第316話 【忘却の此方編】:愚者の人格

 儀式まで残すところ数日――。

 王女グィネヴィアは一人、新緑の湖へ訪れていた。

 霧の晴れない辺りは見えづらく、だが湖へ到着するまでにそう時間はかからない。


「ナースチェンカ、司祭様が呼んでいるわ!」


 彼女は湖畔を見つめナースチェンカの姿を探した。

 だが返事はなく彼女の姿もない。


「騒々しいわねえ」


 返ってきた声はナースチェンカのものとは違う声だった。

 グィネヴィアは表情を強張らせ視線を向ける。


 そこに立っていたのはティンカーだ。

 立ち入りの禁じられた森に立つ彼女をグィネヴィアは警戒する。


「誰ですか……」


「あら、ナースチェンカから聞いていないの。そう……あの子、話さなかったのね。律儀な子、そんな感じはしていたけど」


「……ナースチェンカのお知り合いですか?」


「知り合い?……いいえ、それ以上かも。言ってみれば私は彼女の命の恩人よ。人ではないけど」


「……」


 人ではない――その言葉にグィネヴィアの背筋が凍り付く。

 存在の力だ。

 彼女の姿はその言葉が嘘でないことを物語っていた。

 疑う余地すらないほどに。


「人ではないとは、冗談が、お上手ですね」


「冗談に聞こえたかしら?」


「……」


「儀式は明日だったわよね?」


「……」


「それとも今日?」


「……明後日です」


「そう、良かった。ならまだ間に合うわね。グィネヴィア」


 名を呼ばれグィネヴィアの背筋にまたも緊張が走る。


「――早く逃げなさい」


「……え?」


「今ならまだ間に合うわ。望むなら、私が手引きしてもいい」


「あなたは一体……」


「いつものことだなんて言ったけど、初めてだった。これまで誰かに話したことはなかったわ」


「……」


「グィネヴィア、この国は嘘で固められている。儀式も生贄も、すべてでっち上げよ。だからナースチェンカは死ななくてもいいの、そんな必要はないのよ。彼女には彼女の未来がある。彼女は……生きる目的を見つけたのでしょう?」


「……」


「さあ、行きなさい」


「……でも、ナースチェンカが」


 まったくの初対面であり、かつ他人であるはずがグィネヴィアは疑わなかった。


 ティンカーは目つきを細め、どこか遠くを見つめると答えた。


「もう一つ忠告しておくわ、ここ最近、国内に嫌な気配が漂っている」


「嫌な気配?」


「神国の事情とは関係のないものよ。気を付けなさい……これは、あなたちが太刀打ちできるようなものじゃない」


「……」


「さあ、彼女は修道院へ向かっているわ。行きなさい――」


「……」


「――さあ早く!」


 突然の彼女の怒号に、グィネヴィアは頬を引き攣らせ走った。

 訳が分からず、霧を掻き分け木々を縫い走った。


 背後で何かが爆発したような音と振動が聞こえた。

 一度は足を止めるも、彼女は名も知らぬ白龍の言葉を聞き入れ再び走り続けた。







 グィネヴィアの背中が霧に消えて見えなくなるまで、ティンカーは木々の先を見つめた。


 彼女の気配が離れ、ティンカーは目を下に落とし湖へと視線を戻し戻ってく。

 その瞬間、気配を感じた彼女は振り返った――。


 突如、湖を覆っていた濃霧が湖畔の隅へ押し流されるほどの突風が起こった。

 霧が晴れると地上に一人、上空に一人、それぞれの姿はあった。


「流石はドラゴンだ。だけど加減したから当然か」


 地上の湖畔に立っていたのはアドルフだった。

 手には半身の杖を構えている。


「道理で嫌な気配がすると思ったら……まさか深淵の、それも愚者だなんて」


「僕の気配に感じとっさに彼女を逃がしたか。余計なことを吹き込んでいないだろうねえ? あまり僕の知らなにところでかき回されると面倒だ」


「それも、すでに自覚がないほどに呑まれた愚者」


「さっきから何を言っているだい?」


 アドルフの手元から真っ白な液体が放たれた。

 だがティンカーは二枚の銀翼を使い上空で上手くかわす。


「その翼、いいね。僕も欲しいよ」


『では、わか。嫉妬の私翼はいかがでしょうか!』


 アドルフの右手に持っていた、大杖の先端に象られた像が喋った。

 像はとぐろを巻いた蛇のようであるが、その先に生えているのは蛇の頭ではなく人間の女の裸体と手と頭だ。


「翼をくれるって言うのかい?」


『もちろんです。わかの望み通りに』


 アドルフの肩甲骨がぼこぼこと蠢き、そこから二枚の黒い羽が姿を現した。


「ハハハハハハハハハ、これはいい!」


 アドルフはティンカーへ杖を構えた。

 彼の背後からティンカーを威嚇するように押し寄せる白い水。

 それは巨大な波のようだ。


「どうだい、僕の妬み水は?」


 直後、波が一斉にテインカーへ押し寄せた。

 大きく上昇し波を逃げるティンカーは、上空で波に捕まれた。

 しかし彼女を包みこんだかに見えた波は、爆発を起こし飛散する。

 そこから姿を現したのは巨大な白いドラゴンだった。


 ティンカーは余裕の笑みで、湖畔に佇むアドルフを見下ろした。

 だがアドルフは無表情だ。


「知っているかい、ドラゴン。半身は過去の深淵使いの記憶を中途半端に受け継ぐんだ。途切れ途切れにね。それは僕らが深淵を強めれば強めるほど色濃く甦り、すると半身はまるで昨日のことのように語り出す。いや、記憶は僕に流れ込む。それによると、過去最も力の強かった候補者は、ドラゴンを深淵の力で手名付け操っていたそうなんだ。かっこいいよね、ドラゴンにまたがる魔法使いなんて。……だが惜しくも彼女は王にはなれなかったそうだ、器じゃなかったんだね。だから深淵の王は今に至るまで生まれていない」


「哀れな男ね……」


「ティンカー・グウィン・ベル・ベクシンスキー、僕のドラゴンになってみないかい? 僕が王となった暁には、右腕くらいにはしてあげてもいいよ」


「残念だけど、あなたのような小さな者に仕えるなんてごめんよ。それとどこを探したって、そんなドラゴンなんて見つからないわ」


「……それは残念だ」


 ティンカーの頭上より、巨大な大瀑布が押し寄せ――――。







 新緑の湖を離れ森を抜けると、それより先は修道院の敷地内に位置する広大な庭園が続いている。

 その向こうには修道院の裏門だ。

 ナースチェンカの元まであと少しだと、グィネヴィアは先を急いだ。


 だが庭園の真ん中に差し掛かったところで彼女は足を止める。

 噴水前にあるベンチにアドルフの姿があったからだ。


「あなたは……龍の心臓の」


「初めまして、グィネヴィアさん。僕はアドルフと言います。お急ぎのところ申し訳ないのですが、少しお時間をいただけますか。妹さんい関わる、ある大切なお話があるんです」


「……大切なお話、ですか?」


「無粋は承知の上です、僕はあなたがグィネヴィアさんであり、カゲトラと恋仲にあるのがナースチェンカという、あなたの妹にあたる人物であることを知っています。そして彼女が偽名として、あなたの名を名乗っていることも」


「な、なるほど。そうでしたか」


「あまり緊張なさならいでください。どうしようという訳ではありません。ただ僕は、単刀直入に申し上げて、カゲトラに妹さんを殺させたくはないのです」


「…………はい?」


「すいません、これでは意味が分かりませんよね。順を追って説明します。まず彼は神国側の保険に過ぎません」


「どういうことですか?」


「あなたはその一言でお分かりのはずだ。儀式の話は当然ご存じですよね、これまで何百何千年と繰り返されてきた儀式です。そして選ばれた者たちが皆、まさかこれまで喜んでその身を差し出してきたという訳でもない。これはそんな綺麗なものではなく、実態は誰もが絶望し仕方がないと自分に言い聞かせることで身を捧げたという、残酷なものです。早い話が、僕ら龍の心臓は依頼されてこの国へ訪れたのです。正確に言えば、依頼を受けたのは復讐神であるカゲトラ。ここまで言えばもうお分かりのはずだ。王女であるあなたなら、その名前くらいは聞いたことがあるはずです」


「汚職と腐敗の殲滅……」


「そうです。それが復讐神であるカゲトラの裏の仕事です。彼は依頼に僕らを同行させこの国へやってきた。今回は生贄の対象である妹君いもうとぎみの監視という簡単なものでしたから、自分一人でいいという判断を彼はしました。ですが……はっきり言って僕は反対だ。だってそうじゃないですか。盟約などすべてインチキなものだ。ナースチェンカさんが、あなたの妹が死ぬ必要なんてどこにもない。だというのに、この国は、カゲトラは、一人の未来ある命を奪おうとしている。カゲトラにしてみればただの依頼です。だが僕にしてみれば、これは殺人だ。カゲトラはこれを必要悪だと言っていました。生贄の選定には職業に《予言者》を持つ魔導師がいることから、何か意味のあることなのだと……」


「……では彼は、妹を騙しているということですか!」


「そう、なります」


「妹は……」


 我慢ならず、グィネヴィアの瞳から涙が溢れる。


「妹は愛した人に騙され、無意味なものに殺されてしまうと……そういう、ことではないですか」


「仰る通りです。僕もそれだけは我慢ならない。だが何を言ったところでカゲトラの考えは変わらない。あるいは火に油を注ぐだけだ。そうなると、誰にもこの儀式を止めることはできない」


「……どうしてですか、あなたが止めてくだされば!」


「無理です……僕ではカゲトラに敵わない」


「そんな……」


「彼は強すぎるんです……僕ら龍の心臓の中で、カゲトラは群を抜くほどに強い。誰も太刀打ちできない」


「では……ではどうしろと言うのですか! この非力なわたくしにどうしろと!」


「だから僕もこの国へ入ってからの数週間、考えに考えを練りました。そして最も確率の高い方法を見いだした」


「それは……」


 悲しみに暮れていたグィネヴィアの表情に、少しばかり意識が戻り始める。


「これです」


 そこでアドルフがローブのふところから取り出したのは、黒い刃の短刀であった。







「儀式を受けないとはどういうことだ!」


 祭祀場の扉を開いたと同時にグィネヴィアに聞こえたのは、司祭の怒鳴り声だった。


「そういえばナースチェンカ、あなた、彼氏ができたんだってね? 風の噂で聞いたわよ」


 ディアナが憎たらしく見下した視線を向ける。


「なんじゃと!」


 予言者の老婆が怒りを向けた。


「なんというけしからん話じゃ、よもやその体、汚れてはおるまいなあ!」


「予言者様だって女でしょうに! 全く経験がないとは言わせませんよ!」


「な、なんという口の利き方じゃ!」


 予言者は顔を真っ赤にして激情した。

 ディアナは口元を手で隠し笑っている。


「グィネヴィア、お前からも何か言ってやれ!」


 司祭の言葉に、グィネヴィアは凛々しい視線を送った。


「お父様、わたくしも反対です。このような無意味な風習は、即刻取りやめるできです!」


「お前まで何を言い出すのだ……それにお父様ではなく司祭様と言わんか!」


「その名で呼ばれるのも今日限りでしょう、この修道院自体がデタラメなものなのですから」


「なんじゃと!」


「予言者様、わたくしは湖でこの世のものとは思えない女性に会い、話を聞きました」


「何の話じゃ?」


「それは妹が知っています」


 グィネヴィアとナースチェンカは目を合わせた。


「私がお話しします、予言者様」


「さっさと話さんか!」


 ナースチェンカティンカーから教えられた話をした。

 話が進むにつれ、予言者は追い詰められたような難しい顔をし始める。


「それに私は、お父様と予言者様、それからディアナ姉様が話している声を聞いたのです。私がダメなら姉を代わりに生贄にすればいいという話を!」


 傍にいたディアナが表情を歪ませた。

 司祭は荒ぶる。

 予言者は怒りの形相を向けた。


「ぬ、盗み聞きしよったのか!」


「そんないい加減な話、私は受け入れません! この悪しき風習は即刻取りやめるべきです!」


「くぬぅ……衛兵、衛兵、この者らを拘束せよ!」


 予言者は声を張り上げた。

 命令により祭祀場の扉が開き幾人もの衛兵が姿を現す。


「ナースチェンカとグィネヴィアを拘束するのじゃ!」


「そんな!」


「これはやりすぎです、わたくしは認めません!」


 二人は体を押さえつけられ、その場で身動きが取れなくなった。


「認めぬも認めるもないわい、儀式は絶対じゃ! 端からお主のようなひよっ子の出る幕はないのじゃ!」


 グィネヴィアの発言は踏みにじられた。

 床に頬をつかされ、視線の先には同じ体勢にあるナースチェンカの顔がみえる。


「ナース、チェンカ……」


「お姉さま……」


 二人は手を伸ばし合う。

 だが届きそうにない。


「――ぐはっ!」


 だがその時、衛兵の苦しむ声が聞こえた。

 直後、次々と同じ声が聞こえ、二人を捕えていた衛兵がバタバタと倒れていく。


「ど、どういうことだ……グィネヴィアが、二人?」


 それはカゲトラであった。


「お主、何者じゃあ! どこから入ったあ!」


「どこからって……正面から?」


 予言者の怒気など難なく交わすカゲトラ。

 彼は天然でもあった。


「カゲトラ様、私です……」


 カゲトラは立ち上がる彼女を見た。


「グィネヴィア?…………グィネヴィア!」


 気づいたカゲトラは彼女の手を取る。

 だがそれはナースチェンカのものだ。


「でも、だとすれば彼女は誰だ? すごく君に似ているけど……」


 カゲトラは戸惑った。

 手を繋いでいる目の前の女性が彼女であることはわかっている。

 だがもう一人の瓜二つな女性は誰なのだろうかと、混乱し整理がつかない。

 視線が右往左往している。


「カゲトラ様、私はグィネヴィアではないのです」


 ナースチェンカはカゲトラの手を強く握った。


「グィネヴィアはお姉さまの名前なのです」


「お姉さま?」


「はい。私は妹で、名を――」


「――ぐっ!」


 ――その時、カゲトラの口から大量の血が飛び散った。


「……え?」


 ナースチェンカの絶句が漏れる。

 吐血はすべてナースチェンカの顔と服にかかり、カゲトラの体は徐々に斜めへ倒れていった。


「カゲ、トラ、様?…………カゲトラ様!」


「ごふっ!……」


 床に倒れたカゲトラの手を握るナースチェンカ。

 カゲトラは胸を押さえ悲鳴を上げた。


「妹をたぶらかした罪です。ナースチェンカは殺させません!」


 ナースチェンカは見上げる。


「お姉、さま?……」


 そこには、黒い刃の短刀を手にやり遂げた者の表情で微笑む、グィネヴィアの姿があった。


「お姉さま、これはどういうことですか!? カゲトラ様、しっかりしてください!」


「――がはっ!」


 カゲトラは止むことなく、激しい吐血を繰り返す。


「ナースチェンカ、あなはこの人に騙されているのよ! 良く聞いて、彼はあなたを愛してなんかいないの。彼はお父様たちが雇った、儀式の協力者なのよ?」


 グィネヴィアは諭すように声を低めた。

 彼女が受け入れ切れるか心配なのだ。


「なんじゃと!? グィネヴィア、それはどういうことじゃ!」


 そしてグィネヴィアの姉としての表情は、予言者の問いによる歪みを見せる。


「……へ?」


「グィネヴィア、説明しなさい。これはどういうことだ!」


「だから! お父様たちが彼を雇って!――」


「我々がこのような者を雇った!? 一体誰がそんなことを言ったのだ?」


「へぇ?……」


 グィネヴィアは声を詰まらせた。

 自分でもどういうことなのか分からなかった。

 3人に疑いの眼差しを向けられ動揺は増すばかりだ。


「カゲトラ様、しっかりしてください!」


 ナースチェンカには姉を追及している余裕などない。


「お父様、カゲトラ様を助けてください!」


「――お見事」


 その時、拍手が聞こえた。

 カゲトラの悲鳴以外が静まり返る祭祀場に軽快な拍手の音が響く。


 一同は視線を祭壇の陰へ向けた。

 姿を現したのは――。


「アドルフ様、これは一体……」


「お見事……いやあ、実に見事だよ、グィネヴィア。ん、発音はこれで合っているかい?」


「どういうことかと聞いています!」


「いやいや、僕が柱から出てきた時点で君は気づいただろう? いや、もっと前か。教祖ぶったアホな父親に問い質された瞬間、だね?」


「……わたくしを、騙したのですか?」


 グィネヴィアは怒りに震えた。


「皆まで言わせるなよ――」


 アドルフは低い声で告げた。

 直後、グィネヴィアは力を抜かれたように倒れた。


「お姉さま!」


「少し威嚇しただけでこれか……。神国の王女とは名ばかりだ」


 グィネヴィアはアドルフの気合と自身への失望により倒れた。


「アド、ルフ……」


 カゲトラの声だった。


「カゲトラ様?……」


 カゲトラは吐血しながらもナースチェンカの肩を借りゆっくりと立ち上がった。

 一人で体を支え、震える足を引きづりアドルフへ一歩ずつ近づいていく。


「驚いたなあ、流石は勇者だ」


「何を、した……」


「何って?」


 辿り着いたカゲトラは、アドルフの肩を掴み右手の人差し指を彼の目前に向けた。


「……やってみろよ」


 だがアドルフは動じず――。


「んっ……」


 カゲトラの指先は小さな火花が飛び散る程度に終わった。

 彼はアドルフの肩を掴んでいられなくなり、そのまま彼の足元で崩れ落ちた。


「カゲトラ様!」


 駆けより手を取るナースチェンカ。


「僕が君に何をしたのか、今の一瞬で分かったろう?」


「……君の名前を、教えて、くれ」


 カゲトラはもはやアドルフなど見ていなかった。

 求めたナースチェンカだ。


「……ナースチェンカです! カゲトラ様、私の名前は、ナースチェンカ!」


「ナース、チェンカ…………いい、名前だ」


 カゲトラはうつ伏せになりナースチェンカの手を取り、もう一方の手で彼女の頬にやさしく触れた。

 触れた手は力なく、彼女の頬に飛ぶ散った自分の血をなぞる。


 アドルフは横たわるカゲトラへ背を向けながら、祭壇を下りていった


「そうだ、君は魔力を失った」



 微かに意識を繋ぐグィネヴィア。

 アドルフは彼女の傍に落ちていた黒刀を拾い、ふところにしまった。


「悪く思うな。悪いのは全部、ゼファーなんだから」


 カゲトラにはもう聞こえていない。

 彼はアドルフが打ち明けている最中も、ずっとナースチェンカを見つめていた。

 彼女の頬に触れ彼女を感じていた。


 だがその時はいつかは訪れる。


「カゲトラ、様?…………カゲトラ様!」


 ナースチェンカの悲痛の叫びが聞こえた。

 アドルフは背を向け見ようとはしなかったが。


「お別れだ……友よ」


 ナースチェンカの頬に触れていた手が滑り落ちる。

 カゲトラは息を引き取った。


 ナースチェンカは何度もカゲトラの名を叫び呼びかけた。

 だが返事はない。

 彼女の悲鳴が鳴りやまない中、アドルフは最後に言った。


「グィネヴィア、よくやってくれた。お礼に君たちをしがらみから解放してあげよう」


 アドルフはダンジョンの渦より半身の杖を取り出した。

 先端に蛇女を模した白い大杖だ。


 それを宙へ投げ上げると、杖は空中で制止する。

 直後、杖の先端でとぐろを巻いていた蛇の尻尾が肥大し、祭祀場内の長椅子を押しのけ巨大化した。

 見る見るうちに杖は姿を変え、それは巨大な白い蛇女となった。

 先端に彫られていた像そのものだ。


「レヴィー、頼んだよ」


『はい、わか


 白い蛇女は祭壇で怯えている司祭と予言者、そしてディアナを睨みつけた。


「な、何よ……なんなのよ……」


 ディアナは怯えながらも声を発し、二人は硬直して言葉も出なかった。

 3人の悲鳴が場内に響き渡り、すると後には彼らの姿はなかった。

 舌なめずりする白い蛇女の姿以外は。


「何が予言者だ。自分の死もろくに予知できないくせに」


 そう言い残し、アドルフはその場を去ろうと再び歩き出す。


「行くよ、レヴィー」


 声をかけられた蛇女は凄まじい勢いでアドルフの手に吸い寄せられ、収まる頃には姿を杖へ戻していた。


 だがその時だ――。


「しつこいドラゴンだ」


 天井の屋根が一瞬で全壊した。

 轟音が鳴り、空の丸見えとなった天井の先にあったのは、大きな白いドラゴン――ティンカーの姿だった。


「見逃してやった僕の気持ちが分からないのかい? 僕はカゲトラ以外を殺すつもりはないんだ」


 だが怒りの形相で睨みつけるティンカーには、アドルフのふざけた言葉など入ってこなかった。

 彼女は泣きじゃくるナースチェンカと、傍に横たわるカゲトラの姿で状況を理解した。


 ティンカーは力任せにアドルフへ長い尻尾を叩きつけた。

 何度も、何度も。

 アドルフは溜め息をつきながら片手でいなし、あしらった。


「話も聞けない状態か、困ったなあ」


 アドルフが愚痴をこぼした直後、ティンカーの背後に向けて、上空から白い水の一閃が二つ落ちた。


「ぐはっ!――」


 上空で、二枚の翼がティンカーから切り離された。

 翼を失った彼女の体は収縮し、人の姿となり地上へ落ちた。


「罰としてこの翼は貰っておくよ」


 上空に現れた巨大なダンジョンの渦に回収され、二枚の銀翼は消えた。


「ティンク!」


 ナースチェンカは彼女へ叫んだ。

 だがティンカーは翼を奪われた反動で動けない。


 翼はドラゴンの命であり、生命力の象徴であった。

 ティンカーは今、生まれて初めての感覚に襲われていた。

 人間で言えば足を奪われるようなものだが、その比ではない。


「ドラゴンたるゆえんを失ったドラゴン……。三大龍が一角、ティンカー・グウィン・ベル・ベクシンスキー……だがもはや、君は龍でもなんでもない」


「……くっ」


「飛べないドラゴンはドラゴンですらないよ」


 地に這いつくばり、ナースチェンカに手を伸ばすティンカー。

 言葉を振り絞ろうとするが力が出せない。


「命までは取らないよ。……そうだ、一ついい案が浮かんだ。いずれにしろあの3人には会うことになるんだ。そしておそらく、クックックッ……僕は隠し通せない。隠せる気がしない。隠したいと思っていないからね」


 アドルフは引き返した。


「先にこちらを片づけよう」


 そう言って近づいたのはグィネヴィアの元だった。


「グィネヴィア、もう一つ頼まれてくれるかい?」


「…………誰が、あなたなどの頼みを聞くと?」


「君だよ。世間に一部始終を公表してほしいんだ。そしたら3人はここに戻って来るから」


「……」


「内容はこうしよう。――英雄カゲトラ。神国の王女をたぶらかした罪により、処刑! クックックッ……僕にはバノーム通信とのコネがないから、後は頼んだよ、王女様。そうだ、合成でカゲトラをはりつけにしようか。実際に用意するのは手間だけど、合成ならいくらでもできるだろう? 絶対にバレないよう細部に拘ってほしいと伝えてくれ。これでゼファーも怒り狂って必ずここに来るはずだ」


「あなたはどこまで……」


「言っておくが、歯向かおうなんて思うなよ。僕はあまり忍耐強くないんだ、次はナースチェンカを殺すよ?」


「……」


「さあ……早く、行け」


 グィネヴィアは逆らえず、黙って命令に従うしかなかった――。


 こうして、神国は人知れずアドルフにより落とされた。

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