3.Echo of DXXXVII

 影が駆ける。

 肌から金属の感触が消えた。そして鞭を振るうような異様な風切り音が響く。

 そうして次の瞬間には、全てががらりと変わっていた。

 一体、何が起きたのか。

 全く状況を掴めないまま、ドロッセルは呆然と目を見開く。

 アーネストがそれまで立っていたはずの場所に、見慣れた背中があった。


「ノエル……」


 答えはない。ドロッセルを庇うように立ち、ノエルはじっと空中を睨んでいた。

 その両手は、禍々しい籠手に覆われている。


「――信じられない」


 アーネストは、空中にいた。

 よくよく見ると、その身体は無数の触手によって吊り下げられている。金属部品と軟質ゴムで形成されたそれは、どうやら人工物らしい。

 全ての人工触手は柵の向こう――エスメラルダのドレスの下から伸びている。

 シューッと蛇の威嚇音にも似た声を出し、エスメラルダがノエルを睨んだ。体から伸びる触手が動き、アーネストを地面へと下ろす。


「声だけで再起動したのか? それとも何か別の方法で霊気を――いずれにせよ興味深い」


 アーネストは服のしわを伸ばしながら、面白そうにノエルを見つめる。

 ノエルはそれに答えず――そして振り返らず、素早く手を振るった。途端、ぶつりとドロッセルの手足を拘束するベルトが切断される。


「あ、ありがとう、ノエル! お前、体の調子は――っと」


 手術台から体を起こした瞬間、ばさりとコートを被せられた。

 目を白黒させるドロッセルに対し、振り返らないままノエルはさっと手を広げる。それはドロッセルを制するような――あるいは隠すような立ち方だった。


「ノ、ノエル、どうしたんだ?」

「……異性には見せない方がよろしいかと」

「あっ――!」


 淡泊なその一言で、自分が現在凄まじく扇情的な格好をしていることに気づいた。

 慌ててコートを纏うドロッセルの耳に、空を切る音が響く。

 はっと顔を上げると、無数の人工触手が自分たちめがけ伸びてくるのが見えた。エスメラルダが牙を剥きだし、あの蛇にも似た異様な声を上げる。

 ノエルは眼を細め、両手を素早く構えた。手を覆っていた籠手が溶けるようにして形を崩し、瞬く間に二振りの剣へと形を変える。

 双剣が舞う。不規則な軌道を描く触手が、火花とともに立て続けに弾かれた。

 エスメラルダが唸り声を上げ、カッと口を開く。

 その瞬間、ドロッセルは再びあの奇妙な霊気の動きを感じた。


「ノエル、まずい――!」

「問題ございません。――二度はない」


 振り返らずにノエルは答え、片手の剣を鋭く振るう。

 硝子の砕け散る音が響いた。見えない霊気がノエルの『傷』の忌能により破壊され、透明な破片となって周囲に散る。

 エスメラルダが地団駄を踏み、耳障りな奇声を上げる。


「止まれ、エスメラルダ」


 しかし、次の動きはアーネストにより制された。

 自分の体の前に差し出された手を見下ろし、エスメラルダはグルルと低い唸り声を上げて後退する。発声機能に問題があるのか、人間にはほど遠い声だった。


「……見事だった。まさかエスメラルダの妨害波まで無効化するとは。見よう見まねとは言え、リチャード三世の忌能を模した機構を組み込んでいたのだがね」


 低い唸り声を出し続けるエスメラルダの顎を撫で、アーネストは肩をすくめた。

 ノエルの背後に立ち、ドロッセルはアーネストを睨む。


「当然だ、ノエルはリチャード三世に勝った。同じ機構を組み込んだ人形に負けるはずがない」

「ふふ……確かに。王殺しの騎士相手に、国王陛下じゃ相性が悪いか」

「――王殺し?」


 前にもどこかで、そんな言葉を聞いたような気がした。

 たしか、リチャード三世だ。

 あの暴走するレプリカも、今際の際にノエルをそう呼んだ。

 ドロッセルがその言葉を繰り返すと、ノエルの肩がわずかに揺れた。


「なんだ、知らなかったのかい? 君は本当に、たくさんの事を知らないんだね」


 銀縁眼鏡を押さえ、アーネストが皮肉っぽく笑う。

 その唇が動くのを見た途端、左腕の傷がじくじくと警告するように痛んだ。

 この先を聞いてはいけないような気がした。


「君の前に立つのは、紀元六世紀――アーサー王と実姉モルゴースとの間に生まれた不義の子」


 その男の名を、ドロッセルは確かに知っている。


「簒奪を謀り、カムランの丘にて彼の王と相討った最悪の騎士」


 それは何度も読み返した物語。

 かつて異界と人間界の境が曖昧だった時代の騎士。


「王を殺し、王国を破壊したその男の名前は――」

「――モードレッド卿」


 かすれた声でその名を口にすると、従者が振り返った。

 いつになく表情のない青い瞳を、ドロッセルはただただ呆然と見つめる。

『彼』の本当の名を、自分はずっと前から知っていた。


「ノエルが、モードレッド……?」


 現実味のないまま、ドロッセルは繰り返す。

 途端、従者の青い瞳がゆらりと揺れた。

 彼は、逃げるようにドロッセルから目を逸らした。


「そうとも。そして十年前――君が瀕死の重傷を負う原因になったレプリカだ」


 アーネストの言葉に、ドロッセルは息を呑む。

 不満げなエスメラルダの人工触手を軽くくすぐり、アーネストは首をかしげた。


「まさか、一度でも考えなかったのかい? 『【傷】の忌能を人間に対して使ったらどうなるか』とか。その生き証人がまさに君だよ」


 グイードの負った傷が、ふっと脳裏に蘇る。あの時、たしかグイードは全身の疑似経絡に損傷を負っていた。人間で言えば、まさに経絡が引き裂かれた状態だ。


「物好きだと思ったよ、なんだって自分を殺そうとした人形を使っているんだろうってね」


 何も知らないのは、自分だけだった。

 自分よりもずっと大きな丈のコートの裾を、ドロッセルはきつく握りしめる。


「――貴方も貴方だ、モードレッド卿」


 頭がくらくらする。混乱、恐怖、嘆き、怒り、無力感、自虐――なにもかもが頭蓋と胸腔の中に収まって、二カ所で一度に暴れている。

 額を押さえるドロッセルの耳に、嘲るようなアーネストの声が響いた。


「一度殺そうとした相手に仕えるなんて、ずいぶんと厚顔無恥じゃないか」


 かつて自分を捨てた父親が、自分を助けようとした。

 自分の従者が、かつて自分を殺そうとした。


「それに君は仕える相手を間違えているよ。もし君が仕えるべき相手がいるとするならば、それはラングレー様だろう。そして、その後継者たる私じゃないかな」


 挙げ句の果てに人々を救うべき医者が、人々から心臓をえぐり出しているという。

 理解できない。わけがわからない。

 目眩を感じて、ドロッセルは思わず手術台に手をついた。アーネストの言葉が、頭蓋骨の中でワンワンと反響しているような気がした。

 きつく握りしめた左腕から血が流れて、手術台の上に滴った。

 人間か、異形か。真か、嘘か。

 あんな所行ができるのは、本当に人間か?

 人間は神の模造品――なら、人形と人間の違いはなんだ?

 自分は一体、どこに立っている? 一体、何に縋って生きれば良い?

 世界がぐらぐらと揺れている気がして、ドロッセルはたまらず天を仰ぐ。

 銀縁眼鏡の煌めき、ドレスの緑、己の血の色――全てが歪み、色褪せていくように見えた。


「――私の主人はお嬢様以外にはありえません」


 けれども、彼の瞳の青色だけは鮮やかに見えた。

 ゆっくりと――躊躇うようにして振り返った従者のまなざしだけが、綺麗だった。

 左手をきつく握りしめたまま、ドロッセルは息を詰める。


「私は貴女の影で良い。貴女の背後に――足下に落ちる影で良い。だからお嬢様が望むのならば、私はいつでもこの命を貴女に差し出しましょう」


 淡々と、訥々と。

 胸元に手を当てた従者は、いつものように静かな口調で言葉を紡ぐ。

 金の瞳を大きく見開き、ドロッセルは言葉もなくその姿を見つめた。

 小さな笑い声が聞こえた。


「やはり君は欠陥品だ、モードレッド。――その生前も、死後も」

「――黙ってろッ!」


 一瞬、ドロッセルは自分が何を言ったのか理解が出来なかった。なによりも、自分の口からここまでの大音声が飛び出るとは思いもしなかった。

 血の滲む左手を手術台から離し、ドロッセルは己の胸にそれを押し当てた。


「何者であろうと関係ない! ノエルは私の従者だ! それ以上の罵倒は絶対に許さない!」


 ドロッセルの怒鳴り声に、ノエルが青い瞳をまたたかせた。

 その顔に、さまざまな淡い表情がよぎる。それはきっと他人からはほとんどいつもと変わらぬ無表情にしか見えない、ごくわずかな変化だった。

 それでも今のドロッセルには、そんな無色に近いノエルの心の動きをはっきりと理解できた。

 驚愕、戸惑い、後悔、迷い。あらゆる感情が過ぎ去り、入り交じり、掻き乱す。

 凪いだ湖を嵐が襲ったような、淡くとも激烈な変化だった。

 そして最後、全ての感情は収束し――ノエルは無表情でドロッセルを見た。

 どこかいつもとは違う色を湛えた青い瞳を、ドロッセルはまっすぐに見つめ返す。

 その刹那、二人の世界から完全に他者は消えていた。

 それはあの日――彼が、初めてドロッセルに声をかけた時の静寂を思い出させた。


「……私は黙示録シリーズ番号無しナンバーレス、モードレッド」


 どこか物憂げな口調で、彼がかつての己の名前を口にする。


「彼の王の額を割り、この胸と影とを貫かれた者。そして、貴女をこの手にかけようとした」


 青い瞳に影が差す。

 ノエルは一瞬視線を彷徨わせ、迷うように口を噤む。拙く言葉を続けようとする彼を、ドロッセルは何も言わずにじっと見つめた。


「――それでも貴女は私を望みますか」


 そうして躊躇いがちに紡がれたノエルの言葉に、ドロッセルは微笑んだ。


「……二度も言わせるな。私はお前を信じる」


 ノエルが青い瞳をわずかに見張った。

 しかしふっと目を伏せると、彼はわずかにその身を屈めた。

 ドロッセルに、礼を示した。


「――御意。お嬢様。此より私の全ては貴女のために」

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