第31話 ルールを逆手に

 ガリガリと白いチョークが黒板に押し当てられる音が響く。


 壮年の男性教師、四谷先生が教室の黒板に数式と例題を書いていた。


 数日後の夏の日差しが照りつける火曜日の午前中である。


「それで、三角関数は半径rの円周上を動く点Pが、X軸との間にできる角度と、Pの座標によって定義することが出来るわけだが」


 この日の二時間目は数学で、受け持ちはくだんの四谷先生である。僕は先生が振り返ったタイミングで隣の席に紙切れを回そうとした。


 携帯のメールでやり取りする連中もいるが、メアドを知らない相手に伝えたいことがあるときや不特定多数の相手に知らせたい話があるときにはアナクロだがこのやり方もまだまだ有効なのである。当然クラスが違う相手には使えないが。


「おい月ノ下。何している」

「あ、はい。手紙を回していました」


 四谷先生が不機嫌そうに僕をにらむ。


「今は授業中だろう。他の奴に言いたいことがあるなら休み時間にしろ」

「はあ。でも確か校則で禁止になっているのは授業中の携帯の使用ですよね。『紙を回してはいけない』なんてどこにも書いていないですよ?」

「……そんなこと書いていなくとも常識で分かるだろう」

「失礼しました。確かに授業中に手紙を回すのは不真面目で他人に迷惑かも知れませんね。もっとも校内で携帯を使えなくさせるのも、それ以上に迷惑だと思いますが」


 不穏な空気にクラス内がざわめき始めた。


 『あいつ何言ってるんだ?』『先生に絡む気かよ?』と、厳格な先生の神経を逆なでする僕の行為を危惧する声が漏れ聞こえてくる。


 虹村は呆然とした目で僕を見ていた。星原だけはいつも通りすました表情で黙りこくっている。四谷先生は苛立たしそうに僕をじろりとにらみつける。


「ああ、つまりあれか。今度の携帯持ち込み禁止の件で、あてこすっているわけか?」

「いえ。ただ校則違反をしたわけでもないのに不当に責められても困るという話です」

「あのな、そもそもメールとか手紙とか関係なく授業中そういうことを……」

「そういうことをすること自体が問題だとおっしゃりたいんですよね。わかります」


 僕に言おうとしたことを先回りされて、四谷先生はさらに不機嫌そうになる。


 僕は内心は心臓が高鳴り、声もうわずりそうだった。周りのクラスメイトの目も四谷先生の視線も僕に集中していることを意識してしまう。


 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。多数の人間の前で話をする機会なんてこれまでの人生で数えるくらいしかないが、何とかやるしかない。


 一応、頭の中で何度も四谷先生と問答する内容をシミュレーションしてきたのだ。自信満々に話さなければ、正論であっても説得力が半減してしまう。


 僕は冷静沈着な弁護士をイメージして、表面上では平静を装って言葉を続ける。


「ですが実際に授業中の携帯電話が禁止されたところで、やり取りをする人間は結局続けます。今度は代わりに手紙を回すだけですよ。流石に携帯電話と違ってノートと筆記用具を取り上げるわけにはいかないでしょう? ……そうしたら回した人間と受け取る側の間にいる人間、みんなが手紙を行き来させることになるから、かえって授業に集中できない生徒が増えてしまいます。無理に抑えつけたところでかえって問題が大きくなると思いますよ?」

「なるほど。一理あるかもしれないな。……ただし不適切な使用をする生徒がいなければの話だが」

「……それはテストのカンニングに利用されることですか?」

「ああ。いかにもその通りだ。だから、持ち込むこと自体を禁止にすれば根本的な解決になるはずだ」


 四谷先生は僕に厳しい目を向けたままうなずいて見せる。


「しかし、それでも結局持ち込む人間はいるでしょうし、先生だって毎日持ち物検査する労力はないでしょう。それなら持ち込み禁止にするのはテスト期間だけにしたほうが建設的じゃないですか?」


 僕は手の中の紙切れをもてあそびながら、四谷先生に言った。


「月ノ下。そういう不満をこの場で言われても何も変わりはしない。お前のしていることは授業妨害だ。……それで、お前がそんなにまでして他の人に伝えたかったことというのは一体なんだ? どれ、その紙切れを読み上げてみろ」

「……えっ」


 四谷先生が意地悪そうに言った。おそらく見せしめのつもりなのだろう。


「いやあまり、こういう場でおおっぴらに言えることではないというか……」

「何を言っている。それじゃあ、私が読み上げようか?」

「いえ、それでは読みます」


 近づこうとする四谷先生を制して、僕は深呼吸して感情を込めた声でゆっくりと言った。


「『みんなにお知らせします。来週は四谷先生の誕生日なんだそうです。日ごろお世話になっている先生に感謝をこめて贈り物をしようと思うので、プレゼント代をみんなでカンパしようと思います。賛成してくれる人は下の空白に名前を書いてください』」

「は?」


 四谷先生が驚いた顔をした。僕は照れくさそうに頭を掻く仕草をしてみせる。


「いや僕たち、先生に内緒で誕生日のお祝いの準備を進めたかったんです。でも休み時間の時はみんな教室にいるとは限らないし、意見の集計もしにくかったんです。メールなら気づかれずに回せたんですけど、授業中は携帯の使用が禁止されていました。だから仕方なく授業中に手紙でみんなに回そうと思ったんです」


 ここで星原が手を挙げて立ち上がった。


「先生。私たち、日ごろから愛情を持ってあえて心を鬼にして指導してくださっている四谷先生に何かお返しがしたかったんです」


 すかさず、今度は中野が立ち上がって声をあげる。


「先生。あたしたち来年からはもう受験勉強で忙しくなってしまいますし、そうなる前に先生に感謝の気持ちを伝えたくて……」


 どうやら星原がうまく根回ししてくれたようだ。


「おまえら……」と四谷先生がうめくように呟く。


 明彦も空気を呼んだかのように僕に目配せをして、話に乗ってくる。


「それは良い考えだな! 手紙じゃなくメールでこっそりみんなに告知できれば、サプライズでお祝いできたのに残念だな。メールのやり取りを黙認してもらえていたらよかったのになぁ」


 他のクラスメイト達も『おお、誕生祝いか』『いいじゃん』と賛同の意を示しはじめる。


「おまえら、そこまでして携帯の持ち込み禁止が嫌なのか」


 あきれ返ったような口調で先生はため息をついた。


「安い芝居だな。まったく。……。いいか? 現状で授業中に携帯の使用が行われている例がちらほら見受けられていて、何度注意しても未だに改善が見られないんだ。それなら持ち込み禁止にするしかないだろう」


 情に訴えればあるいは、と思ったが無理だったようだ。


 仕方がない。こうなったらもう一つの手段だ。僕は半分開き直ったような気分で、改めて先生に向き直る。


「そうですか。なるほど、わかりました。携帯の持ち込み禁止はまだ正式に決まっていないみたいですが、それなら『今からでも使用が発覚した場合には没収』ということにしてはどうでしょう」

「ほう?」

「例えば授業中に携帯を鳴らした者は誰であろうと、発信した側も着信した側もその場で即没収したらいいんじゃないですかね。おっしゃる通り携帯の授業中の使用は迷惑ですからね」


 教室がどよめいた。四谷先生もあっさり僕が意見をひるがえしたどころか、規制を厳しくするように言い出したことに戸惑ったようだ。


「……あ。ああ、なんだ。わかっているじゃないか。殊勝な心がけだな、月ノ下」

「今の言葉は僕に賛同したとみていいんですよね。『今から授業中に携帯を鳴らした者は誰であろうと、その場で没収』という意見に」

「? ん。まあ、そうだが」


 その言葉を確認して僕は机の下で準備しておいた携帯電話の呼び出しボタンを押す。すると携帯の着信音が鳴り響いた。


「なっ? え?」


 四谷先生は驚いて自分の教壇に目をやった。四谷先生は神経質で携帯電話が汗で蒸れるのを嫌っている。そのため授業中などは教材と一緒に教壇の上に携帯を置いていた。その携帯が鳴っているのだ。


「どういうことだ? このタイミングで?」


 もちろん鳴らしたのは僕である。前に虹村に見せてもらったプリントには四谷先生の携帯番号が記載されていた。僕はそれを念のため記憶しておいたのだ。着信音が止まったあと、四谷先生は僕の顔を見た。


「月ノ下。お前」

「先生。早速ですが携帯を没収させてください」

「え?」

「さっき賛同したじゃないですか。『授業中に携帯を鳴らした者は誰であろうとその場で即没収したらいいんじゃないか』という僕の意見に。みんなも聞いていたよね?」


 そう。規則をゆるめてもらえないなら逆に取り締まる側でも守れないようにもっと厳しくしてしまえば攻撃材料になる。この間、星原から聞いた「正論を口にする人間は、自分も負担を負わされると気づくと考えが変わる」という話が良いヒントになった。


「月ノ下。お前か?」


 僕は教壇の前まで歩を進めながら答える。


「はい。僕が鳴らしました。でもそんなことより、先ほど賛同していただいたんですから携帯を没収させていただかないと」


 そう言って四谷先生の携帯に手を伸ばそうとしたが、四谷先生は慌てて携帯を自分のポケットにしまいこんだ。


「たしか私の携帯電話の番号はクラス委員に渡しているプリントにしか載せていないはずだが、なぜおまえが?」

「まあ、いいじゃないですか、そんなことは。ただ、もし携帯の持ち込みを禁止された場合、嫌がらせに授業中に先生の携帯に電話をかけてくる人間が現れるかもしれませんね。携帯をどうにかして持ち込むなり、公衆電話からかけるなりして」


 四谷先生は嘆息して、やれやれといった調子で言った。


「お前がさっき言った『無理に抑えつけたところで、かえって問題が大きくなるだけ』というのはそういう意味か?」

「はい。それじゃあ先生これを」


 僕はポケットから携帯電話を取り出して、四谷先生に差し出した。


「何だ? お前の携帯か?」

「ええ。僕も鳴らしましたから。僕はさっき『発信する側も』と言ったでしょう? だから僕の携帯を没収してください」


 四谷先生は僕の顔を見た。僕も先生を見つめ返す。


「……お前、真面目なのか不真面目なのか、分からん奴だな」

「僕は真面目ですよ、いつだって。規則には従います。それに僕だって授業中携帯を鳴らされるのは迷惑ですしマナーを守らない連中は嫌いです。その意味では規律正しい四谷先生に共感しているくらいです」


 四谷先生は僕を見てフンと鼻を鳴らした。怒っているようにも見えるが、かすかに笑ったような気もする。


 何となくだが四谷先生は今この瞬間、教師と生徒ではなく、対等な一人の人間として認めてくれている。そんな気がした。


「携帯の件は今回は不問だ。持っていろ、月ノ下。お前の言いたいことはわかった。意見の一つとして参考にしよう」

「といいますと」

「他のクラスでの授業中に不特定多数の人間に非通知で私の携帯を鳴らされたらたまらんからな。まあテスト中の持ち込みは認めるわけにはいかんが、平常時の持ち込みについては検討してはみるかな」

「本当ですか?」

「検討すると言っただけだ。今回携帯の持ち込み禁止にするべきと考えている先生は私の他にも何人かいるし、その先生たちと相談してからだ」


 それでも可能性が見えただけましではある。


「それに授業中の使用は基本的に禁止というスタンスは今まで通りだからな」

「はい。それは致し方ないと思います」

「あと、私の誕生日は来週じゃなく先月なんだが」

「へ?」


 その言葉に教室が静まり返る。僕は焦りながら確認する。


「え? だってこの前職員室で、亀戸先生と再来週に家族で誕生日のお祝いするから休むって」

「あれは、私の娘の話だ」


 一瞬、間をおいてクラスの皆から失笑が漏れた。

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