3.Foggy,Foggy,Foggy,
一行はロンドン・ウォール――かつてローマ人が築いた城壁の遺跡の近くにたどり着いた。
盛んに吠え立てながら駆けていたルーカスが速度を落とし、足を止めた。
「どうしたの、ルーカス?」
パトリシアが声を掛ける。
しかし、ルーカスは答えない。何かを探るように空気のにおいを嗅ぎ、地面を探っているが、しきりに困惑したように首をひねっている。
「おかしいわね、なにか反応があったのは間違いないのだけれど……」
「誤作動とかじゃないの?」
キャロルの言葉に、パトリシアは首を振った。
「最新式の霊探よ。調整も毎日してる。滅多な事じゃ狂いは生じないはず――」
一方のトム=ナインは、ルーカスからやや離れた場所で止まった。
苛々した様子で尻尾を揺らし、ニャアニャアと鳴いている。
「トム、どうしたんだ? 何を見つけた?」
ドロッセルはトムの傍に近づいた。
トムの視線の先にあるのは、地下鉄への入り口だ。常ならば多くの客で賑わうその場所は、最終列車が出た後の事もあり静まりかえっている。
「ここは地下鉄だぞ、トム。なにかあるとは思えないが……」
しかし地下への階段を見つめ、トム=ナインはなにかを訴えるように声を上げていた。すると、ドロッセルの傍に立ったノエルがおもむろに口を開く。
「……『汽車』と言っているようです」
「汽車だって? 汽車がどうしたんだ?」
ドロッセルはひたすら鳴き立てるトム=ナインを見下ろす。
「わかりません。ただ、『汽車』『グルグル』という言葉を繰り返しています」
「ううん……ここは駅だから、汽車があってもおかしくはない。しかしグルグルって――?」
「……というかノエル、あんた猫語わかるの」
親指の爪を噛むドロッセルをよそに、呆然とキャロルが言った。
瞬間それまで淡々と話していたノエルが目を見開き、勢いよく振り返った。
「…………わからないのですか?」
「わからないわよ。あたしにはにゃーにゃー言ってるようにしか聞こえない」
「その……実際のところ、私にも猫の声にしか聞こえないのです。……しかし何故か、この方につきましてはその鳴き声の意図を理解できるようで……何故…………?」
「――ちょっと、いいかしら?」
ノエルが何故自分がトム=ナインの言葉を理解できるのかを考え込みだしたところで、ルーカスの周囲を探っていたパトリシアが三人に声を掛けた。
三人はいったん地下鉄のことは脇に置き、パトリシアの元に戻った。
「とりあえずこの近辺をざっと探ってみたけど、見ての通りなにもないの」
パトリシアは険しい顔で片手を広げ、周囲を示した。
「どう見てもなにもない……でも、人形達の様子は」
ドロッセルは機械仕掛けの犬と猫の様子をうかがう。
ルーカスは苛立ったような様子で、ひたすらその場をうろうろと歩き回っている。そうしてトム=ナインは、必死の様子でドロッセルに地下鉄の駅を示している。
「一見するとなにもない――しかし、見てのとおりルーカスの霊探やトム=ナインはなにかに反応を示している。これが誤作動でないとすれば、考えられるのは――」
「異界――ノッドノル側になにかある」
ドロッセルの言葉にパトリシアはうなずき、全員を見回す。
「ノッドノルに移りましょう。そこで何も見つからなかったら、もっと人員を呼ぶことも考えるわ。……なにが起きるかわからないわ。全員警戒は怠らないで」
「Si.そこらの素人と一緒にしないで欲しいわね」
キャロルは肩をすくめると、中空に手を伸ばした。
その指には、いくつもの指輪が嵌められている。マリオネットリングと呼ばれるそれは、傀儡師が霊糸の補強や矯正に使う呪具らしい。
「道はあたしが開くわ。人形師の道の開き方って理屈がわからないから怖いのよね」
言いながら、キャロルは指揮者のように指を動かした。
その軌跡に、ほのかに光る霊糸が紡がれる。
やがて、闇に縫い目のような模様が浮かび上がった。それがおもむろにほどけかと思うと空間が裂け、暗い異界への入り口を開いた。
キャロルは躊躇いなくそこに足を踏み入れ、ほかの面々に向かって手招きした。
「ほら、早く来なさいよ。そんなに長いことあけていられないんだから」
「あ、ああ……わかった」
鏡を取り出しかけていたドロッセルは、それをポケットに収めた。
パトリシアが裂け目に近づき、しげしげとそれを眺める。
「……理屈がわからないわね」
「そ、そうだな。どうやって開けてるんだ……」
「傀儡師と人形師。まったく違うやり方で怪異に向き合っているということね」
パトリシアは肩をすくめると裂け目に進み、姿を消した。
ドロッセルもその後に続こうとする。が、ノエルに緩く手で制された。
「ノエル? どうしたんだ?」
「……なにが起こるかわかりません。私が先に参ります。お嬢様は、私の後に」
淡々とノエルは言って、ドロッセルが何かを言う前に背を向けた。その背中に、緊張と不安に揺れていた心をしっかりと受け止められたような気がした。
ドロッセルは表情をふっと和らげ、うなずいた。
「……わかった。気をつけるんだぞ」
「御意」
ノエルは短く答え、裂け目へと足を踏み入れた。
ドロッセルもすぐさまその背中を追う。
後に続こうとしたトム=ナインは一瞬、地下鉄の入り口を振り返った。
背中の毛を逆立て、グルルと低く唸り声を上げる。しかしすぐに視線を逸らし、オレンジ色の猫は裂け目へと飛び込んだ。
ふさふさの尻尾が引っ込んだ瞬間、裂け目は揺らぐ。
やがてそれは縫い合わされるようにして、閉ざされた。
◇ ◆ ◇
空気の質感がざらついたものに変わる。感覚の変化から、ドロッセルは自分が問題なく異界に足を踏み入れたことがわかった。
常に誰かに見張られているような不安感、虫が纏わり付いているような不快感。
異界独特の空気を感じながら、ドロッセルは裂け目を抜けた。
「あれ……?」
すぐに違和感を感じた。
風景はおおよそは先ほどと変わらない。
現界より青みの強い月光のせいで、その闇の色はまるで深海の底のそれを思わせる。周囲に立つ看板の文字はごちゃ混ぜで、深い霧の中には時折現界側を投影した影がよぎる。
いつもの異界の浅瀬、ノッドノルの景色――のはずだが。
「キャロル? トリッシュ?」
ドロッセルは声を張り上げた。
濃霧の中には、自分以外に誰もいない。――すぐ先にいたノエルさえも。
「ノエル! おい! みんなどこに――」
直後、ドロッセルは思わず口元を押さえた。
脳裏に、急速にバルトアンデルスの特徴が蘇った。確かその姿は主に無数の眼球が浮かぶ霧、あるいはガスと形容されている。
ワインレッドのコートの胸元を押さえ、ドロッセルは周囲の様子をうかがった。
「……霧が現界側より深い」
現界では薄かった霧が、ノッドノル側では異様に濃い。
ミルクのようなそれのせいで、ノッドノル独特の顔のある月さえ見えない。
「もしかして、バルトアンデルスはもうここに現われているのか? 異界側で待ち伏せして、先に入った皆をバラバラにした……?」
書物で読み込んだバルトアンデルスの特徴を思い出す。
バルトアンデルスはその特性上、多人数を相手にすることを苦手とする。
それは読心の対象が分散してしまうため、そして変身の際の若干の隙を突かれてしまうからだ。
ならば、敵を分断しにかかってもおかしくはない。
おかしくはないが――。
「そんな高度な知能を持った異形じゃなかったはずだ。奴は姿形を真似することはできても、その能力は低い。それが分断なんて……くそっ、どうなっているんだ」
毒づきながらドロッセルはベルトに下げたホルダーを開け、銀符を探る。
トム=ナインの姿もない。
つまり、ドロッセルだけで魔術を行使しなければならない。
オートマタによる補助も、増幅もなく――自分の力だけで。
背中に汗が滲むのを感じつつ、ドロッセルは一枚の銀符をマギグラフに挿入した。
「霧を吹き飛ばして視界を晴らすか? それか信号弾で、皆に自分の居場所を――そうだ、ノエルとトムなら場所を探れる!」
自分と契約している人形ならば、
ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を伸ばした。その手甲部に嵌めこまれたクォーツに意識を向けようとしたところで、悲鳴が聞こえた。
「ヒッ、やめろぉ! 来るな!」
「なんだ……!」
聞き覚えのある声だった。
ドロッセルはいったん回路への集中をやめ、悲鳴の聞こえる方向に向かって走った。
走れば走るほど、霧が徐々に深まっていく。
「この霧、やっぱりおかしい……!」
ドロッセルは眉を寄せ、コートの襟元を軽く緩めた。
「くそっ、くそっ! なんでよりによってお前なんだ! 僕はお前なんか怖くない! お前みたいな欠陥品の――ぎゃっ、来るな、やめろ! ギャアアア!」
悲鳴が近づく。ほとんど鳴いているように聞こえた。
同時に、異様な音が聞こえてくる。刃が空を切るような、鋭い音。
状況がわからない。ドロッセルは険しい顔で、素早くカットラスを抜いた。拳銃を使えば、この濃霧の中では誤射の可能性があった。
霧の中に、うっすら曲がり角が見えた。ドロッセルはそこを曲がろうとした。
そこで、何者かとぶつかった。
「ぎゃっ――!」
「うわっ!」
相手の勢いに負け、ドロッセルは地面に倒れ込む。
カットラスが手の中から飛び、甲高い音を立てて離れた石畳に落ちた。
ドロッセルは呻きつつ、自分の上にのしかかる人間を見る。
「おい! 大丈夫か――お、お前! なんでこんなところにいるんだ!」
「こ、こっちの台詞だ! なんでにんじんがここにいる!」
派手な羽根飾りのついた帽子に金髪、神経質そうな青い瞳。
ドロッセルの上でべそをかいているのは、ウェスター・キーンだった。ドロッセルはどうにか彼をどかして立ち上がり、困惑の表情でその姿を見つめた。
「お前、メイクピースの事件の影響でしばらく魔術を禁止されていたはずだろう! なんでノッドノルにいるんだ! バレたら免許を永久停止にされるぞ!」
「うるさいッ! にんじんには関係ないだろ! 不細工の出来損ないが僕に口出しするな!」
「お前なぁ……!」
カチンときたドロッセルが声を荒げようとした瞬間、靴音が聞こえた。
途端、地面に座り込んでいたウェスターがひっと息を飲む。
ドロッセルは靴音の聞こえる方向に視線を向けた。いつの間にか霧が周囲から引き、視界はいくらか良好になっていた。
ガス灯の向こうの暗がりに、なにかがいる。
「異形か……? おいウェスター、お前一体、何に追われていたんだ?」
ウェスターは答えない。
ただガタガタと震えて、暗がりを見つめている。
どうにもウェスターは役に立ちそうもない。
ドロッセルは拳銃を引き抜き、撃鉄を起こした。
「何者だ。姿を見せろ」
「お嬢様。私です」
耳に馴染んだテノールの声にドロッセルは目を見開く。
暗がりから現われたのは、ノエルだった。
先ほどと同じくバックヤードの古い制帽に整ったフロックコート姿。青い瞳は現界で相変わらず、風のない水面のように静かだった。
ドロッセルは銃口を下ろし、喜色満面でノエルに走り寄った。
「ノエル! 無事で良かった、器体に異常はないか?」
「はい、各種動作に問題ございません。どうやら異界に入った瞬間、別の場所に飛ばされたようです。お嬢様も、お怪我はございませんか」
「ああ、私も問題ない」
ドロッセルはうなずくと、険しい顔であたりを見回す。
視界はいくらか良好になったが、それでも周囲には薄く霧が掛かっている。入り組んだ路地のどこから敵が奇襲を掛けてくるかもわからない。
がたがたと震えるウェスターを視線の端に捉えつつ、ドロッセルは深くため息をついた。
「先にノエルと合流できて良かった。トムもいなくて困っていたんだ」
「それはいけません。私がお嬢様をお守りいたします」
「ああ、助かったよ。ウェスターを保護したんだが、彼は今魔術を使っちゃいけない状況だし。私達二人で、他の二人も捜そう」
「かしこまりました、お嬢様」
ドロッセルは微笑み、ノエルに背を向けた。
歩き出すドロッセルの背中に、ノエルは静かに続く。油断無く周囲の様子をうかがいつつ、白手袋を嵌めた手を静かにドロッセルの首に伸ばした。
青い瞳が、隠しきれない狂気に歪む。
その凶暴な表情を捉えたらしきウェスターが、声にならない悲鳴をあげ――。
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