第299話 6年待ちの食卓

 頭全体を包み込むフルフェイス仕様の仮面は、人間の頭蓋骨を模しているようだ。


 だが口元は鋭い無数の歯を剥き出しにした獣のようである。


 額より捻じれた二本の角が、後頭部へ向けて歪曲して伸びていた。


 ゆらゆらと揺れる蝋燭の火が、その異形の顔を照らしている。


「何?……」


 ユリアスも気づき、恐怖と疑問をこぼした。


 だが佐伯が「待て」とでも言うように、静かに小さく片手で静止する。


 二人へ異形は呟いた。


「家族団欒だんらんとは、何とも和やかな時間だ」


「誰だと聞いている!」


 佐伯は勢いよく立ち上がり、手元のナイフを異形へ向けた。


「……行儀が悪いなあ、娘の前だろう」


 異形は怪訝けげんそうに言った。


「それは肉を切り分けるためのものだ」


 佐伯の表情が微かに力む。

 まるで見えない力に押さえつけられているようだ。


「下げよ」


 ナイフを握りしめる佐伯の手が、カチャカチャと小刻みに揺れる。

 揺れながら、ナイフは下げられ、体を震わせながら佐伯は椅子についた。

 奥歯を強く噛みしめた時のように、表情に力が入っており、席についてからもガタガタと震えている。


「あなた、どうしたの?」


 恐々と夫を見つめるユリアス。


「……じっと、していろ」


 まるで首でも絞められているかのように、苦し紛れに佐伯は伝えた。

 額からは汗が流れている。


「そうだ、それでいい。引き続き食事を楽しめ」


 佐伯は言われるがままだ。

 首からかけたナプキンの位置を整えると、フォークで肉を支え、ナイフで器用に切り分けた。


 だがその表情は目に血管が浮き上がるほどの力が入ったもので、全身は力んでいる。

 体も、顔さえも動かせないようで、視線は肉へ固定されていた。


 佐伯の体は異形によって動かされていた。


「……パパ?」


 アリアも異変に気付き始めた。

 父親の様子に、不安な表情が見え始める。


 佐伯は切り分けた肉をフォークで刺し、腕を振るわせながら口に運んだ。


「そうだ、噛め。それが食事だろう?」


 異形は、肉をゆっくりと噛む佐伯をしばらく見つめていた。


 その緊迫した空気に使用人たちは身動きができず、息をすることもままならず、ただその場に立ち尽くすしかない。


 佐伯が肉を飲みこんだところで、異形は口を開いた。


「右も左も分からず召喚され、この世界へ迷い込んだ賢者――佐伯。そんな17歳の少年も、今ではお偉い聖騎士長様だ。貴族の妻を迎え、愛娘が一人。何とも輝かしい、美談と栄光に満ちた英雄的人生だ。すれ違う国民は、みな、お前の姿に親しみある笑顔を浮かべ、深々と頭を下げる――“佐伯様、こんにちは”。すると貴様きさまおごるわけでもなく、差別なく言葉を返す――“お体に気を付けてください”――そんな、人情味に溢れる一言を添えてなあ」


 異形は数秒おいて、突然に高笑いした。


 その姿にアリアの表情が急激に強張った。

 全身の筋肉が縮こまる。

 彼女は席を立ち、逃げるように隣に座る母ユリアスへくっついた。

 母親は娘の手を握りしめ抱き寄せた。


「魔術もまともに使えぬただの子供が、6年で公爵とは。グレイベルクは相変わらずままごとを続けているようだ。アリエスの時代から何も変わっていない。知っているか? グレイベルクという血は、際限なく穢れているのだとか。かつてこの国の王子であった者は私にそう言った。甘い汁をすするためなら誰でも平気で虐げ、利用する民族なのだと。佐伯、貴様もその一端を担っている」


 テーブルのワインボトルがふわっと宙へ浮いた。


 白き異形の元へ辿り着くと、コルクがきゅきゅっと音を鳴らし封が開かれる。

 ワインを手に取ると、異形は仮面の上から口へ流し込み、美味そうにごくごくと喉を鳴らした。


 そこで部屋の扉が開いた。

 アリシアが姿を現す。


「アリシア……」


 ユリアスは振り返り名を呼んだ。

 助けを求めているのだ。

 だがアリシアは無言で立ち尽くす。


「こいつと廊下ですれ違ったことが、お前の運のつきだ。ユリアス・ファインゴールド。いや、現在の姓は佐伯だったな。アリシアに背中を押され、親の反対を押しきり、どこの馬の骨とも知れぬ平民と一夜を過ごし、子を成しちぎりを結んだ。娘が生まれ、夫はしばらくして聖騎士となり、今では聖騎士長。親族からも認められ、順風満帆な人生と言えよう。だがそのすべてはあまりにも運がない。破滅への一途でしかない」


 ユリアスはすぐには話を理解できなかった。

 恐怖ゆえに話が入ってこないのだ。


 だが長々と語られる言葉の羅列は、徐々にユリアスの中へ流れ込む。


 ふと、ユリアスはそれらの言葉の違和感に襲われた。


「なぜ、それを知って……」


「必然的な身の破滅だ。何故ならそこには、貴様の意思など微塵も存在していないのだから」


 流れ込む言葉。


 理解。


 沈黙。


 ユリアスは目を丸くし、呆然ぼうぜんとした表情でアリシアを見た。


「アリシア?……」


 察しのいいユリアスは気づく。

 

 この侵入者の手引きをしたのはアリシアだ、と。


 何故ならユリアスは、佐伯との出会いの物語をアリシア以外には話していないからだ。

 当時の想いは、佐伯にすら話していなかった。


「なんとか言って?……」


 蝋燭の火が、アリシアの冷たい瞳を照らした。


 そのわった暗い瞳に、ユリアスの表情は固まった。

 直後にあったのは諦めだ。裏切られたのだと知った。

 もう言葉も発せられない。


 アリシアの体が服の下でうごめいた。

 彼女の姿が徐々に変形していく。


 鼻柱に散らばっていたそばかすが消え、茶色の短い髪は薄れ、真っ白な長い髪が現れる。

 頭には二つの尖った耳、そして豊満な肉体が戻り、9つの尻尾が背中より扇状に開かれた。


「獣人?……」


 ユリアスは理解が追いつかなかった。

 これまで人間だと思い接してきた。獣人だとは聞かされていなかった。


「アリシアは狐族の亜種だ。佐伯、私が誰だか分かるか?」


 ユリアスの様子を鼻で笑い、異形は佐伯へ訊ねる。


「……アマデウス」


「正確ではない。お前はいつも微妙に間違える。悟り切った表情と口調。自分の考えに微塵の疑問も抱かず、無知ゆえに確信している。その一端をこれから教えてやろう」


 アマデウス――政宗は、佐伯が自分を認識したところで、アリシアへ目線を送った。


 それは一瞬であった。


 悲鳴すら聞こえぬほどの一瞬だ。


 テーブルの周囲で立ち尽くしていた使用人たち

 彼女らの首が、突然に血を撒き散らせ弾け飛んだ。


 天井へ吹き上げる鮮血は、テーブルの料理にも飛び散る。

 数分前まで幸せに満たされていたはずの空間は一変した。


「子供が絵具で遊び散らかしたと言えば、衛兵に見せても呑み込んでもらえるだろうか?」


「アマデウス様、流石にそれは難しいかと」


「ふっ、無理だろうな。せっかくのディナーが台無しだ」


 ユリアスはアリアを抱きしめ、娘の目を手で覆い、見せないようにした。


 だがアリアにはその惨状が理解できていた。

 母親の腕で中で、唇が恐怖と悲痛で唸っている。

 すすり泣きが始まり、沈黙した居間に過呼吸のような吐息が流れた。


 佐伯は怒りの表情で全身を震わせ、横目で睨んだ。


「お前……」


「驚いたなあ。これを悲惨ひさんだと、残酷であると、お前はそう理解できるのか?」


 佐伯は無言のままに睨んだ。

 目をぐっと見開いている。


「悲惨さで言えば、かつてのお前の所業も実に残酷なものだった。だがお前は、この死体の山と過去の悪行の区別がつかない。これはお前がかつてやっていたことと同じだろう?」


「何を言っている」


「逆に聞きたい、佐伯、お前は何をやっているんだ? 娘なんか作って、家族なんか作って。お前がそんなもの作っていいはずがないだろ?」


「黙れ」


は盲目だ。血が見えていない。悟るばかりで理解していない。お前がもたらした残酷は、この肉塊の山以上に生々しく卑劣なものだった。なぜなら今の死は一瞬であったし、こいつらは痛みを感じていないからだ。死人は死を自覚しない。だがお前は、私がこのように説明したところで理解しないだろう。理解していないからこそ家庭まで築けたんだ。お前のような者が人の親になるとは……」 


「――やめてください!」


 ユリアスが声を張り上げた。

 政宗は言葉を止めた。


「一体、何のためにこんな……」


「ユリアス、よせ」


「気の強い女だ」


 政宗はユリアスを無視した。


「関係があるのはお前だけだ。だがお前には、色々と体験してもらう必要がある」


 佐伯は何一つ理解できなかった。

 政宗は佐伯の怒りを他所に、次にすすり泣くアリアを見つめた。


「ユリアス、そしてその娘よ。お前たちはこのシチュエーションのためだけに、ぶくぶくと育てられてきた養豚所の豚に過ぎない。アリシアの支えがなければ、貴様のような臆病者は親に適当な貴族とでもくっつけられ、この国の政治に巻き込まれ死んでいくだけだった。佐伯がアーサー王お気に入りの勇者で良かったな」


 佐伯は背中を沿うような体勢へ促され、縛られた。

 スキル《念動力》だ。


 そこで政宗が左手の指をパチンと鳴らした。

 軽快な響きが居間に散る――。

 と、アリアが片手でぎゅっと握りしめていた熊族の人形――椅子の下でぶらつかせていた人形だ――それが突然に爆発した。


 アリアは音にびっくりして悲鳴を上げた。

 そして自身の右手を覗いた。

 痛みはないが、手の平がべとべとになり何かが滴り落ちている。


 中から飛び出たものは――蝋燭の灯のみしか頼りがなく分かりづらいが――内臓の類だった。


 詰め込まれた腸。


 小刻む心臓。


 死肉。


 精肉売り場の奥から漂う死肉のような臭いが、もわっと居間へ広がった。

 さらに鉄臭いにおいが充満した。


 そこで政宗は詠唱する――。


「《瀉血と臓物の怒りブラッディング・レス》」


 赤黒い光が放たれ、床に零れていた半端な内臓と腸が踊るように動き出し、アリアとユリアスを一瞬にして拘束した。


「ママ!」


 泣き叫ぶアリアは母親に手を伸ばす。


「アリア!」


 我が子の手を掴もうと必死に伸ばした。が、届かない。


 佐伯はまるで口にガムテープでも貼られているかのように、唇をしっかりと閉じながら、椅子の上で地団駄でも踏むように唸っていた。

 ガタガタと椅子の足が鳴る。その場から動けない。


 テーブルを挟み、佐伯の目の前で宙に浮かぶ二人――娘と妻。


 政宗は席を立ちあがると、仮面の顎を右手の人差し指と親指で撫でながら、じろじろとそれらの光景を眺めた。


「状況には理由がある」


 同様にアリアとユリアスの唇を《念動力》で強制的に閉じ、語り始めた。

 喚き声に邪魔されないためだ。


「この世界へ召喚される前、佐伯は……この男は、今まさに私がお前たちにやっていることと、同じことを……俺にした」


 政宗の口調が変わった。


 椅子の上で暴れ狂う、佐伯の動きがぴたっと止まった。


「日常的な罵声が2年近く続いた。片手間に腹を殴られ蹴られることもあった。こいつはそれを仲間と笑い楽しんでいた。こいつにとってはそれが充実した一時だったんだろう。だが俺にとっては、床に落ちたゲロを舐め続けるような日々だった」


 政宗は二人の前まで歩くと、ユリアスに目を向けた。


「あんたが愛した男なんてのはそんなもんだ。鼻髭なんか伸ばしやがって、貴族のフリでもしてるのか……中身は卑劣極まりない。人が苦しみ悲しむ姿を観賞しながら、日々に充実感と豊かさを感じるような男だ。そんな奴が、人の親になれるわけがない。絶対に、あってはならない……」


 政宗は椅子から立ち上がった。

 そして異空間収納から《執行者の斧》を取りだした。


「待て。何をするつもりだ」


 政宗が《念動力》を解いたことで、佐伯は口を開く。


「お前が俺にしたことだ、聞かなくても分かるだろ?」


「待てって……」


 佐伯は茫然としながらも訴えた。

 もう分かっている。目の前の者が誰なのか。

 徐々に想像できた。

 目の前の白き異形が日高政宗ならば、このあと何が起こるのか。


「貴族のフリはもういいのか、必死に練習したんだろ? 偽の貫禄かんろくが剥がれてるぞ」


「ふ、ふざけるな!」


 佐伯は激高した。

 政宗の右手に見える大斧が、佐伯の恐怖心を煽った。


「お前はあの時……死んだはずだ」


「一条は本当に黙っていたのか。律儀な、お優しい奴だよ、あいつは」


「お前はあの時、アリエスさんに飛ばされて」


「そうだなあ。確かに、日高政宗は死んだはずだ」


「…………」


「父親のおぞましい一面を知らずに死ねるんだ。そうだろ? その態度はなんだ? むしろ感謝してもらいたいくらいなんだがなあ」


「やめてくれ……。頼む、やめてくれ。日高なのか? そうなんだろ? 日高なんだろ? だったら謝る、あの時のことは俺が悪かった」


「お前は悪くないさ。誰も悪くない……」


「……」


「俺が無能だっただけだ。お前は悪くない。悪いのは無能な俺だ。そうだろ? お前もそう言ったじゃないか」


「違う、違うんだ。そうじゃないんだ。日高、俺は……」


「この状況も同じだ」


「……」


「今度はお前が無能になる番だ」


 その刹那、政宗は振り向き、大斧で一閃を描いた。


 アリアとユリアス、二人の首をねた。


 二つの頭が床に落ちると、残った首の先から赤い水が飛び出ていた。

 血は床を濡らす。


 その光景を、銅像のように固まりながら見つめる佐伯。

 時間が止まり、二人と過ごしたこれまでの日々が、走馬燈そうまとうのように脳裏を駆け抜ける。

 酩酊めいていしたような意識が、かけめぐる思い出のフォトアルバムの世界をさまよった。感傷。逃避。

 諦めきった者の力ない表情。絶頂を迎えたような表情。

 佐伯の両目から次第に涙が溢れ出し、頬を流れる。


「アリシア、外で待っていろ。直ぐにいく」


 アリシアは政宗へ一礼した。


「アリシア……お前……」


 部屋を出ようとしていたアリシアへ、佐伯は潤んだ絶望の表情を向けた。

 放心状態であり、言葉は途切れた。


「……お世話になりました」


 アリシアは無表情のまま、佐伯へも一礼すると部屋を後にした。


「お世話になりましたか……礼儀ただしいなあ」


 佐伯は異形へ赤く腫れた視線を向けた。

 歯を食いしばり、徐々に頼りない怒りを向けた。


「やはり威勢のいい奴だよ、お前は。今の今で、もう敵意を向けるだけの元気があるんだからなあ。意外と合理的なのか。そこに転がっている死体は死体でしかなく、もう家族ではないってことか? 打ちひしがれ脱力するものとばかり思っていた」


 佐伯は肩で呼吸しながらも、依然として睨み続けた。

 政宗はワインボトルを捨て、佐伯と向き合った。


「お前は今より、この瞬間をさまよい続けることになる。時間は止まったんだ……」


 政宗はマスクが光の粒子となり、金のリングピアスへ形を変えると左耳へ収まった。


 日高政宗としての顔が晒された。

 それは23歳を迎えた、以前よりも少し大人になった者の顔。


「日高……」


 吐息のように、佐伯は名を呼んだ。


「久しぶりだね。


 政宗は証明写真のような顔をしていた。

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