そのクジラはどうなったんだ?」
「さあ。ただ何十年も生き続けていたことから、体に欠陥があるわけじゃあなかったといわれているそうよ。私はもしかしたらいつか分かり合える仲間を見つけられたんじゃあないかと思っているわ」
「そうか。きっとそうだよな」
少年は少女の答えを聞いてかすかに笑いました。
「……そろそろ出口か。ありがとう。君のことは忘れない。どうか元気で」
別れを告げようとする少年を少女は思わず引き止めました。
「待って。まだ聞いていないことがあるの」
「聞いていないこと?」
「ええ」
少女は疑問に思っていました。少年がしてくれた一連の話が嘘とは思えませんが、群衆たちも嘘を言っていたとは思えませんでした。
「なぜ遺伝子操作手術の痕跡がごく普通の人間であるこの国の人々にあったの? 昔、この国に来た十二人の科学者たちはどうしてそこまで群衆たちに恐れられていたの? 家族を殺されたものもいるというのは本当なの?」
「ああ。そのことか……。それなら君はもう答えのすぐそばまで来ているんだよ」
「え?」
「君なら、君の感性ならじきにわかる時が来るよ。この国に隠された秘密が。その後で君がどうするかは君次第だけれど」
少年は謎めいた笑いを浮かべて、少女の前から去っていきました。
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